【番外】 過去編その1
うちの旦那は本当に面倒だ。
妻としてどうかと思う発言だけど、いやマジほんとの話ね?
妻を構わな過ぎる旦那というのも多分色々と問題あるんだろうけど、構い過ぎるのも大問題。 特に仮面夫婦――この状況をそう呼んでいいのかは良く分からないけど――だと、殊更に。
「ねぇ、知ってる? あんた、巷じゃあほんとしょうもない旦那って言われているらしいよ」
「――何か問題が?」
私の私室で何故か優雅に茶なんて飲んでいらっしゃる旦那は、不意に投げかけた言葉にそう言って首を捻った。 おう、どこかしこにも問題ありすぎて、どっから言えばいいのかわかんない程にはね!
私は書類に走らすペンを止めて、大きく溜息を吐いた。
この旦那は基本他人様に興味がない。 この人の視界に入ってくるのは多分騎士団の人とか王様とか私とかそんなもん。 そして自分でも言うのもなんだが、私を占める割合が大きすぎて辛い。 ほんと、辛い。
「いや、いいんだけどね? あんたが気にしないなら」
最近は旦那に対する二人称も変わりつつある。 多少持っていたはずの敬意というのがここ数ヶ月のうちに見事に吹っ飛んだ気がする。 なんなんだこの人。 ほんと、なんなんだ。 私、最近この人ただの馬鹿なんじゃないかと思っているんだけど、どうよ。
「エリーが気にするなら、改善につとめるが?」
「どっちかっていうと私が今気になるのはこの状況かなぁ!」
何故夫が妻の私室で! 妻が仕事をしている横で! 優雅にティーパーティーなんだよ。 普通逆だろう。 いや私、旦那の私室に足を踏み入れたこともないけどさ。
しかもね、繰り出されるスキンシップがスキンシップの域を軽く超えているのよ。 もうあれはスキンシップなんかじゃなくてただのセクハラですよ。
いいんだよ? 仕事中にお茶とかお菓子とか差し入れてくれるのは。 でもさ、仕事しながらお菓子つまんだりして(行儀が悪いのは分かってるよ?)、口とかにカスがつくじゃない? いいんだよ? それを教えてくれるのは。 そのままだったらみっともないし、凄く有り難い。 でもね、誰もお前に取れだなんて言ってないんだよ。 自分で取れるんだよ。 100歩譲って取ってくれたとして、なんで口で取るんだよ。 手を使えよ。 お前、ホモサピエンスだろ!? 二足歩行だろ!? なんでいちいち獣仕様なんだよ! 毛皮はぎ取って売り飛ばすぞ!
全くもってついた唾液を拭き取る方が手間だと言うことに、うちの旦那はまだ気がついてくれない。 ほんとあの頭、実は脳内筋肉で出来ているんじゃないかな。 それかスポンジみたいに穴だらけなのかな? そういうことなのかな。 大事な部分が抜けてるのかな?
「……っていうかさ、なんであんた、そんなに私のことが好きなの? 私のことが好きで結婚したとか言ってたけど、私、あんたに会ったことあった?」
「――聞きたいか?」
ティーカップをソーサーに置いて、旦那は足を組み直す。 そうやって黙ってくれていると絵になるんだけどなぁ。 なんで喋るんだろう、なんで動くんだろう。 いっそ剥製になってくんないかなぁ。
……と、この人と居ると思考がついつい逸れる。 聞きたいかって言われたら、聞きたいけど、聞くのが怖い面もある。 だってすっごい笑顔だもん。 多分傍目からは普段とそう変わらない顔に見えるかもしれないけど、あれね、すっごい笑顔。 心底楽しんでいる顔だから、あれ。
「うん、いいや」
私は自分の直感を信じて、首を横に振った。 聞いたら長くなりそうだし、余計なことは知らない方が幸せってこともある。 そういうズルイ生き方は、大人の特権だと思うんだ!
「……あれは、お前がまだ此方に飛ばされてからそう日が経っていない頃。 確か講演会を開くための直談判を陛下にしにいった帰りと聞いた」
アレ、可笑しいな。 この人ついに耳まで可笑しくなったのかな? それとも処理する頭の方がやっぱり駄目なのかな? なんで過去編に突入しようとしてんの! 馬鹿なの? アホなの?
でも私は知っている。 こうなったらうちの旦那は何を言っても聞かない。
だから私は仕方なく旦那を放って、書類に目を落とすことにする。 BGMに何が流れようが気にしない。 聞こえない、あー聞こえない。
***
俺がその女に会ったのは、ある地方領地で起こった内紛を制圧し、無事帰還したとの旨を報告し終えたときだった。
どうやら最近また 『越境者』 が来たらしいという噂は、既に俺の耳にも届いていた。 加えてその越境者が今、陛下と面会をしているとの話を聞けば、どうせまた "彼ら" が何かをやらかすつもりであろうことは容易に予想がついて、思わず小さく舌を鳴らした。
越境者という類の人間は何時もそうだ。
異界からやってきたらしい "彼ら" は、常にこの国を変えていく。 その変化が良い方向に向かうこともあれば、結果的に悪影響を残していくこともあるが、さりとて往々にして、それはこの国の人間にとって目新しく魅力的なものであることに相違なく、本来ならば別段厭う必要性もないのだが――今は少々事情が違う。
「今度はどんな風になっていくんでしょうね、この国は」
横を歩く部下が、不意にそんなことを口走る。 かなり下にある顔に視線を落とせば、何時も以上に堅い表情で悩ましげな吐息を漏らしていた。
「……さあな。 また馬鹿げた戦争が始まるような事態にならなければ、俺はどうでも構わん」
恐らく部下も同じことを憂いていたのだろう。 「そうですね」と短く零した言葉が、静かな廊下に沈鬱と響く。
先の国王がお隠れになり、現国王の政権に移って、ようやっとこの国は落ち着きを見せ始めた。 それまで隣接する国を次々に侵略し、国力の拡大ばかりを図っていた風潮に待ったをかけて、内政に重きを置く現政治体制にどうにか他の貴族も慣れ始めてきた頃であったのを、もしまた妙な技術などを提供されて、その下火になった風潮が再燃してはことである。
被害を被るのは『越境者』が関わる貴族ではなく、実際に戦地に赴く平民や騎士を含めた一部の貴族であるのに、その事態は何時もそんな人間を置き去りにして進んでいく。 俺達はまるでボードゲームの駒のように命じるが間々に動くしかない。
それが嫌ならば騎士団などやめればいいと言う連中もいるが、そうでなければ生きられない連中が居るのが騎士団なのだ。 自分の体で稼ぐしか貧しい一家を養えない者、その腕っ節にしか己の価値を見出せない無骨者――中には志し高く国を守ると誓って此処に来る者もいたが、そういう輩は初陣でその命を散らすか、生き延びて自ら騎士団をやめるかのどちらかがほとんどだ。
それほど、この国の戦争は無意味だったのだ。 内政も整わない状況で、戦争をすればするほどこの国は貧しくなっていく。 潤うのは一部の上流階級のみだという現状は、志一つで耐えきるには重すぎる。
自分はと言えば、勿論貧しいわけでも無く剣の腕を磨くことのみが生き甲斐の人間でもない、騎士団の中では稀有な人種に属していた。 そんな人間が何故騎士団に居残り続けてこられたのかと言えば、幾つかの奇妙な巡り合わせ故なのであるが、それも今となってはくだらないただの意地と成り果てているのかもしれなかった。
頭を巡る自身の思考にそう自嘲じみた笑いが零れる。 微かに上がった口角のせいで、矢が掠めた頬の傷がぴりっと痛んだ。 肩の分も含めてそのうち熱が出るかもしれない。
そんな風に思いながら、廊下を歩いていたとき――。
「ちょ、そこの騎士二人!」
不意に、後方から声が投げかけられた。 それは女のような高い声ではあったが、侍女にしては言葉遣いが荒く、貴族にしては品がない。 何事かと思い、部下共々振り返れば、そこには見たこともない令嬢が憤然とした様子で此方につかつかと歩み寄ってきたのだ。
誰だ、この娘は。
「失礼ですが、貴方は?」
記憶にない令嬢の姿を訝しむ気持ちを汲んだかのように、隣の部下が彼女にそう問い掛けた。
見知らぬ令嬢はその言葉に立ち止まり、部下から俺への順に視線を移した。 そうすると彼女の目は何かに驚いたように見開かれたようだったが、大抵俺を初めて見る女性はそんな風な表情を浮かべてから、顔を赤らめるのが常だったので、特に指摘するような野暮はしなかった。 下手に何かを言って、勘違いされても面倒くさい。 当時の俺はそんな風にすら思っていた。
尤も彼女の方も直ぐに表情を引き締めて、やたらと気の強そうな瞳を真っ正面から此方に向けてきたので、そんなことを言う暇も無かったのだが。
「宮お……あ、違った。 エリナ・ブックマンと申します」
言いかけたのは元の世界で使っていた名か。 教わったままの文章をそらんじるかのように名乗る口振りは少し言い辛そうで、貴族然と響いてはいるもの彼女の雰囲気とはどうにもかけ離れている。
(ブックマン――そうか、この娘が)
部下と二人、顔を見合わす。 この娘こそが、ブックマン子爵家が拾ったという噂の 『越境者』 か。
そう思うと、不意に彼女に興味が芽生え、彼女の姿に頭から爪先まで自分でも中々無遠慮だと思う視線を送る。
顔立ちはたいして見栄えのしそうにないほど薄い。 黒々とした髪とやけに力強い光を秘めた瞳が印象的ではあるが、纏っている服が彼女に余り似合いそうもない薄い紫色を基調としているせいか、どことなく服に着られているように見えて、その印象すら薄れがちになってしまう。
今回の『越境者』は随分と平凡そうな娘だな、と言葉無く語りあう視線を交差させたところで、娘もそれに気がついたのか、「何か?」と眉間に皺を寄せて思い切り此方を睨み付けてくる。
そこで部下の方が、慌てて膝をついた。
「失礼しました。 エリナ様」
『越境者』の身分はこの国で高く、貴族である俺は兎も角として平民出身である部下はそうするのが礼節である。
しかし娘――否、エリナはその振る舞いに、何故か片眉を跳ね上げた。
「怪我している足で膝つくなー!」
「……は?」
きょとん、とした表情で思わず部下がエリナの顔をまじまじと見上げる。
本来ならば許しもなく顔を上げるなどといった無礼は許されるべくもないが、『越境者』の類は悉くその手の礼節を気にしない。 エリナもまた同様に、部下が顔をあげたことよりも部下が保ち続けている体勢に、その怒声を上げた。
「いいから立て! 今すぐ立て! それからそこのちょっと偉い風の人も頬の傷! ちゃんと洗ったの!? なんで腫れてるの? 膿み始めるよ? 熱出るよ? 死ぬよ?」
いきなり矛先が此方に向いてくる。 幾人かの『越境者』を知ってはいるものの、ここまで初対面で怒鳴りつけられたのは始めてだ。
呆然とする俺をよそに、エリナは一気にそう捲し立てると、部下を無理矢理立たせて、相変わらず憤然した様子で腰に手を当てた。
「いーい? この国の医療基準がものっすっごく低いことはよーくわかってる。 だから私がこれから言うことを良く聞いて」
「え?」
この越境者は一体何を言い始める気なんだ。
唐突過ぎる言動に戸惑う俺達を置き去りに、彼女はびしりと細い指先を突きつけた。
「まず第一、傷口はきちんと洗うこと。 第二、焼きごてで傷を焼いて止血しないこと。 傷口は衛生環境を保ち、かつ止血は圧迫止血! これが基本だからね? 貴方達、その服装から見るに騎士団よね?」
「――如何にも」
彼女の勢いに押されるが間々、なんの疑問も挟めずに俺と部下はそう言っておずおずと頷いた。
「だったら今すぐ私について来なさい!」
否の回答など決して許さないと言わんばかりに高圧的に彼女はそう言って、踵を返してさっさと何処かへ向かい始める。
一体何が起こっているのかさっぱり見当もつかず、貴族らしさの欠片もない言動の割にやけにこなれた上から目線が鼻にもついた。 或いは無視して立ち去ってしまうという選択肢もあったのかもしれない。
しかし立ち止まって呆然としていた俺達に振り向いた彼女が 「早く!」 とせかす声は、高圧的でありながら緊急性を孕んでいるようにも響いて、つい条件反射で後を追ってしまった足は結局止められないまま、何故か俺達はこの見知らぬ越境者のあとを律儀に付き従った。
***
彼女の目的地は、この国ではあまり重要視されていなかった医師団の研究室であった。
騎士団に所属しながらその実、初めて入室したそこには嗅ぎ慣れない妙な匂いが漂っていたが、何よりも眼前に広がる光景が俺の目には異様に映った。
そこには騎士団のおよそ半分ほどの人間がひしめき合って、医師団の人間やメイドから (医師団は3人しか居ないので手が足りなかったのだろう) 甲斐甲斐しい手当を受けていたのだ。 しかも焼きごてや油を流し込むような一般的治療ではなく、傷口を水でこれでもかというほど洗われている。 膿や壊死している部分をとるように洗っているのだろうか。 かなり力をいれているようにも見える手つきに、団員達は痛そうに顔を顰めている。
部下がぎょっとしたような表情を浮かべて、彼女の方を見やった。
「えっと、これはどういった状況なんでしょうか?」
「見れば分かるでしょ。 傷の手当て中です!」
「……これ、が?」
新手の拷問にしか見えない、と言わんばかりに部下は顔を青ざめさせた。
焼きごてや油も中々の拷問ではあるが、しかし一応血は止まる。 されどこんな風に傷口を水で洗うことに一体どれほどの意味があるのかどうにも察しかねる――これもまた 『越境者』 の持つ不思議な知識なのか。
横にいた部下は既に医師団の一人に、カーテンの向こうに連れて行かれてしまった。 「あんたも!」と引かれた手に、俺は初めて抵抗をみせた。
「……俺の傷は別にこのままで構わん。 何時ものことだ。 別に死なん。 それよりも他の、」
「は、馬鹿なの? いーい? あんたたちの "何時も" はもうおしまいなの! 死にたいの!? 傷舐めんな」
「だから、俺は……」
「うっさい、黙れ」
果たして、『越境者』 というのは此処まで迫力のある人種だっただろうか。
無理矢理に衣服を剥がされ、露わになった体にエリナが形の良い眉を顰める。
俺は血が滲む包帯を隠すように、その部分を手で覆った。
「女が見て気持ちが良いものじゃない。 見ての通り俺は身体が強い。 治療するならまず部下の治療を……」
「女でも男でも、そんな傷見て気持ちがいい人間はいないし、体が強かろうが弱かろうが、人間死ぬときは死ぬの!」
ぴしゃり、と言葉を途中で切られ、エリナは口振りの割には随分と慎重な仕草で包帯を剥がしていった。
矢に刺された肩は、止血代わりに油を流したせいで傷口が酷く焼けただれている。 大量の出血は止まってはいるものの、火傷のせいで周囲の皮膚は剥がれて、血が滲む。 傷口から微かに漂う匂いは膿のせいだろうか。 そんなことをと他人事のように考えていると、不意にエリナが言った。
「あのさ、あんた達ってこの国守っている人達なんでしょ? なんで自分の身をかえりみないわけ? 自分を大切にしないわけ? アホなの? 死んで守ることに価値があるとか思っちゃってる自己陶酔タイプ? 言っておくけど、そんなのちっともモテないからね」
「別にモテたいと思っているわけでは……」
「黙れ」
――本当に『越境者』というのはこうも理不尽な人間だっただろうか。 彼女は桶一杯の水を持ってくると、中に沈めてあるカーゼの水を搾り取らないまま、不意に傷口にそれをあてがった。
激痛が、走る。
「っ……ちょっと待て、これは塩水じゃ……」
「私の世界じゃ、生理食塩水で洗うのが対処法なのよ。 ほんとはもうちょっと大がかりにやりたいけど、此処はまだそれが出来るほど設備整ってないしね。 取り敢えずその汚い傷口洗うから我慢しなさい」
部下達の苦痛の表情は、この塩水のせいか。 傷口に塩を塗り込むということわざは彼女の世界にはないのかもしれない。
教えてやろうかと思ったが、思いの外真剣な表情をしながら作業に取り組んでいるエリナの表情に、俺は結局口を噤んだ。
「あんた、偉い人?」
「――偉いかどうかは分からないが、騎士団長だ」
エリカが傷口をガーゼで洗う痛みに耐えながら、そう答える。
「そ。 なら一応安心していいわよ。 あんたの部下は順番にこっちに来るようにもう言ってあるから」
「……そうか」
悉く途中で言葉を遮った割に、彼女は俺が懸念していることが分かっていたような素振りを見せた。
貴族である俺は、"神" というやつに守られているせいか、多少の傷で死ぬことはない。
しかし平民出身が多い部下達には、そういう "多少の傷" で死んでしまう奴も多い。 死線から帰還しても、安心しきれるわけではないのがこの国の現状だ。
もし、万が一にでもこの『越境者』が必死に動かしているその手の意味が、"治療" ならば、俺よりも余程必要としている奴らがいる。
彼女がその本意を理解しているかは兎も角として、俺は僅かな安堵を覚えた。
「あんたも馬鹿ね。 部下を守りたいならもうちょっとマシな守り方しなさいよ。 敵倒すことばっかりに頭働かせてないで、もうちょっとこう傷口への対処法とかそういうのに頭働かせなさいよ」
「最低限の止血方法は心得ている」
「焼きごてレベルから脱却しろ」
「……」
それ以外の止血法など知らない俺は黙って彼女のなすがままになる。
傷口から漂っていた嫌な匂いは何時の間にか払拭され、彼女の髪からふわりと薫る花のような何かが鼻を掠めた。
「まあこの国じゃあ、焼きごてするぐらいしか止血出来ないのは分かってるけどさ。 それじゃあ余りにも一長一短だってあんただって分かっているんでしょう?」
「分かったところでどうにかなる話ではない。 既存の技術に頼る以外にどうしろと」
「既存の技術を発達させようっていう気はないわけ?」
「――この国は、医療技術に重きを置いていない」
この国はそういう国だ。 否、国だった。
現国王が即位してからその風潮は変わりつつあっても、進歩はそう簡単に進むものではない。 戦場であっても国内であっても、大して差のない医療技術に騎士団の人間はわざわざ医師団を頼ることもしなかった。
エリナは呆れたように顔を顰め、何か言いたそうに口を開いたが、結局何も言わないまま直ぐにそれを閉じて、暫くは黙って傷口の手当てとやらを続けた。
そうやってどれくらいの時間が経ったのかは知らないが、やがて真っ白な包帯やガーゼで肩と頬が覆われた頃には、彼女が前にかけていた白いエプロンは食塩水で酷く濡れているようだった。
「はい、お終い! まあ、私もそんなに優秀な人間じゃないし? 此処じゃ出来ることも限られているからあんまり豪語出来ないけど――また怪我したら、あんたもあんたの部下も、出来る限りちゃんと治せるように頑張る」
「……心強いのかなんなのかいまいちよくわからん発げ……」
「黙れ――まあだから私があんた達を大事に手当してあげるんだから、あんた達も自分を大事にしなさいよ。 あんた達自身も守っている国の一部だってこと、忘れんな?」
仏頂面や怒ったような表情ばかりを浮かべていた彼女がそう言って不意に笑った表情は、まるで花が綻ぶようで。
――その一言と笑顔に俺は落ちた。
***
「ちょっと待て、凄く待て」
聞いてないふりをしていた私はついに耐えきれなくなった。 なんなの、今の何処に落ちるポイントがあったの!? てか普段あんまり話さないせいか、語り口めっちゃ下手だな、おい!
「……何処かに疑問があったか?」
「いや、疑問ありまくりだけど!? 確かにうっすら思い出したわ、思い出したからこそ言うけど、基本私あんたに怒鳴ってたよね? 大丈夫? 思い出補正とかないよね?」
「まあ確かに大方は怒鳴ってたな。 だからこそ、初夜にやけに丁寧な口調で話しかけられたときは心底不気味に思った」
「それが原因か!! って違うよ。 なんで? なんで怒鳴られてばっかりなのに落ちたの? Mなの? Sとみせかけて、実はMだったの!?」
「いや俺は、エ……」
「五月蠅い、黙れ。 聞いてない。」
理不尽と言われようがなんだろうが、そんなカミングアウトは必要ない。 むしろ聞きたくない。 どちらかなんて知りたくない。
思わず強く握りしめてしまったせいでみしりと音を立てたペンを置く。
「あのさ、正直さ、一目惚れかなぁとかちょっとうぬぼれてたわけ? ほら自分で言うのもなんだけど、蓼食う虫も好きずきって言うし! でもなに、最初の第一印象。『平凡』って!『服に着られてる』って! 喧嘩売ってる!? こなれた上から目線で悪かったわね!」
「――今の俺にはどんなお前も輝いてみるから問題ないだろう」
「そこじゃないから。 それはそれで問題ありまくりだから! てかあんた、結構簡単に落ちるな!? わりかし言い尽くされたフレーズだと思うよ? あんた達が国の一部なんて当たり前じゃん! 国は人が作るなんて、しょっちゅう言われてたよ? 私の世界じゃ」
まあ、それはまごう事なき真実だとは思うんだけど。 結構言われるよね? よく戦争物の漫画とか読んでると良く言うよね? 『今、戦争で死んでいった人間もこの国の一部です!』 とか。 いやあ何度聞いてもいい台詞だと思うけどね。 その通りだと思うけどね!
おいこら、話聞いてるのか? なんでちょっと嬉しそうに微笑んでるんだよ。 もういいよ、そのまま剥製になってよほんと。 そしたら私、旦那のこともうちょっと好きになれると思うんだ!
「まあ今のが不満なら、俺がお前に惚れたのは運命だったという結論でどうだろうか」
どうだろうかって何。 駄目ですけど? 全力でそんな運命拒否しますけど……!? 多分誰も納得しないよ? それで納得してるのあんただけだよ?
ねぇ、ちょっと聞いてる? 私のこと、大分人の話聞かないみたいに言ってたけど、あんたも大概だからね? なんで後ろから手を回すの。 なんで抱きしめるの。 なんで髪の匂い嗅ぐの!?
ほんと、この人絶対私に構い過ぎ。
――とはいえ一々拒否するのも面倒なので、旦那のさせたいようにさせておく私もいけないって事は自覚してるんだけどさ。
私はそんなことを思いながら、深い深い溜息を吐いた。