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「彼氏が浮気しているみたいなんです」
「受けたい志望校のランクに手が届かないんです。でもその大学には入っておけって親が言うから」
「どれだけ頑張っても部活のレギュラーに入れなくて……」
「そうかい」
翌日、僕はいつもと同じように長年乗っているSUVの車を走らせて、勤め先である桜ノ宮学園高等学校に向かっていた。
桜ノ宮学園のあるN市は坂の多い町として有名だ。平らな土地も少なく、加えて中央を路面電車が走るこの町は車をもつのも大変だが、あちこちに出向くことも多い教員という仕事では、もたないでいることも難しい。
国道の太い道から外れ、急な坂を車で上ること数分のところに、桜ノ宮学園はある。駐車場に車をとめて、生徒用に比べると、いささか無機質な玄関をくぐる。
「杠先生、おはようございます」
「おはよう」
七時十分。僕が職員室に入ると、何人かからあいさつをされた。始業は八時十分からだけど、早く来る教員はたくさんいる。
僕の机は入り口から離れたところにある。机に向かっていると、佐伯が声をかけてきた。
「先生、先生」
「何?」
佐伯は春に大学を卒業して、就職したばかりの若い女の教員だ。社会人になって二か月。男子生徒たちには人気で、職員室の中での彼女の評判も悪くない。
曰く、若いのに朝早くから学校に来て、仕事も熱心にやっていると。でも僕は彼女のことがどうしても好きになれなかった。
彼女を視ていると、その裏の浅ましさが透けて見えるのだ。そして、その奥にある感情も。
「また来てますよ。悩み相談」
彼女はなぜか嬉しそうに、僕に報告してきた。薄桃色のリップを塗った口を吊り上げるようにして笑っている。彼女を好ましく思う相手であれば、満面の笑みと言うのだろうが、僕にはそれが醜悪なものに思えた。
佐伯は四月に就職してからというもの、僕に執拗につきまとっていた。職員室には他に若い男の教員が何人もいるのに、わざわざ今年で四十になる僕にからむのだ。
同じ国語科を担当しているせいで、席も隣。正直、煩わしさも感じている。
「そう」
「ちょっとぉ、反応軽くないですか」
僕は彼女に軽く手を上げて答えると、佐伯はわざとらしく頬を膨らませた。僕は佐伯を無視した。
相談の有無は机を見ればわかるし、人の机をわざわざ覗いたと言うような彼女の発言は正直頭を疑う。
机の上には、裏返しにされたB6の紙が三枚。僕はさっと表を確認すると、カバンを手に持ったまま職員室を出た。
*
職員室を出て左手の突き当りにある小さな部屋が、佐伯が言うところの“悩み相談”の場所だ。
学校が僕のために用意したこの部屋の前には、縦長のホワイトボードが置いてある。札のかかったホワイトボードには、
“不安相談室 担当:杠 秋”
と書かれてラミネートされた張り紙がされてある。
B6の紙に書かれた生徒たちの学年とイニシャルをホワイトボードに書き込む。“不在”の札を“在室”に裏返す。ポケットに入れていた鍵束の中から部屋の鍵を選んで、扉を開けた。
入口脇の明かりのスイッチを押す。背の低いテーブルをはさんで二つのソファが置いてある部屋だ。もともとは資料庫だったからか、壁には灰色の棚がはめられている。そのせいで狭い部屋が、余計狭く感じる。
入口と向かいになっている方のソファに腰掛けて、机に置かれていた紙の内容を読む。部活、恋愛、受験の悩みがそれぞれ書かれていた。
多感な高校生にはよくある相談事だ。朝のうちに一人くらいは来るだろうと考えていると、部屋に近づく足音が聞こえてきた。
コンコン、と控えめなノック。この部屋の窓はすりガラスになっている。廊下が見えないようになっているが、影くらいは見える。多分女子だ。
「どうぞ」
ソファに座ったまま声をかけると、ゆっくりと扉が開かれた。顔をのぞかせたのは、眼鏡をつけた気弱そうな少女だった。
「衣川美咲さん、であってるかな?」
「は、はい」
座って、と僕が言うと衣川さんはしばらくためらった後に、おずおずとソファに座った。ぼふと体が沈み込むような感覚に、衣川さんがびくりと肩を震わせる。
彼女から、不安や迷いといった感情が見えた。雰囲気も気弱そのもので、けれど、と僕は衣川さんが出していた紙を上にする。
「まずは初めましてだね。僕は杠 秋と言います。担当教科は国語。今日はよろしくね」
「知ってます。杠先生はこの学校だと有名ですから」
せわしなく視線を左右に泳がせながら、小さな声で衣川さんは言う。心の中だけで僕は苦笑した。
僕の今年の担当は一年生で、衣川さんは二年生。去年は三年生を担当していたから、僕と衣川さんに直接の交流はない。
桜ノ宮学園は規模が大きく、教員は五十人以上いる。それで顔と名前を憶えられているのだから、相当だ。僕が桜ノ宮学園のいわゆる“名物教師”と呼ばれていることを、僕は知っている。
「ごめんね。一応学校の活動の一つだから、コーヒーも出せないんだ」
「い、いえ、お構いなく」
柔らかな物腰の僕に、衣川さんはちょっとずつ落ち着いてきたらしい。不安が薄れ、視線が僕に定まってくる。
リラックスできたのなら、切り込むか。僕は紙に目を落として、世間話でもするように言った。
「それで今日は、恋愛相談だったよね」
「はい」
顔を見なくても伝わってくる。彼女からほの暗いものが立ち上がってくるのが、僕にはわかった。
次話もよろしくお願いします。
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