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風の精霊をまつる祠は、村の神殿にある。
その祭壇の前で祈りをささげていたカイルは、髪をなでられる感覚にゆっくりと瞼を開いた。ゆったりとした神官服の裾がさらりとすべった、その小さな音が響く。そしてすっと溶けたように消えていった。
静かなこの祈りの間は、澄みわたった空気に包まれている。
妹ならば、祈りに耳を傾けてくれている精霊たちが見えただろう。そう思って彼は弱弱しい笑みを浮かべた。
声をあげてむせび泣く仲間たちのなかで、カイルは一度も涙を見せなかった。
自分の妹で、勇者と謳われ、世界を救ったルカは、世界からいなくなってしまった。
それは確かに、喪失感としてカイルの胸へと染み渡ったのだけれど。不思議と悲しみは生まれなかった。
人に言えば、薄情だと非難されるだろうか。
カイルを魔の手から救ったのもルカだった。村や町の復興にもすすんで手を貸し、世界を明るい方向に導いてくれた。そんな献身的な妹を失ったのに、ただ祈りをささげるだけの自分に憤るだろうか。
ルカの死を受け入れられないわけではない。ただ、ルカが死んだという気がカイルにしないだけだ。
確信もない。そして声高にそれを主張するつもりもない。
ジュードがそう言い、医師もそう言い、実際に息をしていないルカを前にしたのだから、カイルたちはルカを失った。そういうことだ。事情はどうあれ、もうルカがいないことは動きようのない事実。
――たとえ、生きていたとしても。
カイルは思う。
ルカというひとりの冒険者は、死んでしまったのだろう。周りが殺してしまったのだろう。そして自分もまた、彼女を殺したひとりなのだろう。
祭壇を見上げる彼の髪が、さらりとゆれた。
祈りの間には、明り取りの窓しかない。そこから差し込む光が、磨かれた床に広がっている。きらきらと祭壇を照らして、空の青を運んだ。その色で染められたように、床にも、壁にも、そして祭壇の祠にも、不思議な色が混ざり合っている。
この場所を、ルカは愛した。精霊たちがおだやかな顔で眠っていると、父が祝詞を読み上げている横でカイルの耳にささやいた。そのときのきらきらした瞳や、薔薇色の頬を思い出す。
いつか会えたらと思うのは、浅はかだろうか。
叶うことはないとわかりつつ、思わずにはいられない。
ルカたちは旅のなかで、ギルドの依頼を反故にしたことがないそうだ。ルカがマシューたちと別れ、ひとりになってもそれはずっと守られていた。そのはずだった。
最後にルカが受けた依頼は、竜の爪の採取である。
黒龍が出たはざまの森でよく採れるその実は、手のひらに収まる三日月形をしている。火の属性をまとっていて、食べるととても辛いのが特徴だ。
駆けだしの冒険者たちがこなす依頼だった。それを受けたことにして、止める店主を押し切って森へ向かったと聞いている。現にギルドの依頼書にはルカのサインが添えられ、未だに納品の判は押されていない。
勇者が初めて依頼を失敗した。それがまた、町人や冒険者たちの涙を誘った。
涙ぐんだ依頼主も、その依頼を取り下げることも違約金を請求することもしないと言ったらしい。勇者の死からふた月経った今でも、王都のギルドでは最後の依頼表が貼られたままだと聞いている。
誰もがその死を悼み、ルカのいた証を見つめては敬意を示した。この大陸が平和であるのは、彼女のおかげであるのだと。
だから、カイルはこの日も祈る。
兄として不甲斐ない自分を悔いながら、この地を護ると決意して。
精霊たちへの感謝を。ルカの心が穏やかであることを。人々が今日という一日を終えることを。




