第一部 第一話 田の怪異
廃刀令が施行されてから、三年が過ぎた。
長く続いた平和の中、人々の暮らしは大きく変わった。
コンピューターが普及し、インターネットは遠く離れた人々を瞬時につなぐ。かつて何日もかけて届いた知らせが、今では指先ひとつで世界の反対側まで届く。
世界は、かつてないほど身近になった。
刀を腰に差して歩く者など、もういない。
――少なくとも、表向きには。
*
「ふぅ……」
乃木夕陽は腰を伸ばし、額の汗を腕で拭った。
目の前には、一面の田が広がっている。
風が吹くたび、青々とした稲が波のように揺れた。
「農業も様になってきたなぁ」
そう呟いて、夕陽は腰へ手をやった。
そこには農具ではなく、一本の木刀が差してある。
代々、乃木家に伝わる木刀。
廃刀令によって刀を腰に差せなくなってからも、夕陽はこれだけは手放さなかった。
「廃刀令が出た時は……親父みたいに農家になるのかって、塞ぎ込んだもんだが」
武士として生きる。
幼い頃から、それしか考えていなかった。
剣を振り、道場を継ぐ。
それが自分の人生だと思っていた。
ところが時代は、夕陽の都合など待ってはくれなかった。
刀は不要だと言われた。
争いのない世の中に、武器など必要ない、と。
そして今、夕陽は刀ではなく鍬を握っている。
けれど――。
夕陽は風に揺れる稲を眺めた。
「……案外、悪くない」
小さく笑った。
そのときだった。
「ん?」
視界の端に、妙なものが映った。
夕陽は目を細める。
「なんだ、あれ……」
田の中だった。
稲と稲の間。
そこに――穴があった。
「黒い……穴?」
ただの窪みではない。
真っ黒だった。
底が見えないのではない。
まるでそこだけ、光そのものが存在していない。
夕陽が一歩近づこうとした、そのとき。
「――そこのお主」
「え?」
背後から声がした。
振り返る。
畦道に、一人の老人が立っていた。
長い白髪を後ろで束ね、古風な装束を身につけている。
この辺りの人間ではない。
少なくとも、夕陽には見覚えがなかった。
それ以上に気になったのは、その姿だった。
現代の老人が時代劇の衣装を着ている――そんな雰囲気ではない。
その老人だけが、別の時代から抜け出してきたように見えた。
「……なんでしょう? お爺さん」
老人は答えず、夕陽の背後へ視線を向けた。
黒い穴。
そして静かに言った。
「その穴を見るなら――覚悟せよ」
「……はあ?」
何を言っているんだ。
夕陽は眉をひそめ、もう一度穴を見る。
「お爺さん、この穴が何か――」
知ってるんですか。
そう言いながら振り返った。
「……?」
誰もいない。
夕陽はしばらく、その場所を見つめた。
そして頭を掻く。
「……お爺さん、どこ行ったんだ?」
一本道だった。
隠れるような場所もない。
だが老人の姿は、影も形もなく消えていた。
「なんなんだよ……」
夕陽は再び穴へ視線を戻した。
気になる。
見てはいけないと言われれば、余計に気になる。
夕陽はゆっくりと近づいた。
その瞬間。
――チリン。
澄んだ鈴の音が響いた。
「……なんだ?」
夕陽は腰を見る。
音は木刀の辺りから聞こえた。
だが、木刀に鈴など付いていない。
そのことに気を取られて、夕陽はまだ気づいていなかった。
風が――止まっている。
鳥の声も。
遠くを走っていた車の音も。
人の声も。
すべてが消えていた。
「…………」
夕陽は顔を上げた。
ゆっくりと辺りを見回す。
額に汗が滲んだ。
暑さのせいではない。
喉が鳴る。
ゴクリ、と唾を飲み込んだ。
先ほどまで見えていた家々がない。
電柱もない。
道路もない。
ただ田だけが、どこまでも続いている。
その静寂の中で――。
「夕陽――」
声がした。
夕陽の肩が跳ねる。
「こっちに来い」
低い声。
夕陽は腰の木刀へ手をかけた。
「……誰だ?」
返事はない。
「どこにいる?」
そして。
目の前の黒い穴から、声がした。
「――ここだ」
「なっ!?」
穴から、黒い水が溢れ出した。
田の水とは違う。
光を飲み込むような黒。
それが生き物のように田を這い、夕陽へ迫ってくる。
「なんだ、これ……!」
「こっちじゃ!」
今度は背後。
「!」
夕陽が振り返る。
また老人だった。
だが――先ほどの老人ではない。
小柄な老人。
年老いてなお整った顔立ちには、不思議な柔らかさが残っている。
「はやく!」
考える暇はなかった。
夕陽は走った。
老人の後を追って、黒い水から逃げた。
*
「はぁ……はぁ……」
どれだけ走っただろう。
夕陽は膝に手をつき、荒い息を整えた。
すぐに後ろを見る。
黒い水は追ってきていない。
だが、あの穴がどうなったのかも分からない。
「あなたは……?」
息を切らしながら、夕陽は訊いた。
「あれは……なんなんですか……?」
老人を見る余裕はない。
夕陽は田の向こうを警戒し続けていた。
だから老人が、自分ではなく――腰の木刀を見ていることにも気づかなかった。
「お主……まだ武士をやっているんじゃな」
「はぁ……お爺さん……」
夕陽は呆れた。
「話、聞いてます?」
また田を見る。
「それに今は……そんなこと言ってる場合じゃ――」
「いいか」
老人の声が変わった。
「よく聞け」
夕陽の言葉が止まる。
「大きな災いが起きる」
「……?」
「お前は、それに巻き込まれてしまう」
何を言っている。
そう問い返そうとした。
だが老人は続けた。
「しかし――絶望するな」
一拍。
「探せ」
「……探せ?」
夕陽はようやく老人の方へ振り返った。
「何を――?」
誰もいなかった。
「…………」
夕陽は老人がいた場所を見つめる。
「またかよ……」
探せ。
その言葉だけが、妙に耳に残った。
「探せ……探せ、か……」
荒い呼吸を整えながら、夕陽は考える。
そして――。
「そうだ……」
昔の記憶が蘇った。
「確か、親父が――」
*
『夕陽よ』
道場。
幼い夕陽の前に、父がいた。
『もし、何か困ったことがあって――』
父が道場の奥を指差す。
『解決の糸口すら分からない。そんなことが起きたら――』
そこには一振りの日本刀が飾られていた。
『あの刀を抜きなさい』
*
「……そうだ」
夕陽は顔を上げた。
「道場!」
すぐに来た道を引き返す。
その瞬間。
――チリン。
「!」
まただ。
木刀から聞こえる、あの鈴の音。
直後、山林が激しく揺れた。
ガサッ――!
「なんだ!?」
黒い影が飛び出してくる。
四本の脚。
犬――。
「犬……?」
違う。
複数の目が、夕陽を見た。
顔を横断するように、大きな口が裂けている。
夕陽の顔から血の気が引いた。
「……じゃない!」
木刀を抜く。
怪物が飛び掛かってきた。
「なんだよ……この犬……!」
巨大な口が開く。
「くっ!」
夕陽は反射的に木刀を横にした。
防いだ。
――そのはずだった。
怪物の身体が、夕陽の目の前を通過する。
着地する。
そして。
ずるり、と。
身体が二つに分かれた。
「…………え?」
夕陽は木刀を見る。
刃などない。
いつもの木刀だ。
「な……なんなんだよ、一体……」
だが考えている場合ではない。
「……取り敢えず、道場だ!」
夕陽は再び走り出した。
*
走った。
だが――。
「……おかしい」
夕陽は足を止めた。
「そんなに田んぼから離れたつもりはないが……」
辺りを見る。
「どこだ、ここ……?」
田。
畦道。
山。
それだけだ。
夕陽はポケットからスマートフォンを取り出した。
「位置情報は……」
画面を見る。
「……は?」
表示されている現在地は――。
「田んぼ……?」
乃木家の前。
先ほどまで夕陽が農作業をしていた、あの田んぼだった。
ゆっくり顔を上げる。
確かに田んぼがある。
だが。
家がない。
道場もない。
「……どうなってんのよ……」
夕陽はスマートフォンを頼りに歩き始めた。
そして顔を上げた、そのとき。
「……あった」
道場があった。
先ほどまで何もなかった場所に。
当然のように建っている。
――チリン。
夕陽は腰の木刀を見る。
三度目。
さすがに分かった。
この音が鳴ったあと、ろくなことが起きない。
夕陽は道場を睨む。
「……罠だってか?」
それでも行くしかない。
父の言葉が本当なら、あの中に何かがある。
夕陽は扉へ手をかけた。
ガラ――。
「…………」
道場の中央。
一人の男が正座していた。
夕陽は息を呑んだ。
男の顔。
髪。
体格。
すべてが自分と同じだった。
「俺が……もう一人?」
偽物の夕陽は答えない。
左側に置いていた日本刀を手に取った。
立ち上がる。
夕陽も木刀を構えた。
「お前を倒せば元の世界に戻れるとか――」
偽物が踏み込んだ。
「そういう安易な話?」
刃が走る。
夕陽は身をひねった。
紙一重。
刀が鼻先を通り過ぎる。
「っ!」
その瞬間、見えた。
偽物の向こう。
道場の奥。
そこには――もう一本、同じ日本刀が飾られている。
「……!」
夕陽は走った。
偽物も追う。
斬撃。
かわす。
さらに一撃。
夕陽は床へ飛び込むように転がった。
手を伸ばす。
指先が刀へ届く。
掴んだ。
背後から偽物が迫る。
夕陽は柄を握った。
父の声を思い出す。
『あの刀を抜きなさい』
「信じるぜ――」
夕陽は刀を抜いた。
「親父!」
銀の軌跡が走った。
偽物の身体を斬る。
――だけではなかった。
道場が。
空間が。
世界そのものが。
一本の線に沿って――裂けた。
*
静寂。
そして。
車の音。
鳥の声。
遠くから聞こえる人の声。
風。
稲が揺れる音。
「なっ!?」
夕陽は顔を上げた。
田んぼだった。
乃木家の前。
いつもの田。
家もある。
電柱もある。
道路もある。
その中心に、夕陽は立っていた。
片手には、乃木家に伝わる木刀。
もう片方には――道場に飾られていた日本刀。
「…………」
夢ではない。
*
夕陽は道場へ戻った。
ガラガラ、と扉を開ける。
奥を見る。
「……やっぱり」
日本刀が置かれていた台座。
そこには何もない。
夕陽が今、手にしている。
異界で手に入れたものを、現実へ持ち帰っている。
夕陽は日本刀を台座へ戻そうとした。
――チリン。
「!」
反射的に振り返る。
老人がいた。
まただ。
だが今度の老人も、先ほどの二人とは違う。
その顔を見た瞬間――夕陽の胸が強く鳴った。
父に、似ていた。
「おや……じ?」
老人は静かに夕陽を見た。
「田の怪異の試練を越えたか」
「……試練?」
「これからお前は、いくつも不思議な体験をするだろう」
「待ってくれ」
夕陽は一歩踏み出した。
「あんたたちは誰なんだ?」
老人は答えなかった。
ただ――夕陽の腰にある木刀を見つめた。
「……?」
夕陽もつられて木刀を見る。
いつもの木刀。
何の変哲もない、乃木家に代々伝わってきた一本。
だが今日、この木刀は鈴の音を鳴らした。
そして――怪物を斬った。
夕陽は老人へ視線を戻した。
「……!」
いない。
道場には、夕陽一人だけが残されていた。
木刀と。
日本刀と。
そして、答えのない疑問だけを残して。
夕陽はしばらく黙っていた。
やがて、木刀へ視線を落とす。
老人の言葉が蘇る。
――これからお前は、いくつも不思議な体験をするだろう。
夕陽はまだ知らない。
この木刀の名を。
今日出会った老人たちの正体を。
田の底に眠るものを。
そして――。
自分が足を踏み入れた世界が、千年以上にわたって人と怪異が紡いできた、もうひとつの歴史であることを。
第一話 田の怪異 了
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