第1話 非常階段は、噛まないでください
初投稿、初なろう
「……あー、そこ、噛むところじゃないんだけど」
私の目の前で、半透明のネズミが非常階段の一段目に歯を立てていた。
正確には非常階段ではない。
薄暗い地下通路の壁際に、さっきまでなかった白い扉が立っている。その向こうには、私が今朝入ってきた江東第七ダンジョンの入口脇、探索者管理センターの休憩スペースにつながるはずの階段。
《帰路設置》で作った、私専用の帰り道だ。
そして、ネズミの歯形がついた場所から、白い扉がぱりぱりと欠け始めていた。
「だめ、だめだめだめ。壊れたら、帰りは四時間歩きなんだよ」
ネズミは答えない。
代わりに、ぎゅるる、とお腹を鳴らした。
通称グラスラット。ガラスみたいに透けた体をしていて、放っておくと装備の金属や魔石をかじる。弱い魔物ではあるけれど、群れると面倒だ。
今日は四匹。
私は息を吐き、右手の短槍を構えた。
学校指定のジャージの上から、管理局推奨の紺色プロテクター。スカートで潜る探索者動画も人気らしいけれど、あれは私には無理だ。膝を擦ったら痛いし、洗濯も増える。
一匹が跳んだ。
槍を前へ出す。喉元を狙ったつもりが、穂先は胴をすり抜け、石の床を叩いた。
「うわ、外した!」
グラスラットは空中で身をひねり、私の肩へ着地した。
軽い。けれど、爪がプロテクターをきい、と引っかいた。
反射的に左腕を振る。ネズミは床へ落ちた。
その一瞬で、残り三匹が扉へ走った。
「そこはだめ!」
私は短槍を投げた。
狙いは一番後ろ。穂先がネズミの脇腹を貫き、透けた体が灰色の粒になって散る。
でも、槍は床に刺さったままだ。
残り三匹との距離は二メートル。
逃げるなら、扉の向こうへ飛び込めばいい。
けれど《帰路設置》は、一度くぐったら消える。今日は初めて見つけた未踏の脇道を、まだ確認していない。
それに、三匹を入口へ逃がすのは規約違反だ。出入口付近の魔物は管理局が処理してくれるけれど、その分、私の探索許可に減点がつく。
次の更新で初心者区画しか潜れなくなったら困る。
私は足元の袋を蹴った。
中身は、さっき拾った石灰キノコ。ひとつ三百円くらいの素材だ。夕飯の味噌汁にも合うらしいけれど、食べたことはない。
袋が床を滑る。
ネズミたちのうち二匹が、きらきらしたキノコへ飛びついた。
一匹は扉に到達した。
――ぱきん。
白い扉の角が欠けた。
「もう!」
私は扉へ走り、走りながら腰のポーチを探った。
出てきたのは、管理センターで買った携帯用の発煙筒。魔物避け用ではない。緊急時に自分の場所を知らせるための物だ。
でも、火は嫌う。
たぶん。
今日の安全講習で聞いたような、聞いていないような知識を頼りに、私はキャップを外した。
赤い火花が噴き出す。
グラスラットは止まった。
透けた顔の奥で、黒い目玉がぎょろりとこちらを向く。
「お願い。帰り道だけは、食べないで」
言葉が通じたわけではないだろう。
ネズミは扉ではなく、私へ跳んだ。
私は半歩だけ引いた。
爪が頬をかすめる。熱い痛みが走ったけれど、目は閉じなかった。
跳びかかってきた体を、両手で抱えるように掴む。
冷たいゼリーみたいな感触だった。
そのまま、発煙筒へ押しつけた。
じゅ、と音がした。
グラスラットは甲高く鳴き、床へ落ちる。今度は逃げずに、灰のように崩れた。
残る二匹は、石灰キノコを抱えたまま、通路の奥へ走り去った。
私はその場に座り込んだ。
短槍を投げた右腕が震えている。頬を触ると、指先が少し赤くなった。
「……私、格好よく戦える日は来るのかな」
返事はない。
代わりに、白い扉が薄く明滅した。
使える時間は残り二十三分。急いで槍を回収し、石灰キノコの袋を拾う。二個かじられた。売値が六百円下がった。
痛い。
けれど、扉はまだ立っている。
私は扉を見た。
これがあるから、私は一人で潜る。
《帰路設置》は、私が通った道を一つだけ折り畳んで、入口につなげる能力だ。便利だけれど、扉をくぐれるのは設置した本人だけ。他人が触れれば、帰り道ごと消える。
最初に説明を受けたとき、担当職員さんは気まずそうに言った。
「……パーティー探索には、あまり向きませんね」
その通りだ。
誰かと潜って、誰かを置いて帰る能力なんて、私は使いたくない。
だから一人で潜る。
帰るために。
私は脇道のほうを見る。
コンクリートの壁に、不自然なほど新しい青い案内板が出ていた。
『B2 落とし物保管庫』
矢印の先は、探索記録にない。
それだけなら、よくあるダンジョンの変化だ。
問題は案内板の下に、小さな文字でこう書かれていたことだった。
『持ち主の名前を呼んでから、お入りください』
私は、入口に置いた白い扉を振り返った。
帰り道はある。
二十三分だけ。
「……名前、か」
落とし物保管庫なら、きっと何か売れる。
そう思った私は、少しだけ笑って、青い矢印のほうへ歩き出した。
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