8.察さない男の後悔Ⅱ
記憶を飛ばすくらいに酔おうと思ったのに、あの男のせいで台無しだ。
酔って淡い橙色の光を纏って見える世界を、すり抜けるように歩いていく。
脳の回路が、血の中に混ざった強いアルコールのせいで過去の記憶を誤って再生していく。
『あなたには、負けないから! 』
『…そうですか、頑張ってください。陰ながらですけれど応援していますよ 』
『 ………っ!そういう、ところが、ムカつくの!!』
あまり変わっていなかった。彼女とは数年ほど会っていなかったというのに。訓練生時代とほとんど変わっていなかった。
まっすぐに伸びた深い焦げ茶色のストレートロングヘアも。青と赤が混ざり込んだ銀河のように不安定で、目を引かれずにはいられないくらいに綺麗なーー紫の瞳も。
脳の大脳皮質が、アルコールに侵されて次々と記憶のディスクを再生していく。
『ーーチェイスさん?貴女、大丈夫ですか?顔色がーー 』
『 あなたに関係ないでしょ!ほっといて…』
ああ、そう。それは訓練生時代だ。色白の陶器みたいな綺麗な頬が、いつもよりも青ざめて見えた。ただそれだけ。
くちびるは震えている。脈を測ることはできないがーー頻脈?酸素濃度が低下している。
口紅を塗っているのに、くちびるは薄く青く染まっている。
肩に手を添えた。
『貧血ですか?訓練は今日はおやめになったほうがよろしいのでは? 』
『 黙ってて…べつに、元気だから』
『 ーー本当に?』
『当たり前、でしょ! 』
思わず肩をすくめて、彼女から手を離した。なぜこうも頑固なのだろうか。軍の教官からは自分の体調が資本だと習わなかったのだろうかーーいや、同じ授業を受けていたはずだが。
『 そうですか。それでは、頑張ってください』
『 今日も、負けないから…!』
気丈にそう言うと、彼女はすたすたと射撃訓練場まで歩いていってしまう。
クライドがいつも相手にする女性たちであれば素直に助言に従ってくれるというのに。なぜ彼女だけはこうも我儘なのだろうか。
若干呆れつつ、クライドも射撃訓練場へと入室する。黒い銃のグリップを握った彼女の表情は至って真剣だが、その腕がかすかに震えているのをクライドのブルーグレーの瞳は捉えてしまった。
彼女の隣の的に立つと、クライドも銃を握って照準を合わせる。
「 ……っ」
隣で聞こえる彼女の息遣いは震えている。大方プライドの高い彼女が、得意の射撃がいつものようにうまく行かないことに焦っているのだろう。それくらいの感情ならば、べつに非言語的行動を読み取るまでもなかった。
視線を的の中央からずらすことなく、クライドは隣のアミエットに声をかける。
『 大方貧血でしょう。首位を私に譲りたくないなら、さっさと医務室に行くことを強くお勧めします』
『 ……うるさい』
返ってきた声が、自分の予想よりも遥かに弱々しく、驚いて隣を見た。
彼女の紫の瞳は茫洋としており、焦点が合っていない。顔色は真っ青であるし、額の右端ーー前髪の生え際には薄く血が滲んでいる。
『 ーー大丈夫ですか?』
銃を慌てて下ろし、彼女に駆け寄った。握り締めて離そうとしない銃のグリップを無理やり剥がすと、頬を軽くたたく。
『 チェイスさん?チェイスさん、意識はありますか』
『…やめて…大丈夫、だから 』
どうやら意識はあるようで、少しだけ安心する。が、だらりと垂れてきた額の血に、クライドは頭を抱えたくなった。
『ーーこの傷はなんです? 』
『 ……来る途中でぶつかったーー』
ぐらり、と彼女の身体が傾いだので支えようとするが腕を払われてしまう。
傷がなぜ生まれたのか疑問は甚だしいが、今は医務室に行くことが先決だ。額の傷はそれなりに大きく、何針か縫ってもらわなければならないだろう。
『 ーー医務室に行きましょう。流石にその頭では訓練なんてできません』
『 …いい』
『いい、ではありません。ほら行きますよ 』
手を取って歩き出そうとすれば、やはり振り払われる。こんなにも強情な女性ーーひとは初めてだ。呆れを含めた深く息を吐く。
『 私に触れられるのが不快なら、医務室に行ってください。それも嫌なら、無理矢理貴女を医務室まで連れていきますからね』
強い調子でいえば、彼女は弱々しく歩き出す。その方向が医務室に向かっているのを見て、クライドは教官の下へ向かう。簡潔に報告し、すぐさまアミエットを追いかける。
そう遠くない廊下で、彼女が壁に手をついて肩で荒く息をしていた。
『 ーーチェイスさん!』
『……もう、帰る 』
こちらを捉えたのか、アミエットが弱々しくくちびるを開いた。
『ーー帰る?治療はどうするのです 』
支えるために肩を貸そうとすれば、拒絶するように胸を押された。
『兄さんがいるから…家にかえる 』
『兄さん?お兄様がいらっしゃるのですね? ーーチェイスさん、待ってください!』
彼女の意思は固いようで、出入り口へとよたよたと歩き出してしまう。彼女の足跡みたいに点々と廊下に血が落ちている。
『 ちょっと待ってください、その額の血をせめてーー』
『 …』
荒い呼吸をひどい顔色のくちびるから吐き出しながら、彼女は傷口を訓練用の軍服の裾で適当に拭ってしまう。
『 ーー何をやってるんですか、傷口が開きますよーー』
『 …わかったから、うるさい…』
心底耳に響くとでも言うように、彼女が目を瞑ったので、慌てて小声に切り替える。
『 分かりました、貴女が言うなら帰りましょう。家はどこですか?送ります』
『…ひとりでかえる 』
『 一人?まさか歩いて帰るつもりですか、そんな状態で。車を出しますからーー』
もはや判断能力も低下しているのか、彼女はこちらの声も聞こえていない様子で歩き出してしまう。その腕を慌てて掴み、
『分かりました、ですが歩いて帰るのはお勧めしません。車に乗って帰ったほうが早い。フェード車の最新車、ガソリンを用いた最速型です。興味があるでしょう? 』
『 ……』
心底どうでも良さげな表情でこちらを見たアミエットは、けれどもやはり疲れたのか渋々といった様子で頷いた。
なんとか彼女を車に乗せ、クライドのハンカチで額を強く圧迫させる。治療は要らないと言っていたが彼女の兄は医者なのだろうか?
彼女の虚ろな道案内に従い、石畳の道路の上に車を走らせる。上流階級の馬車が隣を走り去った。車も普及し始めたばかりだが、懐古貴族はやはり馬車を愛用している様子だった。古い権力に固執しているようなーーいや、いまはそんなことを考えている場合ではない。
古いアパートの前で車を止め、下りる彼女に手を貸す。が、やはりそれは静かに拒絶され、結局彼女は一人で下りてしまう。
慣れた様子で階段を上っていくが、やはりその足はおぼつかない。彼女が万が一落ちてもいいように、彼女の後ろから慎重に上っていく。
奥の扉の前で足を止めたアミエットは、何度か扉をノックした。
がちゃり、と古い木目の扉が開いて、長身の男性が顔を出す。
アミエットに似た焦げ茶色の髪は柔らかそうで、深い青色の瞳には優しげな色が浮かんでいる。ラフなシャツとスラックスを着た彼がーーアミエットの兄だろうか。
彼はアミエットの姿を視界に収めると、明るい笑みを浮かべーーそれから何かに気がついたように額に視線を走らせーーー
『 ……っ!』
ひどく冷たい表情で、クライドを一瞥した。
あれほど強情に一人で立とうとしていたアミエットが、ようやく安心したとでも言いたげに兄の男の腕のなかで身を委ねている。
『 …怪我をしたのか?アミーー早く治療をしよう、痛かったな』
深い青の瞳には、先ほどの慈愛深さなど一欠片だって見えない。酷薄とも取れる表情はクライドを牽制する刃みたいに冷たくこちらを見つめている。男はアミエットを優しく抱き上げると、部屋の中に入っていこうとする。
『……にい、さん 』
アミエットが小さく身じろいだ。兄のシャツの裾をつかむと、疲労のにじんだ紫の瞳をクライドに向けてくる。
兄、と呼ばれたその男はすぐに足を止めると、軽くアミエットの血塗れの額に口づけた。
『ん?どうした、アミ』
そう言いながら男は、アミエットを抱く腕に力を込めたように見えた。立ち尽くすクライドを見やり、冷たい光が瞳のなかで瞬いた。
『……彼が、ここまで車で送ってくれたの』
『………彼が? 』
男が驚いたように何度か瞬く。深い青の瞳からゆっくりと氷のような冷気が消えていく。
『 ーー入ってくれ、話はなかで聞こう』
男は曖昧に微笑むと、扉を指さす。すたすたと入っていくその背を追いかけて、入室する。
恐恐と入室した小さなアパートの一室は、溢れんばかりの本があまりに散らばっていた。
『ーー俺の名前はカイン。カイン=チェイスだ。アミエットの兄だ 』
本に囲まれるように肩身が狭そうに置かれている2人掛けのソファにカインがゆっくりとアミエットを下ろす。
向かいにある小さな木の椅子を指さすと、『狭いがーー座ってくれ 』と笑う。
たくさんのものが溢れている。地理学の本、言語学の本、それから心理学?ーー医学、天文…分野は多岐に渡る。小さな室内ランプ、可愛らしい手のひらサイズの地球儀。壁のすき間を縫うように張られた大きな世界地図ーーしかも最新版ーーそれに、RGP-01?リボルバーに刻まれた識別番号を読み取って思わず内心で首を傾げる。
カインは軍人なのだろうか?訓練生であるアミエットは銃の私有所持は認められていないはずであるし、軍関係者以外は私有所持は法令違反となるはずだ。
どこからか治療キットを持ってきたカインは、ぐったりと横たわるアミエットの前髪を優しく梳いて、引っ張り出してきた椅子に腰掛けた。手際よく彼女の額の血を拭っている。
『 ーー勘違いしてしまって申し訳ない。アミを傷つけた挙句にのこのこ家までついてくる大馬鹿者かと思ってしまってね』
クライドからはカインの背中しか見えないが、彼の言葉には申し訳なさが滲んでいる。
そうクライドの培った審美眼は告げている。
『いえ… 』
『 それで?可愛いアミに何があったのかを教えてくれるかい?彼女を傷つけた奴はーーね?』
こちらを振り返ったカインは、整った顔立ちに僅かにひやりとした殺気を混ぜてーー殺気?
クライドは背筋がゾッとしたのを感じながら、頷く。
『私もよく事情は知りませんが、射撃訓練中に彼女の顔色が悪く、額から血を出していましたので、医務室に連れて行こうとしたのですが……彼女が家に帰りたいというので、車で連れてきました。 』
『…そうか、ウチの妹をどうもありがとう。我儘な所もあるがーー可愛い妹なんだ』
少しばかり目を伏せると、カインはすぐに優しく微笑んでアミエットを見つめている。
『…それにしても、手際がいいですね。医者なのですか?』
ただの好奇心からの質問だった。カインは何でもないことのように首を傾げて、彼女の額にガーゼを当てる。
『医者ではないーーけど、昔に医療免許を取ったことがある 』
『 医療免許…!?凄いですね』
相当難関の試験であったはずだ。驚きを顕にすれば、カインは何でもないことのように軽く笑った。
ソファで眠るアミエットに穏やかな眼差しを注ぐと、ブランケットをそっとかける。
『幼い頃からアミは医者と診療所が苦手なんだ。兄である俺の治療なら、彼女も泣きながら診療所に行かなくて済むーー』
声の調子は優しく、カインの目の前で眠りにつく少女への慈愛で満ちていた。
ずきずきと酔った頭が痛みを発する。
「……ぁあ、最悪だ 」
自分の言葉が脳裏を駆け巡る。酒に酔っても海馬から消えなかった、自分が犯した今日の失態。
『 訓練生時代からこちらに住んでいたでしょう。貴女の給料であれば、もっと良いところにも住めるのでは?』
そういうことか。激しく無神経だったあの時の自分を殴り倒したい気分だった。彼女と兄の大切な家なのだ、彼処は。何も考えずにあんな事を言ってしまった。
こんなに大事な記憶を見落としていたのか。
(ーー…あの家に、人の気配があったか? )
ふと思う。彼女の兄ーーそう、カインと2人で住んでいるはずではなかったのか。彼女は確実に一人だった。あの家の気配は伽藍堂だったし、電気だってついていなかった。
( ……)
『 私の過去をほじくり返して楽しい?違うんならさっさと帰って。誰にでも知られたくない気持ちくらいあるでしょ?』
彼女の言葉が、クライドの脳内で明確に点と線を繋ぎ、考えられうる解を導き出していく。
「 あぁ…くそ……最低だ」
思わずずるりとその場にしゃがみ込んだ。酔いは完全に覚めていた。そういうことだ。
彼女の過去に踏み入るな、とはそういうーー
なおさら自分の無神経さが際立って腹が立つ。優秀な自分の脳味噌が弾き出した演算の解は、彼女の兄はもう既に亡くなっていて、彼女は一人であのアパートに住んでいる、ということだった。
ぐしゃりと金髪をかき混ぜ、天を仰ぎ見てしまう。
徐に立ち上がると、何回やっても終わらない明日の彼女との会話のシュミレーションに痛む頭を押さえながら、歩き出す。
真っ暗だった世界に、飽和するように朝日の光が差し込む。クライドのブルーグレーの瞳が、その光を透過して、雫みたいに潤んで見えた。




