第3章―1
星が瞬いていた。頭上の黒い天蓋に月の姿はない。
新月の夜――月は生まれかわるための英気を養っていた。ゆえに、地表は闇の底に沈み、旅人は自分の足元さえおぼつかない。踏み出した先にぽっかりと穴が開いていたとしても、旅人は自分が落下していることさえ気づかないだろう。
そんな闇を、ソラは明かりもつけず、ひょいひょいと歩いてのけていたのである。探索魔法エスプロリのおかげであった。地面の起伏も手に取るように分かる。もちろん広範囲をトレースしているわけではない。敵が潜んでいたとして、その攻撃を回避できる最低限の距離を確保できていればいいのだ。周囲を警戒するように、ミスリルの剣も浮遊している。
――近くより遠くの方がよく見えるな……。
満点の星空がキャンバスならば、山の稜線はその輪郭を黒い絵の具によって縁取られていた。湖もまた、夜を彩る星々を鏡のように映し出し、波よせる湖畔をしっかりと描いてみせていたのである。
ソラはフラモ湖に向かっていた。そこでマリルと落ち合う手はずになっていた。
――食べ物を背負っては近づきたくはない場所だな……。
エストの町の地下には下水道が張り巡らされている。マリルが伝って逃げようとした地下水路だ。もちろん、鼻をつまみたくなるような悪臭の汚水が流れている。下水路はフラモ湖にまで至り、汚水はそこで湖に排出されているのだ。
――その出口で待ち合わせって……。
やはり気分のいいものではない。遺跡探索のベースキャンプに持ち帰る食料を、背負子の紐が肩に食いこむほど背負っている今ならなおさらのことだ。
下水の排出口の位置は大まかに教えてもらっていたが、ソラは魔法で地下の下水路を探査しながら、その上をずっと辿ってきたのであった。排出口は巧みに隠されているらしく、その存在は一部の人間にしか知らされてはいない。
――あそこだな……。
切り立った崖が湖畔にせり出していた。ソラは磯を伝い歩く。幸いにも岩礁はそれほど険しくはなかったし、湖の波も穏やかだった。
――ああ……。
それほど酷くはなかったが、やはり何処からともなく肥溜めのような臭いが鼻をつきはじめる。前方を見ると、ひときわ大きな岩が岩礁から突き出ていた。その裏に下水の排出口が隠されていたのであった。
――確かに、湖の方からは見えないだろうな……。
いや、見つけられては困るのだ。つまりは、町の要人だけが知る、万が一の事態が起きたときに脱出する隠し通路であったのだから。
気が進まなかったが――近くの岩に一歩一歩を踏み下ろすことさえ躊躇われたが――ソラは下水路の出口に近づく。中をのぞくと、どこまでも闇が続いていた。
「マリル、お待たせ」
ふっとランプの明かりが灯る。ソラが声を投げかけた先に少女が立っていた。少し驚きの表情を浮かべていた。
「あたいがいるって、どうして分かった……? それも魔法……?」
「そうだよ。周りを調べる便利な魔法があってね。マリルがいるのは、ここに来る少し手前から気づいていたんだ」
実際のところは、少女らしき背丈の人間がそこにいる、ということを探知していたにすぎない。だが、この状況下では、それがマリル本人であると判断するのは別段おかしなことではなかっただろう。
「食料も買い込んできた。町を出てくるときも怪しまれてはいないと思う」
ソラはキャラバンが集合している広場に行き、さも交渉しているふうを装った。そして、喧騒に紛れて身を隠し、日が暮れた後、頃合いを見て町を出てきたのだ。
「追手もいない」
「本当に……?」
「うん、それはもう本当に大丈夫。分かるんだ、遠くからでも。そこに人がいるかどうかってことがね」
「魔法って本当に便利ね……」
ソラは「まあね……」と少しはぐらかした。実際には魔法による効果ではなかったのだが、そのことを説明するのは時間がかかるし、もしかするとソラ自身のことを少女に気味悪がられるかもしれないと危惧したからでもあった。
「例の物は見つかったの? 目的が達成できたなら、さっさと逃げようよ」
ソラは、自身が危うい状況に片足を突っ込んでいることを承知していた。できるだけ早く――マリルとの関わりはしばらくは避けようはないが――この危険な舞台から、その身を遠ざけたかったのである。
「印章はなかった……。誰かにもう持ち出されてた……」
「え……」
ソラの顔が、心底気の毒だと言わんばかりに沈んだ。
「どうしよう……。もう一度、町に戻ろうか? 夜のうちに何とか忍びこんで……」
「いや、もう何処に持っていかれたのか分からない。戻っても無駄だと思う……」
「でも……」
「それよりも、あんたが言ったように、もうここからは離れた方がいい。そこに舟があるだろう――」
マリルは背後を一瞥した。人が二人も乗れれば御の字の小型の舟が、下水路の通路に引き上げられていた。よく見れば岩礁に溝が切られている。舟を浮かべて湖まで運んでいくのだろう。
「さあ、手伝って」
有無を言わさず、マリルは行動に移った。ソラは慌てて下水路の中に入っていった。
「そっちのロープを外して」
ソラは年下の少女に指図されるままにこき使われ、舟を湖まで引き出すことに成功した。
「この舟、帆が張れるんだ」
舟の中には、マストと折りたたまれた帆が倒されていた。マリルはそれを器用に立てていく。
「当たり前だろ。湖を渡るんだ。手で漕ごうなんて馬鹿いるわけないだろ。ほら、早く乗って」
女の子が押さえてくれている舟に、男の自分が先に乗るのは何だかカッコ悪いなと思ったが、そんな主張を出せるような雰囲気ではなかった。ソラは言われるがままに、先に自分の体を船首の方に飛び移らせた。
マリルは舟をぐっと押す。勢いをつけ自分の足が磯から離れる瞬間、彼女は猫のように軽やかに船尾に飛び乗った。舟がぐらつくこともない。
「夜明けまでに、向こう岸に渡らないと」
マリルは、たたまれていた帆を張る。帆布が風をはらんで、ふくらむ。舟がゆっくりと前に進みだした。
「とりあえず、町を抜けるのは成功したね」
「そうね……」
マリルは、どこか上の空の様子で答えた。一つだけ気がかりなことがあったのだ。
――舟は二艘あったはずなのに……。
湿った風が、マリルの頬を撫でていった。




