第八十一話 揺らぎ
まるで役目は果たしたとでも言うかのように、御子は穏やかな眠りについた。
もう覚めることのない。永遠の眠りに。
慣例を破り、密かに宮崇を招いて診てももらった。
それでも、彼女を救うことはできなかった。
ただ、御子の最後はとても穏やかだったという。
それだけでも、俺は宮崇に感謝した。
だが、俺が俺自身に向ける思いは別だ。
悔恨、怒り、悲しみ。そして、迷い。
御子を救いたい。
でも、日御子の自由も守りたい。
何だそれは。そんな俺の半端な願いに付き合ったせいで、御子は永らえたはずの命を使い切ってしまった。
葬儀には、邪馬壹国中の民草が集った。
先王の死から幾日しか経たない内の突然の御子の訃報。
人々は悲嘆にくれた。
日御子は静かに見守っている。
穂北彦は、涙を流し続けていた。
呆然と、俺はその場に立ち尽くしていた。
御子を送り届けたあと、何故か俺は祭壇の前にいた。
どうやってここまできたのか覚えていない。
隣には日御子がいる。
「サイ……。御子様のこと、ありがとう。あなたのお陰で、御子様は、伯母上は、本来は得られなかったはずの時間を、与えてもらえた」
肉親を亡くしたのは日御子だ。
彼女が一番辛いはずだ。
なのに、日御子は俺を労ってくれている。
俺は自分の罪悪感を押し殺すこともできず、日御子の悲しむ時間さえも奪ってしまっている。
情けない。
一体何年生きてるんだ。
何で俺はいつまでも、彼女や孫堅、首長みたいに、強くなれないんだ。
「違うんだ。日御子。俺が御子様を殺した。俺は、君に自由でいてほしくて……。そのために、御子様は」
やめろ。日御子に背負わせるな。楽になろうとするな。
「ごめん、日御子。ごめん。ごめん……」
謝るな。許されようとするな。そんな資格もない。お前には。一人で苦しめ。日御子を巻き込むな。
「大丈夫だよ。サイ。わかってる。わかってた……。ありがとう」
いつの間にか泣きじゃくっていた俺を、日御子がそっと抱きしめる。
温かくて。心地いい。
それで少し救われている自分が、たまらなく憎い。
「サイ……でも、わたしは……」
日御子はそこで言葉を区切った。
最後まで言ったら、また俺が苦しむと思ったからだろう。
けど、こんな俺でも、その言葉の続きは分かる。
自分のために苦しまないでほしい。誰かを犠牲にしてまで、自分は自由でいたいとは思っていない。
そんなことはわかってた。日御子というのは、そういう人間なんだと。わかっていたのに。
結局俺は、彼女を傷つけてしまった。よけいに悲しませてしまった。
……どれくらい、日御子に抱きしめられていたのだろうか。
気づけば、胸の奥に溜まっていた涙はすべてこぼれ落ち、声も、呼吸も、やっと落ち着いてきていた。
俺はそっと日御子の腕から離れた。
離れたはずなのに、どこかまだ、彼女の体温が残っている気がした。
けど、どうしても彼女の目を直視できない。
「……ありがとう。日御子。済まない……」
自分の声が、ひどく遠く聞こえる。
日御子はしばらく黙って俺を見ていた。
責めることも、慰めることもしない。
ただ、俺が向けようとしない視線さえ、静かに受け止めるように。
日御子はそうして、俺が立ち上がるまで、じっと待ってくれていた。
そして最後に、立ち去ろうとする俺の背に向けて、いや、その向こうにいるナビに向かって、日御子が声をかける。
「那美様、サイを……お願いします」
驚いたようにナビが振り向く。
そしてすぐに、思い切り日御子に笑いかけて親指を立てる。
「うん。任せといてよ」
日御子が頷く。
ナビの姿も、その声も聞こえないはずの日御子が、まるでナビの言葉に応えたかのようだった。
新王、都萬彦は、即位するとすぐに“諸国の連携強化”を掲げた。
だがその実態は、これまでの緩やかな連合とは異なる、より強固で中央寄りの体制づくりに他ならなかった。
まず手を付けたのは、子飼いの将兵を各国に派遣することだった。
建前はあくまで軍事援助。
南の投馬国、または海を挟んだ東国への備えを固めるため、邪馬壹国から精鋭を送る。
そう言われれば、諸国も拒めない。
だが派遣された将兵たちの本当の役目は別だ。
彼らは、滞在先の暮らし、王族の動向、兵の規模、さらには内部の不満に至るまで。
知り得る限りすべてを王都に報告する監察官として送り込まれていた。
さらに、都萬彦は派遣先の国々で、現地民に対して周期的な兵役を課した。
名目は、連合全体で軍備を共有し、北部九州全体を一つの国のように守るため。
だが実際には、他国の軍事力をごっそり分解し、吸い上げ、邪馬壹国の指揮体系へと再統合する、極めて戦略的な布石だ。
派遣兵と徴兵された若者たちは表向きこそ“連合軍”だったが、その命令系統は完全に邪馬壹国へ一本化されつつあった。
「あの都萬彦ならこれくらいやるとは思っていたけど、さすがの実行力だね。
対等な同盟と言いつつも、自国の優位を全力で利用して、着々と中央集権化をはかってる」
ナビが皮肉を込めて呟く。
「他の国も都萬彦の意図には気付いてるよね。
王たちの内心の不満は、お構いなしってわけ?」
「それを抑えるための婚姻政策だろ」
都萬彦は、邪馬壹国と各国の王族・豪族の子息たちに次々と婚姻を結ばせた。
義と武力に続くもうひとつの絆、“血の盟約”だ。
「それってつまり……人質だよね」
「ああ、そうだ。けど、多くの国で普通に行われてきたことだ。
特段責められる話じゃない」
「……でもさ」
「邪馬壹国の技術は惜しみなく分けてる。
諸国への恩恵も大きい。だから問題にはならないさ」
むしろ、中途半端に懐柔して反発を生むほうが危険だ。
今だけは、都萬彦に王としての地盤を固めてもらわなくては困る。
「そうでないと……今度こそ日御子が担ぎ出される。そうなったら俺は、御子様は……何のために……」
そこまで言って、言葉が続かなかった。
胸の奥の、痛む場所を押しつぶされるように。
俺は膝を抱え、そのまま額を押し当てた。
ナビは何も言わなかった。
代わりに、温かい手のひらの感触が俺の背中に感じられた。




