第七十八話 失われた信頼
日御子の力によって、停戦協定は結ばれた。
不弥国は元の領地での独立を正式に認められ、邪馬壹国の庇護下に入った。
実質的には、属国としての立場である。
だが、さらに衝撃的だったのは、その次の一報だろう。
北部九州の覇者、奴国までもが邪馬壹国との同盟を宣言したのだ。
この一件は、瞬く間に九州全土に広まり、列島の勢力図を一変させた。
末盧国と伊都国は急遽、九州西部の領土争いを停止。
両国とも、邪馬壹・奴・不弥の三国連合に対し、明確な敵対を避ける姿勢を示した。
「俺は都に戻る。都萬彦の様子が気になるしな」
奴国との調停が具体的に詰め終わったあと、俺はタケルにそう告げた。
「持衰、だったら俺も。日御子にはああ言われたが、俺も都萬彦様には恩義があるんだ」
いいように使われたという自覚はあるだろう。
それでも、タケルは処断せずに自分を重用してくれた都萬彦に対する、感謝の思いは変わらないようだった。
「都萬彦には俺から伝えておくよ。お前は自分の役割を果たせ」
その言葉で、タケルはそれ以上の言葉を抑えた。
あの後、日御子が王に打診し、自身の警護隊を結成した。
比較的若い世代が多く、総勢は50名。
その隊長にはタケルが据えられた。
これでタケルは、公然と日御子の側に仕えることが出来る。
日御子の近くにいる限り、こいつが暴走することはもうないだろう。
日御子にとっても、タケルはこれ以上ないほど有能なボディガードになる。
二つの意味で安心だ。
「持衰、お前は結局、都萬彦様の元に戻るんだな」
「タケル。俺はまだ、日御子を次の御子にするのは反対なんだ。この間の奴国王との謁見を見て、俺はその考えを更に強くした。このままじゃ日御子は、御子どころか、北部九州の王に祀り上げられてしまうと思う」
「まさか、そんな」
そう言ってタケルは苦笑するが、その目は笑っていなかった。
今の日御子ならあるいは。
そんな予感が、こいつの中にもあるのだろう。
「俺が日御子に完全についたと思われたら、日御子の権威は大きくなりすぎてしまう。いいかタケル。お前はここに残すが、船の民としては、飽くまで都萬彦擁立派の立場を取る。俺たちの目標は、日御子の安全と、自由を守ることだ。いいな、そこはブレされるんじゃないぞ」
俺はタケルの両肩に手を置いた。
「分かってるさ……」
たじろぎながら、タケルが応えた。
その返事を確認したことで、俺は大型船に搭乗し、邪馬壹国の都へと向かった。
明日。俺は邪馬壹国に到着した。
大型船の到着は、すぐに知られるだろう。
俺は真っ直ぐ政庁として機能している屋敷へ向かった。
果たして、そこで都萬彦は待ち構えていた。
「不弥国独立支援の任は完了した。仔細、報告に上がりました」
開口一番、俺は形式通りの言葉を、都萬彦に告げた。
「報告は既に受けている。大活躍だったな持衰。まさか王抜きで、日御子と二人であの奴国王を説き伏せるとは」
都萬彦が芝居じみた口調で、俺を労う。
それが皮肉であることは、明らかだった。
「これで日御子だけでなく、お前の名も広く知れ渡ることになった。邪馬壹国は、その精神を継ぐものを日御子、そして武を司るのが持衰。お前だと、諸国は認識するだろう」
顔は笑っているが、目の奥には、怒りの炎が宿っている。
「まるで歴代の王と御子のようだ。持衰、お前は俺を差し置いて、次代の王にでもなるつもりか?」
「都萬彦、それは違う。分かっているだろう。俺は日御子を国の中心に据えたいなんて思っていない。俺はお前を王にする。前にも伝えただろう」
「だったらなぜ、奴国王との休戦調停に、のこのこと出ていったのだ」
遂に都萬彦が声を荒らげた。
散々、都萬彦を擁立すると言っていた俺が、日御子と一緒に国の代表のような顔をして外交の場に出ていったのだ。
都萬彦が、俺が寝返ったと思っていても責められない。
「俺は漢出身の倭人だ。漢の威光を重んじる奴国王と交渉するなら、俺が最も適任だ。
それに、王の病状はお前も知っているだろう。あの場は、俺が出るしかなかったんだ」
「漢出身の倭人なら、お前以外にもいるだろう」
「あの場には、俺の他にタケルしかいなかった」
「だったらタケルに」
「それ本気で言ってるのか?」
「……いや、違う。忘れろ」
俺はふと溜息をつく。
「都萬彦。俺が本当に日御子の側についたのなら、こうして1人で戻ってくるわけがないだろう。それが、お前を裏切っていないという、証拠だと思ってくれないか」
重い沈黙。
都萬彦は目を細めた。
彼は、俺の真意を推し量るように、ずっとこちらを見つめ続けていた……。
都萬彦とのやり取りを終え、俺は政庁を後にした。
ひとまずは、信じてもらえた。と、思う。
都にとどまり、再び兵の調練の任につくように、申し渡された。
このまま家で休みたいところだが、俺にはまだ会いたい人がいる。
俺は足を神域の奥、御子の神殿へと向けた。
神殿へ向かう道には、必ず御子候補たちの住居区画を通らねばならない。
静かな並木の間から、甘い香が漂ってくる。
その香の中で、懐かしい声が響いた。
「お〜、持衰くん。久しぶりじゃん!」
於登が手を振って駆け寄ってくる。
あいかわらず、明るくてまっすぐな笑顔だ。
「しばらくだな、於登。相変わらず元気そうだな」
「こっちは相変わらずだけど、持衰くんの方がすごいじゃん。
まさかあの奴国と同盟を結んじゃうなんてね」
於登が軽く俺の脇腹を小突いてくる。
その無邪気さに、つい笑ってしまった。
「いや、あれは全部、日御子の力だよ。俺はあいつの思惑通りに動いただけだ」
「日御子様、すごいよね。なんていうか……本当に神様になっちゃったみたい」
於登の言葉に、思わず苦笑が漏れる。
その考えが、これから日御子を縛る鎖になることを、俺は知っているから。
でも、於登に罪はない。彼女にとっては純粋な敬意の言葉だ。
「御子様は、お元気か」
俺は話題を変えた。
もともと今日ここへ来たのは、御子の様子を確かめるためだ。
長年にわたる神降ろしの儀。
あの無理な祈祷で、御子の身体は確実に蝕まれていた。
儀式を禁じ、宮崇の用意した薬を定期的に服用させるようにして、少しずつ快方に向かっていたはずだ。
だが、ここ最近は顔を見ていない。
容態がどうなっているのか、俺はずっと気にかかっていた。
「それなんだけど……」
急に於登が言い淀んだ。
「どうしたんだ。まさか、御子様に何かあったのか」
慌てて於登に詰め寄る。
「いや、大丈夫。以前よりはお元気だよ。ただ……」
「ただ?」
その言葉の続きを聞いた俺は、慌てて御子のいる神殿に駆け出した。
神殿にいた巫女に取り次いでもらい、俺は御子のいる祭壇に通された。
一段高い祭壇には、既に御子が座っていた。
通常、御子候補たち以外、とりわけ男子にはその姿を見せることは禁忌とされている。
だが、持衰である俺だけは、数少ない例外だった。
「お久しぶりです、御子様。すっかり足が遠のいてしまい、申し訳ありません」
俺は深々と頭を下げた。
「なんの、持衰殿。こうして思い出して来てくださるだけで、私はとても嬉しいですよ」
御子はにこやかに笑う。
血色も良く、声に張りがある。
見た目だけなら、すっかり健康を取り戻したようにさえ見えた。
「いえ……それでも、無理をしてでも、もっと顔を出すべきでした」
俺は顔を伏せる。胸の奥に、小さな悔恨が沈んだ。
「持衰殿……?」
不穏な空気を察したのか、御子の表情がわずかに曇る。
「於登に聞きましたよ。近頃の御子様のご様子を」
「ぎくっ」
御子の肩がびくりと跳ねた。
本当に“ぎくっ”って言う人、初めて見た。
「薬、飲んでないんですってね」
俺は冷めた声で告げた。
御子は一瞬固まり、次いで慌てて口を開く。
「い、いえ。飲んでましたよ。ちゃんと。 でも最近は……その……おかげさまで調子も良かったので……」
冷や汗を浮かべながら、必死に言い訳を繰り出してくる。
俺は腕を組んでため息をついた。
「ダメです。薬は治りかけに飲むのが一番肝心なんです。それを怠れば、また元通りになりますよ」
「でもでも、持衰殿。あの薬、本当に苦いんですよ?あんなの飲んだら、却って具合が悪くなってしまいます」
「良薬は口に苦しです、御子様」
そう言って、俺は手を叩いた。
外で控えていた於登が、勢いよく飛び込んでくる。
「於登。貴女が持衰殿に告げ口したのね」
御子がぷくっと頬を膨らませて於登を責める。
於登は肩をすくめて平伏した。
「お許しください御子様……。でも、御子様のお身体が心配で……」
「於登が謝ることじゃない。むしろ、甘いくらいだ」
俺は於登を庇い、彼女が持ってきた薬湯の入った杯を受け取った。
そして、迷いなく御子のもとへと進む。
「失礼します。御子様」
「う、う〜……」
俺は杯を御子の前に差し出した。
御子は子供のように顔をしかめたまま、動かない。
「さあ、ずずいっと」
「う〜……」
根競べの末、俺は御子の手に杯を押しつけた。
御子は観念したように、目をつむってそれを呷る。
「にっが〜〜いっ。誰か、水っ、水持ってきて」
慌てて巫女が水を差し出す。
御子は涙目になりながら、それを一気に飲み干した。
俺はそんな彼女を見下ろしながら、穏やかに微笑んだ。
「偉いですよ、御子様。この調子で、ちゃんと決められた通りに服用してくださいね」
「うぅ……ひどい……」
御子は目尻を潤ませながら、恨めしそうに俺を見上げる。
「都萬彦様の命で、しばらくはここに滞在します。その間、御子様のご様子をしっかり拝見しますので、そのおつもりで」
俺の笑顔に、御子は半べそをかいた。
その姿を見て、於登がこっそり笑いを堪えていた。




