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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第ニ章

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第七十二話 苦悶

持衰と都萬彦の言葉が、頭から離れなかった。

日御子の前に出ると、なぜか上手く話せなくなる。

それなのに、彼女に会いたいと思ってしまう。

この自分の感情が何なのか、タケルには分からなかった。


去年、持衰が都萬彦と軍政を整え始めたことで、タケルは南の国境警備軍に回された。

一年以上、大した戦もなく、日御子と会えない時間が続いた。


日御子に会いたい。声が聞きたい。

それが叶わないなら、せめて遠くからでも姿を見たい。


会えない時間が積み重なるほどに、日御子の存在はタケルの中で大きくなっていった。


兵の調練を行っていると、少しだけ気持ちが楽になることに気づいた。

部下たちと模擬戦をし、飯を食い、笑い合う。

楽しかった。

そんな瞬間だけは、日御子のことを忘れられた。


だが、夜になると駄目だった。

床に転がり、瞼を閉じれば、すぐに日御子の顔が浮かぶ。

日御子にもらった皮袋を、毎晩抱いて眠った。

それを手渡された日のことを、今も覚えている。

野兎の血の匂いに混じって、どこか甘い香りがした。


皮袋を鼻に押し当てると、まだ微かにその香りが残っている気がした。

そうしてようやく、タケルは短い眠りに落ちていくのだった。


あの時のことは、よく覚えていない。

狗奴国の兵が、わずかに邪馬壹国の国境を越えた。見張りからそう報せが入った。


そんなことは、これまでにも何度もあった。

その度に軽く追い払い、事は終わっていた。


だが、あの日は違った。


タケルの中では、日に日に鬱屈した思いが少しずつ堆積していた。

元来が明るい性分なだけに、その黒い感情にどう向き合えばいいのか分からなかった。

折り合いをつける術を知らぬまま、無意識にそれを戦場で発散させてしまったのだ。


たまたま敵が、いつもより強く抵抗した。

たまたまその矢が、味方の胸を射抜いた。


仲間が短い呻きを上げ、崩れ落ちた。


気づけば、突撃の鉦を鳴らしていた。

自分でもわからぬうちに、狗奴国の兵を叩き斬っていた。


粘りつく返り血が肌にまとわりつく。

その瞬間、タケルの中で何かが切れた。


気づいた時には、敵を殆ど殺し尽くしていた。

逃げ惑う者を追い立て、狗奴国の領土にまで踏み込み、集落の間近まで攻め込んだ。迎え撃つ兵の悉くを斬り伏せた。


敵が増援の鉦を鳴らす。

ようやく味方が危機を察し、タケルを引き摺るようにして国境の内側へ戻した。


報復に燃え、投馬国と共に包囲されかけたタケルを救ったのは、持衰だった。


都合のいい話しだが、持衰との戦は、タケルにとって至福の時間だった。


自責の念も、後悔も、持衰と並び立った瞬間に吹き飛んだ。

処断されるにしても、この戦いの後なら構わない。

タケルは心の底からそう思った。


だが、彼は許された。

一兵卒に落とされはしたが、それ以外の罰はなかった。


南は持衰に委ねられ、タケルは北にいる、穂北彦のもとへ送られることになった。


穂北彦は初め、タケルとまともに口をきこうともしなかった。

だが、いつも何かに苛立っている様子が気になり、タケルは何度もこちらから話しかけた。

やがて、その苛立ちが穂北彦が自身に感じている、無力感によるものだと気づいた。

優秀な兄と、偉大な姉への負い目が、余計にそう感じさせているようだった。


持衰なら、もっと別のやり方があったかもしれない。だが、タケルには武術しかない。

二人で剣の稽古を始めた。兵の調練とは別に、来る日も来る日も打ち合った。

最初のうちは、怪我をさせぬよう気を使っていた。だが、それを察した穂北彦は激怒した。

それからは、容赦なく打ち据えるようになった。

穂北彦は決して音を上げなかった。むしろタケルの方が穂北彦を痛めつけるのに耐えられなくなり、稽古を止めることが多かった。


それからは、穂北彦とは友達や、兄弟のような間柄になれたと、タケルは感じている。

剣だけでなく、言葉でも語り合った。

穂北彦の国への思い、父や兄への複雑な感情。

タケルの漢での生活、戦の日々。

そして、日御子のことも。


持衰がなぜ穂北彦と折り合いが悪いのか、タケルには不思議でならなかった。

真っ直ぐで、清らかな青年だ。

だが、穂北彦を好きになるほどに、共にいるのが辛くなっていった。


彼の顔を見るたび、日御子を思い出してしまう。

灰褐色の髪、澄んだ瞳、美しい横顔。どれも彼女を彷彿とさせた。

穂北彦といる限り、日御子を忘れることはできない。

その事実が、タケルの胸を締めつけた。


持衰には、自分が日御子への想いのせいで、自分を見失っていると言われた。

都萬彦にはもっとはっきりと、自分が女として日御子を求めているのだと言われた。

認めたくなかった。なのに、強く否定もできなかった。


タケルにとって、いや、邪馬壹国のすべての民と兵にとって、日御子は穢してはならない、神聖なる存在だ。

その日御子を、自分の色欲の対象にしている。それがおぞましい。

そんなことは考えるだけで、日御子に対する冒涜だ。


ふと、持衰の顔が浮かんだ。

あいつこそ、日御子に相応しいのではないのだろうか。

持衰も日御子と同じように神に通じている。時々、あの二人にしか理解出来ない世界で語り合っていることもある。

何より、持衰は女人と交わらない。

自分と違い、日御子とどれだけ近くにいても、彼女を傷つけることも、汚すこともないだろう。


都萬彦はタケルに、日御子を迎えよと言った。

日御子を呪縛から解き放ち、幸せにしろと。

だが、タケルにそれは出来ない。


そうだ。

日御子を幸せにできるのは、自分ではなく持衰なのだ。


その考えに至った瞬間、胸の奥で何かが爆ぜた。

恋とも、憎しみともつかぬ熱が喉を焼く。

息が荒くなり、心臓の鼓動が耳の奥で鳴り響いた。


自分は、日御子を想ってはいけない。

それが許されるのは、持衰だけだ。


理解できない感情が渦を巻き、理性を蝕んでいく。

怒りか、嫉妬か、それとも絶望か。

もう区別もつかない。


ただ一つだけ分かっていた。

このままでは、いずれ自分は壊れてしまう。


穂北彦が不弥国へ派遣された後、タケルは生まれて初めて女を抱いてみようと思った。


南にはいなかったが、北方では王族である穂北彦への配慮からか、兵の待遇がいくらか手厚かった。

兵を慰めるために置かれた、奴婢の女たちの存在もそのひとつだ。


別に、色欲が悪いとは思っていない。

だが、日御子によく似た顔を持つ穂北彦の前で、そういった面を見せることがどうしてもできなかった。

だから、奴婢たちの住まう小屋の前を通るたびに、タケルは無言で足を速めていた。


だが穂北彦がいなくなった今、その気兼ねもなかった。


女を求めたのは、欲ではなく、確かめるためだった。

日御子に向けたこの想いが、もし単なる肉の衝動であるなら、女を抱けば消えるはずだと。

そうすれば、再び清らかな心で、ひとりの人間として日御子を思い続けられる。


日御子を、汚さずにすむ。


タケルなりの、必死の理屈だった。

純粋であるがゆえに、愚かで、痛ましい理屈。

けれど、彼はそれにすがるしかなかった。


夜の静寂の中、タケルは幾つも灯る明かりの下へと向かった。

近づくにつれ、男と女の声が交じり合って聞こえる。

その音を耳にしながらも、彼の胸には欲よりも、別の痛みがあった。


日御子を、まっすぐに見た。


彼女を神でも、偶像でもなく、ましてや女でもなく、ひとりの人間として見つめられるように。

そのためには、この胸に巣くった濁りを、何としても払拭しなければならない。


幕を押し開けると、温かな香と灯りが流れ出す。

これから行う初めての経験への緊張から、指先がわずかに震えた。


二十過ぎ位の、タケルより僅かばかり歳上に見える女だった。それだけだった。

女人の美醜はよくわからない。特別な好意も、嫌悪感も感じなかった。ただ、心臓は激しく胸を打ち続けていた。

艶然と微笑みながら女が近づき、彼の頬に手を添える。

柔らかな指の感触が肌を撫でる。

けれど、緊張と同時に思い出すのは、やはりあの少女の顔だった。


彼は目を閉じた。

声を漏らすでもなく、ただ静かに、その温もりを受け入れた。

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