第七十三話 冷酷な真意
北に向かって進発した。
都萬彦は国境警備軍を二百名動員。更に都の予備隊四百名も呼び寄せ、六百名の大軍勢を組織した。
タケルは中軍に位置して、五十名の隊長となり、都萬彦も指揮官として軍を率いている。
女を抱いても、何も変わらなかった。
こんなものか。という思いしか沸いてこないのだ。
それでも、身体は浅ましいほど反応していた。
何度も何度も肉体の欲望を女にぶつけ続け、気付いたら夜も白み初めていた。
正気を失ったように寝転がっている女を置いて、逃げるようにその家を出た。
その時以来、奴婢の女たちの住居には通っていない。
心の中の日御子は、依然としてタケルの大部分を占めている。
二日後、山を二つ越えたところで、ついに奴国領へ入った。
海岸沿いの平野に、敵兵の陣列が広がっている。
タケルは、胸の奥に張り詰めていた糸がふっと緩むのを感じた。
戦が始まる。ようやくだ。
女では駄目だった。
どれほど抱いても、空虚は埋まらなかった。
今の彼に残された救いは、血と鉄の匂いに包まれるこの瞬間だけだった。
戦うことだけが、タケルを苦悩から解き放つ唯一の手段だった。
睨み合い、僅かに弓の応酬を行ったあと、都萬彦は少しずつ兵を前進させた。
盾で矢を防ぎなら、確実に敵へ肉迫していく。
一駆けの距離になった所で、奴国軍の方から突進してきた。
敵の総数は二百ほどか。一塊で押し寄せて来る。
都萬彦は軍を三段に分け、それぞれ二百名で編成していた。
一段あたりに五十名の中隊が四つ並んでいることになる。
同数でのぶつかり合い。
だが、前列の兵はあっけなく崩れた。
報告によれば、持衰たちはほぼ同数の敵を相手にしながら、奴国軍を散々に打ち破ったという。
兵の練度はほぼ同じ。それなのに、なぜこちらはこうも脆い。
前列の壁は今にも崩れ落ちようとしていた。
中軍へ敵が雪崩れ込むのも、時間の問題だ。
手を拱いている暇はない。
都萬彦は短く息を吐き、鉦を鳴らさせた。
中軍の、四つの隊が一斉に前進を開始する。
だが、そのうち一つだけ、あまりにも速かった。
味方の肩を押しのけ、土煙を上げて前へ躍り出る。
タケルの隊だった。
無謀な。
都萬彦は思わず歯噛みした。
なぜ足並みを揃えぬのか。
あの男に期待したのは、やはり過ちだったのか。南でのタケルの失態が脳裡に浮かぶ。
そう思った瞬間、信じられない光景が目に飛び込んできた。
二百名で敵わなかった相手を、たった五十名のタケルの隊が押している。
タケルの隊にぶつかった敵兵が、次々と地に伏していく。
兵の実力は大きく違わない。
では何が違う。そんなことは、考えるまでもなかった。
タケルの働きが、常軌を逸していた。
相対する敵を、ほぼ全て一刀のもとに斬り伏せていく。
血飛沫を浴びながら、次から次へと敵を断ち切る姿は、人の形をした暴風のようだ。
その姿に後押しされるように、タケルの兵たちは勢いを増していく。
恐怖ではなく、昂揚が伝播していた。
これが士気の力か。
五十名が徐々に敵陣を侵していく。
だが、その分、敵に包まれかけている。
後退を命じようとした、その刹那。
両翼の中軍が追いつき、タケル隊の左右から敵にぶつかった。
タケルの側面を狙っていた奴国軍の動きが止まる。だが、長くは持たないだろう。
都萬彦は後軍の鉦を打たせた。
自らが率いる本隊を、前へ。
味方の背後が迫り、押し寄せる波のように全軍が前進する。
敵の列がわずかに揺れ、その揺れが、やがて後退へと変わっていく。
都萬彦はその光景を見つめながら、口元に薄い笑みを浮かべた。
「やはり、使える男だな。タケル」
ぶつかり合いが始まって半刻ほどで、敵軍は後方の集落へと撤退していった。
都萬彦は無理に追わず、まずは自軍の召集を優先した。
間もなく、被害報告が上がってくる。
死者は三十二名。そのほとんどが前軍の兵だった。
タケルの援護が遅れていれば、被害は更に増していただろう。
一方、敵の奴国兵は百名近くを討ち取っていた。
都萬彦は陣を組み、その後方で怪我の酷いものの治療に当たらせた。
その間に、タケルを呼びつけた。
「随分と進軍が速かったな」
「部下には左右の味方に構わず、全力で走れと指示をしました」
タケルは言い訳一つする様子がない。
その潔さに好感を抱くと同時に、僅かな小憎たらしさも覚える。
「お前は遊撃隊か?中軍に組み込んだ意味がまるで無いな」
「申し訳ございません。前軍の被害を拡げぬようにするには、ああする他ないと考えました」
「お前たちの被害は考えなかったのか」
「それは……」
物怖じせずにはっきりと答えていたタケルが、突然言い淀んだ。
「何を躊躇っている。はっきり申せ」
「はい。あの程度の敵なら、他の中軍が到達するまでの時間、十分に持ち堪えることが出来ると判断しました」
ふてぶてしい。だが、タケルもその自覚があって口籠ったのだろう。
「なるほどな。奴国兵は弱卒か?」
「いえ。精強です。何より武器が強いです。奴らは殆どの兵が鉄製武器でした。だからこそ、俺が当たるべきだと思いました」
「傲慢だな」
「分かっています。処分は覚悟しています」
「いや、お前は進めという号令に従っただけだ。命令は犯していない」
「ですが、指揮の思惑からは外れていました」
そこまで聞いて、遂に都萬彦は笑い出した。
タケルは呆気に取られている。
この男は、自分の保身よりも、味方の命を一つでも多く拾うことを優先したのだ。
そのために、自分が処罰されても構わないという。
なんという正義感か。なんという自己犠牲心か。
なんという、愚かさなのだろうか。
だがこの愚かさが、都萬彦は愛おしかった。
「いや、良い。今後お前の隊は遊軍として扱う。その方がお前も力を発揮しやすいだろう」
笑いを押し殺し都萬彦はタケルに告げた。
「都萬彦様……」
「軍の再編は追って指示する。話しは終わりだ。お前も休め」
「はい。感謝します」
一礼して、タケルは駆け去っていった。
編隊を終えた都萬彦は、まず集落を包囲した。補給路を断ち、敵を締め上げる。正面の環濠には人手を並べ、土を積んでは踏み固める。
五日後には堀はほとんど平坦になり、進軍路は確保された。
「火攻めを行う。準備に取りかかれ」
都萬彦の号令に兵たちが動き出す。矢の先端に布を幾重にも巻き、獣脂と松脂を染み込ませる。油の匂いが潮風と混じって漂った。
「都萬彦様。集落の中には民もいるはずです。焼き打ちは、日御子様が築いた邪馬壹国の信頼を裏切ることになります」
タケルが鋭く割って入る。呼吸は荒く、顔には都萬彦に意見を差し挟むことへの緊張が見て取れた。対する都萬彦はどこか余裕を湛えている。
持衰なら言い争いになっただろうが、タケルを諭すのは幼子をなだめるようなものに思えた。
「分かっている。だからこそ我々は手を尽くす。火で全てを焼き尽くすつもりはない。標的は外郭だ。炎で門を焼き落としたら、速やかに突入して降伏を促す。民に被害は出させんよ」
都萬彦の声は冷静で、柔らかかった。タケルの肩の力が少し抜ける。
「わかりました、都萬彦様。俺が浅はかでした」
「お前は引き続き、後方の包囲隊を指揮していろ。追い詰められた敵が何をしでかすか分からんからな」
素直に頷いて持ち場へ戻るタケルを見送ると、密かに都萬彦は口の端を歪ませた。
夜陰に紛れて、弓を番えた兵を並べた。都萬彦は静かに号令を下す。火矢が木柵めがけて弧を描いて飛んでいった。
だが、火攻めはそれだけに止まらない。都萬彦はさらに木柵の奥、集落内の建物へと火矢を放たせた。
瞬く間に、茅屋の屋根が赤く染まり、煙と焦げた臭いが、夜風に乗って鼻を突いた。間を置いて、集落の中から人々の叫びが上がる。
タケルはあえて反対側に配していた。彼が気づくのはまだ先のことだ。
「悪く思うなよ、タケル。これは戦だ」
門が崩れ始めた。ここまで来れば、丸太で突き破るのは造作もない。
「門を破れ。男と年老いた者、抵抗する者は容赦なく殺せ。女子供は生け捕りにして連行せよ」
丸太を担いだ兵たちが整然と動き出す。都萬彦は兵士たちの背を見渡し、冷ややかに頷いた。
剣を頭上へ掲げる。
これを振り下ろせば、この戦も終わりだ。
その時、後方から、鉦の音が夜空に響き渡った。
馬鹿な。敵襲か。
そんなはずはない。物見は四方に放っている。
こんな近くに敵が迫ってくるまで気づかぬなどありえない。
そもそも、これほど早く、奴国に救援を呼ぶゆとりなどない筈だ。
ならば、もしやあれは。
兵たちが都萬彦の盾になるように取り囲む。
お互いの姿がはっきり視認できる距離にまで近づいた。
やはりそうだ。あの軍は――
邪馬壹国軍。しかも王の近衛隊達だ。
「まさか、父上自らが……」
前方の兵たちが左右に割れた。
その隙間から、白い光をまとった人影が静かに歩み出る。
純白の絹衣が、風に揺れるたび月光を返す。
髪は白銀に輝き、その足取りはまるで地に属さぬもののようだった。
兵たちは息を呑み、地に膝をつく者すらいた。
神が顕現したと信じて疑わぬその姿。
だが、都萬彦の瞳には違って映る。
「日御子……」
彼だけには、美しきその異母妹が、災厄をもたらす、禍々しき黒雲のようにしか映らなかった。




