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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第ニ章

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第六十四話 日御子

「ヒミコ、何でここに」

「サイの色が見えた……少し、怖い色」


そう言って、ヒミコは俺の隣に座った。


「今、怖い色なのか」

「今は、大丈夫」


それは、きっとヒミコが来てくれたからだと思う。


「ごめんな、ヒミコ。御子様のためとはいえ、お前まで巻き込んでしまった」


ヒミコの信者は、日ごとに増えていた。

各国から彼女に宛てた貢ぎ物が毎日のように届き、面会を求める人々が政庁の外にまで列を成す。

ヒミコは時間の許す限り、彼ら一人ひとりに応対していた。


「わたしは、平気……。いろんな国を回れて、嬉しい」


その言葉を聞いて、胸が少し痛んだ。

最近は、その“いろんな国”に出る時間すら、ほとんど取れていないことを俺は知っている。


「ファンサが良すぎるんだよな……。この時代に唯一と言っていいアイドルが、ここまで神対応してくれるんだ。信者が増えない方がおかしいよ」


俺の言葉の意味が分からず、ヒミコは小首を傾げた。


「宮崇とも、会えてないんだよな」

「宮崇先生も、忙しいから」


宮崇も、邪馬壹国の領地拡大に伴って忙殺されていた。

各地の村を巡り、医療と薬草の知識を広めている。

最終的にヒミコは、宮崇から“太平清領書”を受け継ぎ、独学でその教えを修めたという。


「母上にも、たまにしか……会えない」

「そうだな。でも、母さんはそれでも喜んでるよ」


ヒミコは先ほど、「平気」と口にした。

けれど、その表情はとてもそうは見えなかった。


最近、俺はヒミコのわずかな表情の変化が分かるようになってきた。

皮肉なことに、それが分かるようになってからは、ヒミコの“楽しそうな顔”を見る機会は、ほとんどなくなってしまったのだが……。


「サイ。宮崇先生に、まだ教えてもらってないことがある……。わたしはサイに教えてもらいたかったから、わざと先生に聞かなかった……」

「俺に、教えてもらいたいこと?」


何だろう。

俺も昔、宮崇の師である于吉のもとにいた。

“太平清領書”の教えを少しかじったことはあるが、あの頃は孫策を救うことに必死で、学びは中途半端なままだった。


ヒミコは今や、その教えをほぼ完璧にマスターしている。今さら俺が彼女に教えられることなんて、あるのだろうか。


「わたしの……名前」

「名前?」


ヒミコは、こくんと頷いた。


「わたしの名前。漢の文字ではどう書くのか、知りたい。太平清領書の中には、“ヒミコ”の字がなかった……」

「ヒミコの字か……」


俺はその辺にあった木の枝を拾って、地面に文字を書く。


卑、弥、呼――


「魏志倭人伝、いや、漢ではこうやって表すらしい」

「これが、わたしの字……」


なんとなく、ヒミコはしっくりこないようだった。


「どうかしたか?」

「この字、少し重くて、冷たい音がする……」

「音?音は一緒だけど……」


そこまで言って俺は気づいた。

そうか、ヒミコは共感覚者。

文字に対しても、視覚だけでなく、別の感覚を結びつけて認識するんだ。


「ごめん、やっぱ無し。この字は蔑称が含まれてる」

「蔑称……?」

「要するに、相手を舐めてるんだよ。だから、本来の意味を考えて文字を当てると……」


俺は、新しく文字を書き直す。

日、御、子ーーと。


「日御子……」


ヒミコが口に出して反芻する。


「御子様から聞いたんだ。ヒミコって名前には、最も優れた御子になって欲しいって、願いが込められてる。だから、冠に最高神である太陽、“ヒ”をつけたって」

「日の、御子……?」

「そう。日御子。いや、でもヒミコにとっては、どっちにしろ、あまり嬉しくないかもな……」


ヒミコは以前、はっきりと御子にはなりたくないと言っていた。

日御子という字は、そんなヒミコの想いとは矛盾するものだ。


「ううん、大丈夫……。この字からは暖かくて、綺麗な音がする。お母さんの声みたい……」


瞳を潤ませて、ヒミコはその文字を見つめている。

お母さんの声か。

もしかしたらこの名前には、幼くして亡くなった、ヒミコの母親の願いが込められているのかもしれない。


「それに、サイの字も……好き」

「俺の字が?」

「うん。優しくて、輝いてる。見ていると……すごく安心する」


地面に書かれた俺の字を見つめながら、ヒミコが微笑んだ。

月光が彼女の瞳に反射し、まるで涙と光が溶け合うようだった。


「ありがとう、サイ……。貴女にもらった名前。大事に、大事に……するね」


そう言って、ヒミコは自分の胸の前で両手を結んだ。

まるで心の奥深く――

自分のいちばん大切な場所に、“日御子”という名をそっと仕舞い込むように。


「俺は、意味に文字を当てただけだけどな」

「ううん、サイがくれたの。お母さんの想いに、キミが形を与えてくれた。卑弥呼では聞こえなかった母さんの声が、日御子になった途端に聞こえたの……」


ヒミコの目から、涙が一筋こぼれ落ちる。

歴史には、ヒミコの名は、“卑弥呼”として伝わっていく。けど、ヒミコと同じ時代、同じ地で生きる俺たちにとっては、ヒミコは日御子なんだ。



――何でそんなことをしたのか分からない。

月夜の明かりが、心を惑わせたのだろうか。


俺は、日御子の頬に伝う涙を、そっと払った。

潤んだ琥珀色の瞳の中に、俺の姿が映る。


日御子は、19歳になっていた。

初めて会った頃よりも大人びて、それでいてまだ少女の面影を残している。


少女と大人の狭間。

その一瞬だけに宿る儚い光が、日御子という存在の魔性を、いっそう際立たせていた。


俺は、涙を払った手を、もう一度日御子の頬に添えた。

日御子は抵抗せず、ただ俺の瞳をまっすぐに見つめている。


少しずつ、距離が縮まっていく。

息が触れそうなほど近くに、彼女がいた。


彼女の睫毛がわずかに震えた。

ゆっくりと、日御子が目を閉じる。


そして、俺は――



「盛り上がってるとこ悪いんだけどさ、恋愛禁止だかんねー」


突然、俺と日御子の間に、ナビの顔が浮かび上がった。

夜の中にぼんやりと光るナビの顔は、最早ホラーだった。


俺は絶叫して、ナビから離れるように飛び退ずさる。


「驚かすなよ。お前」


俺は胸を押さえながら叫ぶ。

未だに心臓が激しく騒いでいる。

ナビは乾いた目で俺を見下ろしている。


「キミ、今なにしようとしてた?」

「な、何って。別に何も……」


横目に逸らして、ナビの視線から逃れる。


「キッスしようとしてたよね」

「してない」

「してたよね」

「してない」

「いや、して……」

「サイ……?」


日御子の声にナビと俺がビクリとする。

……しまった。


「今、そこに神がお見えなの?」

「エエ?イナイヨー」


無駄だとわかりつつも誤魔化そうと試みる。

ナビは「やっちゃった……」とでも言いたげな顔をしている。


「サイ……。ウソはきらい……」


日御子の言葉が胸を抉る。

ダメだ。もう限界だ。もう逆らえない。

俺は懇願するようにナビを見上げる。


「卑弥呼は鬼道を操り、神と対話をしていたと信じられてきた。イタコとかシャーマンみたいなものだね。わたしという存在に気づいても、歴史的な矛盾は発生しないと思う……」


ナビも諦めたように溜息をつく。


「日御子、わかった。話す。話すよ」


俺はそう言って姿勢を正し、日御子に向き直る。


「えーと…、ここにいるのは神様っていうか、まあ、近い存在ではあるかもしれないけど、日御子が思ってるのとはちょっと違くて……」


動揺が収まらず、しどろもどろになってしまう。


「下手くそか。もう、わたしが直接話す。キミはわたしの言葉をそのまま伝えて」

「わ、わかった……」


そして、ナビが軽く咳払いする。


『はじめまして、日御子。と言っても、わたしはずっと貴女を見てきたし、貴女も薄っすらと、わたしの存在を認識していたと思うけど』


俺の口から、ナビの話した言葉をそのまま伝える。


『日御子達は、自然の中に神の姿を見出だしてるよね?そう言った意味では、わたしも貴女たちの神の定義に該当するかもしれない。わたしも、この宇宙、えと、自然のことわりが生み出した存在だから』


日御子の肩が僅かに震えている。


「サイ、凄い。あなたの声なのに、あなたの色がしない。ここまではっきりと、神の声を伝えられるなんて……」

「いや、そんな大したもんじゃないけど」


俺は照れ隠しに頭を掻く。


「いいから続けるよー」


ナビが軽く促し、再び言葉を紡ぐ。


『日御子、わたしはね、ここにいる持衰を導くために産まれたの。何だろ、貴女たちの言葉で言えば、案内人?みたいな感じかな』

「では、サイは……、やはり神と共にあるんですね……」

『まあ、そうなるね。でもね、わたしはそれ以上のことが出来ないの。ただ、この子に色々口出しするだけ。日御子が期待しているような、大それたもんじゃないんだ。ごめんね』

「いえ、海神様。あなたは、とても偉大なお方です……」

『わたしが、偉大?そうかな~』


ナビが照れる。凄く嬉しそうだ。

そう言えば俺、コイツのことあまり褒めたことないかも。

お互い様だけど。


『てか、海神様って?』

「違い……ましたか?持衰は、船の民の神、海神の化身だと……」


日御子が少し、恐縮する。

無礼を働いたかもしれないと思ったようだ。

全然、気にすることないのに。


『ああ、それね。海を渡って来たからそう思われちゃったんだね。わたしはね、今はナビって呼んでもらってる。日御子もそう呼んで』

那美なび……様?」

『そうそう』


ナビが満足そうに頷く。


「日御子、ナビが偉大だっていうのは?」


俺は自分の言葉で日御子に問いかける。


「サイ、それはね……」


日御子が俺に向かって答える。

同じ口を通して声を伝えているというのに、

不思議と混乱しない。

彼女には、俺達の“声の色”が見えているのだ。


「那美様のお声は……、慈悲深くて、雄大で、見たことのない色を、している……」


そもそも、この世界に存在していないらしいしな。


「何より、那美様は、サイをこの地に導いて下さった……。サイたちのお陰で、多くの人が、笑顔になった」


いや、俺からしたらそれは、全て日御子の力によるもだ。


いざないの神、那美様。あなたは太陽よりも偉大なお方です……」


静かに日御子が目を閉じる。

最後の言葉は、俺にでなく、ナビに宛てた言葉だろう。


『えー、太陽よりも偉大?それはちょっと言い過ぎだよー。太陽がなかったから、この星の生態系を維持出来なくなっちゃうんだよー』


ナビがかつて無いほど破顔している。

めちゃくちゃ嬉しそうだ。

あと、コイツのセリフを代わりに言うの、恥ずかしい。


『日御子ちゃんだって凄いよ。「日御子“ちゃん“?」「いーから、続けて」……まさかこの世界にわたしの存在に気づける人がいるなんてね。凄い才能だよ。可愛いし。日御子ちゃんがみんなに好かれるの分かるな』

「お誉め頂けて……嬉しいです。でも、那美様の美しさと比べれば……」

『わたしが、超絶美人?』そんなこと言ってない。『でも日御子ちゃんわたしの姿見えないでしょう?』

「いえ、サイの言葉から……そのお姿が、朧気に浮かんできます」

『えー、照れちゃうな。けど、日御子ちゃんの方が可愛いよ〜』

「いえ、那美様の方が……」

『いやいや、日御子ちゃんが』

「いえ、那美様が……」

『いや、日御子ちゃんの…』もう、いいかな」


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