第四十八話 故き地へ
「孫堅!」
倒れた孫堅を抱え、仰向けにする。
息はある。だが呼吸が荒い。
なんで——。
大きな出血はない。
矢も完全に急所を外している。
すぐに命に関わるような傷ではないはずだ。
「……毒」
タケルの声に顔を上げる。
その顔も蒼白だった。
「……毒?」
その言葉にはっとする。
「まさか、鏃に毒を……?」
弓の伏兵も、落石も、奇襲も防いだ。
なのに、最後の最後に毒だって?
——歴史は、何が何でもここで孫堅を殺したいのかよ。
「毒矢、か……」
荒い息を吐きながら、孫堅がかすれた声を出す。
「孫堅!」
良かった、まだ意識はある。
「調子に乗って暴れ過ぎたな……。動いた分、毒の回りが早まったようだ」
そう言って、孫堅が自嘲するように笑う。
だが、話している間にも呼吸は乱れ、
その顔から血の気が引いていく。
まずい……。まずいぞ、まずい。どうしたらいいんだ。どうすればいい?何ができる? どうすれば孫堅を救える?
自分の脳内を必死でまさぐる。
何かないか。何か——。
「持衰、将軍の呼吸が……!」
痰が絡んだような、嫌な音が混じっている。
胸が大きく上下していた。
その様子を見て、俺はますますパニックになる。
「持衰、どうしたらいいんだ!于吉様から何か教えられていないのか?」
——于吉。そうだ、于吉。
あいつから、いくつかの治療法は教わっていたはずだ。
記憶を必死に掘り起こす。
「タケル、布を裂け。腕を縛るんだ。毒の回りを少しでも遅らせる」
「わかった」
タケルが自分の袖を引き裂き、孫堅の肩の上を強く締め上げる。
俺は肩に刺さった鏃の角度を確かめた。
返しがある——抜けば、傷が広がる。
だが、このままでは毒が回る。
「くそ……」
鏃を押さえ込んだまま、力を込めて捻り抜く。
血が吹き出した。
「布を締め上げて、血を止めろ!」
タケルが力を込めて布を引き絞る。
俺は傷口に口を当て、血を吸い上げた。
鉄の味。喉が焼けるような苦味。
吐き出す。もう一度吸い、吐く。
とにかく毒を吸い出さなければ。
血を吸い、吐く。何度も、何度も。
手のひらで孫堅の胸を押さえ、呼吸を確かめる。
荒いが——まだ生きている。
「……もういい、二代目」
驚いて孫堅の顔を見上げる。
先ほどよりも呼吸が安定してきていた。
「身体を上げてくれないか? 座りたいんだ」
俺は傷口に布を押し当て、圧迫して止血した。
手が血にまみれる。
孫堅を抱え、岩壁の近くまで運び、言われた通り背をもたせかける。
「呂公の援軍から……黄祖の筋書きだったのかもしれんな。包囲に穴を空け、峴山に逃げ込む。伏兵、落石……おまけに毒矢か——」
そこまで言うと、孫堅が激しく咳き込んだ。
口から血を吐き出す。
どす黒い血が、地面にじわりと染みを作る。
「孫堅!」
「黄祖も……中々どうして、やるじゃないか。兵が脆弱だからと、油断したのは俺の方だったな……」
虚ろな目で遠くを見つめながら、孫堅は言葉を紡ぐ。
「孫堅、もうすぐ呉景がやってくるはずだ。それまで何も話すな」
今は孫堅に、これ以上体力を使わせたくない。
——呉景、まだか。早く来い。
タケルが立ち上がり、駆けていった。
呉景が見つけやすいように、場所を移すつもりなのだろう。
孫堅と、二人きりになった。
静寂の中、孫堅の荒く、そして弱々しい呼吸音だけが響いている。
「二代目……策は、強い男だ。俺よりも。だが、真っ直ぐ過ぎるところがある。周瑜のような有能の士を重用し……天下へ羽ばたけ。そう……伝えてくれ……」
「なんだよ、それ。嫌だよ……自分で言えよ」
孫堅の目から、光が消えていることに気づいた。
もう、何も見えていないのかもしれない。
——俺の声は、届いているのだろうか。
崖の上を見上げる。何の気配もない。
どれほどの時間が過ぎたのか。
一瞬のようでもあり、果てしなく長い時が過ぎたようにも思える。
孫堅……死なせたくない。
お前は、俺の友だちなんだ。——大切な。
「……持衰」
孫堅が、ぽつりと呟いた。
「持衰。いないのか?」
自分が呼ばれていると、最初は分からなかった。
孫堅は俺のことを、生まれ変わった“今の俺”をいつも「二代目」と呼んでいた。
孫堅が“持衰”と呼ぶのは、ただ一人。
——最初に出会い、まだ少年だった孫堅と戦った、“かつての俺”だけだ。
「ああ……孫堅、いるよ。ここにいる」
俺は孫堅に応えた。
今の“二代目”としてではなく、あの時の——
孫堅が友と呼んでくれた、“最初の持衰”として。
「持衰……お前がいなくなってから、辛かったよ。黄巾の乱で多くの民を殺した。大義のために、更に多くの人間を。仲間の命も、たくさん奪った」
「ああ……ずっと見てたよ」
「進むしかなかった。お前の命に、仲間の命に、奪った命に——報いるために。……するとまた、人が死ぬんだ」
孫堅は、強すぎた。
だから、孤独だった。
この乱世で“民を救いたい”という〈仁〉と、
それを実現できる〈力〉を同時に持つのは、
あの瞬間、この男ただ一人だった。
「お前は……バカ正直に、何でも背負いすぎなんだよ」
俺の言葉に、孫堅が微かに笑う。
「最後に……謝りたかった。持衰。俺、最初に会った時——酷いこと、言ったよな」
覚えている。
自分の手を汚したくなくて、仲間の命を危険に晒した俺に孫堅が放った言葉。
“命を奪わぬくせに、仲間が敵を殺すことには頓着しない”
“自分の手が汚れぬことしか考えない、英雄気取りのクソ野郎”
孫堅の言葉は、深く——深く、俺の胸に刺さった。
——でも。
「良いんだ。お前はいつも、俺に気づかせてくれた。俺の甘さに」
それで殴られたこともあったっけ。
思い出すと、笑えてくる。
でも、それが——こいつの優しさなんだ。
「俺の方こそ、ごめん。先に逝っちまって……。そのせいで、お前を一人にした」
孫堅は、微かに首を振った。
「最後に、会いに来てくれた。それで十分だ。……やっぱりお前は、最高の俺の友だちだ」
孫堅が手を差し伸べる。
俺はその手をしっかりと包み込んだ。
固く、固く。
「……良くやったな。友よ」
俺の言葉を聞いて、孫堅が——満足そうに笑った。
孫堅の亡骸を抱え、俺はタケルが去った方向へ足を向けた。
馬蹄の足音が響く。
タケルに連れられて、騎馬隊が駆け寄ってくる。すぐに俺と孫堅に気づいたようだ。
「将軍?」
「義兄上、まさか……」
タケル、呉景、兵たちが呆然と立ち尽くす。
孫堅が死んだ。――皆その現実を、うまく受け止められていない。
「呉景さん。おそらく黄祖が援軍を要請している。すぐに襄陽へ戻り、軍を退かせよう」
騎馬隊の馬を手早く見繕い、孫堅の身体を括りつける。
だらりと垂れた腕を見て、そこにもう生命が宿っていないことを突きつけられる。
呉景が泣き叫ぶ。タケルの身体がわなわなと震える。
兵たちの中から嗚咽が漏れる。
「タケル、馬を駆けさせて先に倭人村へ戻れ」
惚けた顔のまま、タケルがこちらに目を向ける。
「出航の準備を整えておけ。俺が戻り次第、倭国へ立つ」
その言葉に、ようやくタケルがはっきり反応した。
「持衰、お前」
「呉景さん、馬を一頭分けてくれ」
返事はなかったが、俺は勝手に馬の手綱を取り、タケルに差し出す。
「行け、タケル。みんなが待ってる」
「お前はどうするんだ?」
「後始末が必要だろう。それが友への餞だ」
タケルが頰を濡らしたまま強く頷くと、句章へ向け、駆け去った。
「呉景さん、時間がない。早く孫策にも伝えないと」
呉景は膝をつき、肩を震わせている。俺は襟首を掴んで無理やり立たせ、その顔を殴りつけた。
「呉景、行くぞ。孫堅だけでなく、孫堅の残した者たちも失いたいのか」
呉景が歯を食いしばり、何とか馬に跨る。
俺も兵の後ろに乗り込む。全員が乗馬したところで、襄陽へ向けて一斉に駆け出した。
孫策の判断は早かった。
動揺する将兵を素早くまとめ上げ、漢水からの撤退を開始する。
「黄祖が戻れば、父上の死が劉表に知られる。孫の旗を掲げろ。父上がまだ生きていると思わせるんだ」
飽くまでも冷静だった。
孫策は王者として完成されつつある。
遠くに土煙。――黄祖の援軍だ。
歩兵の渡河はまだ完了していない。
流石に劉表も、孫堅軍――いや、孫策軍の異常に気づくだろう。
城から打って出てくるかもしれない。
「足の遅い歩兵隊を援護する。持衰」
頷き、馬を疾駆させた。
孫堅の残した騎馬隊と合わせ、総勢550騎。
弾丸のように敵陣へ飛び込む。
数千の敵を物ともせず、騎馬は縦横無尽に敵群を駆け回った。
阿修羅の如き孫策に率いられ、騎馬隊がかつてないほどの力を発揮する。
孫策が剣を振るたび、敵の首が幾つも舞う。刃が赤く染まる。孫策の周りに血の雨が降る。
今の孫策は、あの呂布にも匹敵するかもしれない。
「持衰……父上は、何か言っていたか?」
戦場の喧騒の中で、孫策が俺に問いかける。
「お前は自分よりも強い。だが、前だけを見すぎるな。周瑜や才ある者を重用すれば、自分以上に高く、天下に舞い上がれる」
「……そうか」
孫策が微かに笑った。
歩兵の渡河が終わる。
「もう、時間か」
「ああ。お別れだ、孫策」
歩兵隊はすでに漢水の向こう側だ。
これ以上の戦闘は不要。騎馬隊が漢水へ向かう。
「公瑾、祖茂さん、黄蓋……みんなによろしくな」
「ああ」
「あと、于吉と仲良くな」
「于吉?」
「最初、喧嘩してたからな」
孫策が笑う。
「あったな、そんなこと。もう大丈夫だ」
孫堅の運命は変えられなかった。
けれど、孫策と于吉なら——。
漢水を渡りきった。
孫策が馬を止める。
左右に兵が並び、その間の道を、俺はひたすら駆け抜けた。
背中から、鼓と鉦の音が響く。
「じゃあな……みんな」
句章県に入り、倭人村が見えてくる。
遠くの浜辺に、三隻の船が並んでいた。
俺は浜に向かう前に、倭人村の傍にある小丘へと馬を向ける。
——倭人塚。
先代の首長と、この地で命を落とした仲間たちが眠る。
ついでに、前の俺も。
塚の前で手を合わせる。
さよならだ、親父。
あんたの夢、俺が叶えるよ。
再び馬を走らせる。
タケルが伝えてくれたのだろう。
すでに乗り込みはほとんど終わっていた。
「于吉」
浜には、大勢の見送りの倭人たちと、于吉の姿があった。
「持衰、宮崇を頼むぞ」
「こちらこそ。孫策を守ってくれよ」
俺は于吉に笑いかける。
「于吉先生」
宮崇が于吉のもとへ歩み寄る。
最後の別れだというのに、その顔は相変わらず無表情だった。
「宮崇。儂の教えは、多くの命を救い、より良い未来へ導くためにある。そこに漢人も倭人もない。儂はもう老いた。だが、お主は違う。別天地で、“これ”という人物を探せ。その者がまた、人々を救う。お主は儂に代わって、倭国でそれを見届けてくれ。お主にしか頼めぬことだ」
宮崇が于吉の前に跪く。
肩が震え、微かな嗚咽が耳に届く。
次第に大きくなり、やがて号泣となった。
普段の宮崇からは考えられない姿だった。
わかりにくくても、宮崇は于吉のことを心の底から慕っているのだ。
首長や皆、一人ひとりに俺は別れの挨拶を告げた。
もう、会うことはないだろう。
それでも——信じた道、夢、大切な人のため、俺たちはそれぞれの道を行く。
俺は船へと向かう。
タケルが走り寄ってくる。
「おい、持衰。航海に出る前に決めないといけないことがある」
「決めること?」
「神に祈って船を守る存在。……持衰だよ。出航する前に持衰を決めなきゃだろ?」
タケルの言葉に、俺は思わず吹き出した。
「お前、自分で言ってて気づかないのか?」
きょとんとした顔をしていたタケルが、何かに気づいたように目を見開く。
「持衰、お前まさか——」
「持衰が持衰やらなくてどうするんだよ。お前らにとっては俺が――」
「俺だけが、持衰だ」
第一章 完




