第四十七話 乗り越える運命
遂に、それはやってきた。
倭人村のネットワークは、かなり発達していた。
会稽郡の村々や街との往来が増え、情報交換も頻繁に行われている。
さらに、于吉の存在も大きい。
彼の信者や弟子たちは、孫堅軍の医療隊として働くだけでなく、各地に散って偵察活動も担っていた。
于吉と縁があり、元倭人隊の者たちが暮らすこの村では、重要機密を除けば、孫堅軍の動きをある程度まで把握することができた。
ーー孫堅軍が荊州の劉表を討つため、南下を開始。
その報せをもたらしたのは、于吉の信者だった。
襄陽の戦い。
いよいよ始まる。
「ナビ」
「……わかってるよ。もう止めない」
目を合わせずにナビが答える。
「ありがとう」
短く礼を言い、俺は首長の屋敷へ駆けた。
訪いも告げず、戸を押し開けて中に飛び込む。
「首長」
突然の訪問に、首長が目を丸くする。
「どうした、持衰?」
「首長、ごめん。今から襄陽に行く。俺が戻るまで、出航を少しだけ待ってくれないか?」
出航準備はすでに整っていた。
5日後には海に出る予定だった。
本当に、ぎりぎりのタイミングだった。
「……孫将軍を助けに行くのか?」
首長が目を細める。
すでに首長の耳にも、孫堅のことは届いていたようだ。
「戦に参加するわけじゃない。見届けるだけだ」
半分は嘘だった。
孫堅の身が危ぶまれる場面になれば、俺は迷わず飛び込むつもりだった。
「なぜだ、持衰?」
首長の声には困惑が滲む。
「この村に戻ってからも、孫将軍の戦は何度もあった。だがお前はそのいずれの時も、何も言わなかった。よりによって、なぜ今なんだ?もう倭国への船が出るというのに」
首長の疑問はもっともだった。
だが、言っても納得させられるような理由ではなかった。
「俺が、この地で見るべき最後の戦いなんだ。理由はうまく説明できない」
「……元倭人隊の者たちは動かせんぞ」
諦めたように首長が溜息をつく。
「わかってる。行くのは俺ひとりだ」
そう言い残し、俺は屋敷を飛び出した。
武器庫で剣と弓を手に取り、厩へと駆ける。
「タケル?」
厩の柱にもたれかかっている。
タケルも腰に剣を佩き、弓と矢筒を背負っている。
「何やってんだよ、お前。こんな所で」
「お前こそだろ。倭人を率いていく持衰様が、何みんなを置いて、戦場へ向かおうとしてんだよ?」
「……何でそれを」
「于吉様に言われたんだよ。お前について行けって」
于吉。余計な気を回して……。
「ダメだ。首長には、一人で行くと約束した」
「俺だって、于吉様と約束したんだよ」
からかうようにタケルが歯を見せる。
そして、ふっと真剣な顔になる。
「お前のことだ。俺たちには見えない何かが見えてるんだろ?この戦で、何かが起きるって」
真っ直ぐに俺を見据えてくる。
「だったら俺も力になりたい。俺だって破虜将軍や伯符殿と、ずっと一緒に戦ってきたんだ。お前だけ行くなんてズルいだろ?」
最後は、少し冗談めかした口調だった。
説得しても、タケルはついてくるだろう。
大切な人を守るためなら、タケルは何だってする。
そういうところは、俺と同じだ。
仕方なく、俺は頷く。
それに正直、タケルがいてくれた方が、孫堅を救える確率はぐっと上がる。こいつまで危険に晒したくはないが、その武勇は確かに心強い。
「決まりだな」
タケルがにかっと笑い、馬に跳び乗る。
俺もそれに続いた。
タケルは倭人隊にいた頃は馬に乗れなかった。
だが村に戻ってからの一年間、訓練を重ね、
今ではタケルの方が俺より巧みに馬を操る。
タケルと並んで、襄陽へ向けて馬を走らせた。
報せでは、孫堅は襄陽へ向けて進発を開始したばかりとのことだった。
だが、この時代だ。情報には大きな時差がある。
すでに戦がどこまで進んでいるのかわからない。
俺はタケルとともに、必死で馬を走らせた。
馬が潰れないぎりぎりの頻度で休息を挟み、三日かけて、句章から襄陽へと至った。
小高い丘に辿り着いた時には、
孫堅軍の半数以上がすでに漢水を渡り、
襄陽城を包囲し始めていた。
現在、河を渡っているのは程普軍。
その後方には、黄蓋軍が控えている。
——間に合った。
「懐かしいな、この感じ」
タケルが目を輝かせて呟く。
辛いことが多かった。
だが、戦場を駆け抜けた日々は、十七歳のタケルにとって、青春そのものなのかもしれない。
一年ぶりに眺める孫堅軍の姿に、
込み上げるものがあるようだった。
だが、俺は感慨に浸っている場合ではなかった。
「タケル、急ぐぞ。俺たちも漢水を渡る」
「おい、持衰。明らかに将軍が優勢だぞ。そんなに慌てなくても——」
「まだだ。まだ何が起こるかわからない」
丘を駆け下りる。
漢水沿い、南方の地平に敵の一団が見えた。
援軍か。
祖茂さんの軍が半数ほど迎撃に出る。
黄蓋軍が近づいてくる。
対岸には孫堅の姿が見えた。
——突如、その孫堅が駆け出す。
「来たか……」
手綱を握る手に、じっとりと汗が滲む。
記録によれば、孫堅は襄陽を出た黄祖を追い、その途上で命を落とす。
原因は定かではないが、敵の弓矢、あるいは落石によるものとされている。
——弓。落石。
まずはこの二つを潰す。
「黄蓋」
馬を駆けさせながら叫ぶ。
「じ、持衰?」
黄蓋が、これ以上ないというほどの声で叫んだ。
「孫堅を追う。先に行かせろ」
「おいおい、持衰」
後ろについてきていたタケルも、驚いた声を上げる。
「兵をどかせ、黄蓋」
俺は強引に黄蓋軍の陣中へ突入した。
「あ〜、くそっ……仕方ねぇ。お前ら、道を開けろ」
後方から黄蓋の怒鳴り声が響く。
渡河の準備をしていた兵たちが慌てて退き、
馬の蹄を避けながら道を作った。
その狭間を、俺とタケルの二頭の馬が疾駆する。
漢水の向こう側の兵たちも、突如現れた俺たちの姿を認め、驚愕していた。
だが、俺は兵が制止の声を上げるより早く、
一直線に峴山へと駆け抜ける。
孫堅が向かった方角。
馬群の足跡を頼りに、峴山の山道を進んだ。
——弓。落石。
伏兵を配するなら高所。
落石なら、言うまでもない。
俺は道を逸れ、急な上り坂を選んだ。
駆ける。孫堅、どこだ。
遥か下に騎馬の一団を認めた。
30騎ほどの敵の騎馬。おそらくあの中にいるのが黄祖。
そしてそのわずか後方に孫堅の騎馬が50騎ほど。
崖と谷に阻まれ道は狭い。
狙い撃つならこの辺りだろう。
「見えた」
弓を持った兵の集団。既に矢を放っている。
――弓。落石。
俺は全力で馬を駆けさせ、敵兵の中に躍り出る。
馬上から敵を斬り伏せる。
一瞬、孫堅がこちらを見上げる。
俺だと気づいたかどうかはわからない。すぐに馬を走らせ、駆け去っていく。
後方から矢が飛来した。
正確に敵の喉笛を射抜く。
タケル。
いつの間に騎射まで。俺にこんな芸当はできない。
討ち漏らした兵が逃げ出す。
「タケル。一人残らず仕留めろ。俺は先に孫堅を追う」
タケルが一瞬怪訝な表情をする。普段ならば捨て置けばいい。
だが、今は違う。たった1本の矢が、孫堅の命を奪うかもしれないんだ。
全ての可能性は潰さなければならない。
「了解した」
タケルが俺から離れ、敵を追う。
戦闘中は兵にとって命令は絶対。
倭人隊の頃の慣習が、タケルの中で疑問よりも指示を優先させた。
1人孫堅を追う。
孫堅が遂に黄祖の騎馬隊を捉えた。
兵の首を一つ飛ばす。
微かな振動。小さな地響き。
考えるより先に身体が動いた。
急峻な坂を駆け下り、孫堅のもとに真っ直ぐ向かう。
揺れと音が大きくなる。観測者補正。
瞬時に周囲を観察する。
岩。雪崩をうって迫ってきている。
味方の頭上に降り注ぐ。1人に当たり、絶命した。
巨岩が孫堅を襲う。
間に合え。
俺は馬から身を躍らせ、孫堅に飛びついた。
凄まじい轟音とともに、頭上から次々と岩が転がり落ちてくる。
孫堅を抱きかかえたまま、地面を転がり落ちた。
全身を岩肌が打つ。
息が詰まる。——呼吸が、できない。
視界が回る。
地と空の区別がつかない。
いつまで転がり続けるのか、意識が途絶えそうになる。
やがて地に放り出され、強く叩きつけられた。
少し離れた場所で、岩が落ちる音が響く。
咳き込む。必死に息を吸い、吐く。
骨は折れていない。身体は動くが、全身が擦過傷だらけだ。
——孫堅は。
顔を上げると、孫堅が俺を見下ろしていた。
差し伸べられた手を掴み、俺は立ち上がる。
「二代目……どうしてここに」
孫堅が信じられないものを見るような表情を浮かべていた。
「孫堅、無事か。怪我はないか?」
問いには答えず、俺は孫堅の身体を確認する。
俺と同じく、大きな怪我はないようだ。
ほっと息を吐く。膝の力が抜けかけたところを、孫堅が支えてくれた。
「お前、俺との約束を忘れたのか。首長殿の志は——」
「わかってるよ。忘れてなんかいない。……これが最後だ」
俺は微笑む。
「持衰、将軍」
崖の上から声が響いた。タケルが滑り降りてくる。
「お前は……」
「元倭人隊のタケルと申します、将軍」
タケルが拝礼する。
「知っている。戦場でのお前の働きは、目を見張るものがあった」
タケルの頬がわずかに紅潮していた。感激しているのだろう。
「タケル。他のみんなは?」
俺は問いかける。上から見ていたなら、状況を把握しているかもしれない。
「将軍以外は……全滅だ」
タケルが悔しそうに首を振る。
ならば、孫堅が今こうして生きているのは、もはや奇跡だ。
「二代目。こうなることがわかっていたのか? だからここへ来たのか?」
孫堅が改めて俺を見つめる。
「まあ……虫の知らせってやつかな」
孫堅の表情は、納得したようには見えなかった。
だが、それ以上の追及はなかった。
「黄祖が生きているかは分からぬが、これ以上の追撃は無理だな。別働隊の呉景が、この騒ぎに気づいて救援に来るだろう。それを待って、襄陽に帰陣する」
俺とタケルは、その言葉に頷いた。
——弓。落石。
すべての運命を跳ね除けた。
この先どうなるかはわからない。
だが、少なくとも今日この日——孫堅が死ぬことはない。
呉景が発見しやすいように、もう少し目立つ場所へ移動することにした。
――その時だった。
目の前を“何か”が通り過ぎた。
“何か”ではない。俺の目は、確かにそれを捉えていた。
孫堅の肩に、それが突き立つ。
——弓。落石。……弓。
「孫堅!!」
喉を震わせ、叫んだ。
矢が飛んできた方向を睨む。
先ほどの騎馬兵たち——。
「黄祖……」
孫堅が呟く。
あの落石の中、かすり傷一つついていない。
——まさか。
敵がさらに矢を番えた。
タケルが走り出す。
俺もそれに続く。
慌てて放たれた矢は力なく、俺とタケルは虫を払うようにそれを防いだ。
孫堅も肩に刺さった矢をへし折り、敵に斬りかかる。
急所は外れている。命に関わるものではなさそうだ。
タケルが馬の脚を斬り、馬上から転げ落ちた兵を次々と仕留める。
俺と孫堅も敵兵を突き殺していく。
半数以上を討ち取ったところで、黄祖が馬を返して逃げ去った。
こちらは馬を失っている。追うのは難しいだろう。
「黄祖のやつ……あの落石も、あいつの仕込みだったのか?」
タケルが、次第に小さくなっていく黄祖の背を見ながら呟く。
「ああ。けど、これで終わりだ。あとは援軍を呼ぶくらいしか、アイツにできることはない」
俺はタケルの問いに答えた。
だが、孫堅がいない間に増援が来れば厄介だ。
一刻も早く、呉景と合流しなければならない。
「急いで、発見しやすい場所に移動しよう。孫堅——」
振り向き、孫堅に視線を向けた。
なのに、すぐ後ろにいたはずの孫堅が、どこにもいない。
「……孫堅?」
全身の血が、急速に冷えていく。
瘧のように身体が震える。
視線を下に這わせる。
――足もとで、うつ伏せになった孫堅が転がっていた。




