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倭国大乱  作者: 明石辰彦
第一章

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第四十六話 襄陽の戦い

魯陽県から南下。新野にて迎撃に出た劉表軍と戦闘になったが、敵は呆気なく撤退した。

そのまま淯水いくすいに沿って更に進み、劉表の本拠、襄陽へと至った。


小高い丘に立ち、孫堅は襄陽を眺めた。

襄陽の周りは支流である淯水が合流した、漢水が流れている。その前に立ちはだかるように樊城が鎮座している。まずは樊城を攻め落とさなければ、襄陽を攻めることはできない。だが、樊城を攻略しようとすると、更にその後方にある鄧城からの兵に背後を突かれる。

鄧城を攻めてもまた同じ事となる。


「周瑜、どう見る?」


三十歩ほど離れた場所で、周瑜は地図を膝に広げていた。周囲を囲む兵たちが息を潜める。彼は手にした筆で軽く地面を叩きながら、冷静に答えた。


「襄陽は天然の要害です。樊城と漢水がまるで盾のように構えています。更に厄介なのが襄陽、樊城、鄧城の連携です。お互いがお互いの援護にすぐに向かえるようなっている。正面からぶつかれば兵がいくらあっても足りません」


「だが、俺たちに退く選択肢はない」


孫堅の声は静かだが、その眼光は燃えていた。


「はい。なのでまずは樊城、鄧城を結ぶ線を断ち切ります」


地図の上、樊城と鄧城の中間地点に、力強く、周瑜が駒を置く。


「樊城と鄧城の間、鄧塞を取ります」


「ふむ。しかし、二城からの挟撃にあうな」


「望むところです。城攻めに集中している背後を突かれるより遥かにいい。我らならば必ずや打ち破れるでしょう」


董卓との戦いを経て、周瑜は一回り大きくなった。

頭だけで考えることが多かったが、時に大胆な策に出るようになった。

孫策と同じ一七歳だが、既に立派な一軍の軍師と成りつつある。


――劉表。孫堅は再び遥か襄陽城を睨む。

孫堅はかつて、荊州刺史の王叡を死に追いやり、同じく荊州の南陽郡太守だった、張啓ちょうしを処断した。

これにより孫堅は豫州だけでなく、荊州にも強い影響力を持つことになった。

だが、孫堅の洛陽上洛に際して南方の守りが手薄となった。

その隙に乗じて新たな荊州刺史に収まったのが劉表だった。

曲がりなりにも打倒董卓を掲げた連合軍。同志であるはずの孫堅が、共通の敵である董卓と戦っている、当にその時。共に戦うどころか、刃を向けたのだ。


「傍観するだけでも、腹立たしいというのに。……俗物が」


なにが名士だ。

民からの覚えはめでたいようだが、やっていることは火事場泥棒と変わりはない。


無論、孫堅の荊州支配も半ば強引なものであったし、乱が頻発する荊州の鎮静化をはかった劉表の功績は大きい。

孫堅は一方的に劉表を非難できる立場でもなかった。


だが、これが孫堅から見た劉表の評価であった。



不幸中の幸いは、劉表が袁術と対立し、袁紹と手を結んでくれたことだった。

当然、袁術は劉表が目障りになる。劉表の荊州刺史という立場を認めず、孫堅に討伐を命じた。

これで心置きなく劉表を叩き潰すことができる。その根拠が、まがいものの大義名分であったとしても。





「よし、鄧塞へ進む。中軍に黄蓋軍。鄧塞を占拠しろ。南北にそれぞれ祖茂軍、程普軍。敵はこちらの意図に気付き、必ず妨害を行なってくるだろう。全力で黄蓋を援護しろ」

出陣の鉦が鳴らされる。

鄧塞へ向かって九千の歩兵隊が突き進む。

遠くで地鳴りが聞こえる。間もなく南北から敵の一団が向かってきた。

合図を出す。両翼の祖茂と程普の軍が分かれはじめる。

南北の敵軍の方向へ、それぞれ進軍路を変える。

樊城と鄧城から出陣してきた敵は二千ずつほど。祖茂と程普の軍は三千。

数で言えばこちらが勝っているが、あちらの二千の中には騎馬隊もいるようだ。

機動力で翻弄されかねない。

矢の届く距離に到達した所で、敵軍が射かけてくる。

祖茂、程普は冷静に兵に盾を構えさえ、こちらも弓で応戦する。

そのままじりじりと前に出る。

敵軍から騎馬隊が飛び出してきた。

方々から騎馬が繰り返し襲う。


後方で見守る孫堅の騎馬隊は六百。

だが、孫堅に動く気配は無かった。

傍らには孫策がいる。

孫策も静かに戦場を見守っている。

今までであれば、敵軍に騎馬を認めた途端に飛び出そうとしていただろう。

勇猛さは寧ろ増しているが、同時に将として、泰然とした威風を身に纏いつつあった。


孫策も確実に成長している。

いずれ孫策は、周瑜ら有能の士を翼とし、孫堅以上に高く舞っていく。

そんな予感めいた確信が、胸の奥でゆっくりと形を成していった。


黄蓋軍が鄧塞へと近づく。

だが一団の前に立ち塞ぐ塊。

風に靡くは“黄”の旗。


「黄祖の本隊か」


劉表配下の将、黄祖。

樊城に拠っていた指揮官だが、鄧塞の守備に出張ってきたようだ。


「兵は軟弱だが、この場所の重要性を解する頭くらいはあるようだ」


前方の黄祖軍はおよそ四千。

これでこの戦場に投入している敵兵は計八千となる。


「樊城と鄧城の兵は合わせても一万に満たないはず。二城は今、ほとんどもぬけの殻か?」


だとしたら、そこそこの胆力ではあるが——

果たして黄祖に、そのような決断ができたものか。


「将軍。斥候からの報告です。黄祖は周囲の丘陵に複数の砦を築き、哨戒を張っていたようです。正面の敵の半数ほどは、そこから出てきているようです」


拝礼し、周瑜が孫堅に告げる。


「やはりな」


臆病者らしい頭の使い方だ。

孫堅軍は全兵力を鄧塞奪取に投入している。

二城の戦力すべてをぶつけ、砦の兵を伏兵のように使えば、まだ勝負になったかもしれない。


「策、出るぞ」


孫堅は馬腹を蹴った。

既に黄蓋軍は正面の黄祖本隊と交戦している。

数では劣る上に、やはり正面の敵軍の中にも騎馬隊がいる。

流石の黄蓋でも多少は手を焼くだろう。


蠅のように黄蓋軍に群がる騎馬隊を、孫策の三百騎が追い散らしていく。

孫堅は残る三百騎で、そのまま敵陣に突っ込む。

あまりに脆く、怒りが湧くほどだった。


騎馬に陣内を荒らされた敵はすぐに浮足立ち、勢いが鈍る。

その機を逃さず、黄蓋の重歩兵隊が押し込んでくる。

あえなく黄祖軍は敗走。

南北の敵もその様子を見て、そそくさと軍を返していった。


「祖茂と程普には、適当に追撃したら、すぐに切り上げるように伝えろ。まずは鄧塞の確保を優先する」


孫堅の指示を伝えるため、早馬が風を切って駆けていった。


その後、孫堅は鄧塞に黄蓋を置き、北の鄧城の包囲を開始した。

樊城から敵の救援が駆けつけるが、鄧塞の黄蓋軍に阻まれている。

孫堅軍は後顧の憂いなく、鄧城攻略に専念できた。

二日にわたり兵を交代させつつ、孫堅は間断なく攻撃を続けた。

そして三日目の朝、ついに鄧城は陥落した。


籠城戦の片翼である鄧城が落とされれば、樊城の守備力は激減する。

鄧城陥落の報せを受けるやいなや、黄祖は樊城を捨て、三方を河川に守られた襄陽城へと逃げ込んだ。

孫堅は北側の漢水沿岸まで軍を進め、そこから襄陽を窺う形をとった。


襄陽城を陥とし、劉表を討てば、荊州を掌中に収めることができる。

荊州を得れば、次は揚州。

そこを押さえれば、江南一帯はすべて袁術陣営の支配下に入る。


その後、伝国の玉璽を奉じ、帝を戴いて天下に号令する。同時に、袁術より独立を果たす。

反発する諸侯はすなわち賊軍となる。例えそれが袁術であろうともだ。権威と武力をもって平定する。

そして漢王朝を、再び正すのだ。


——その大義の足がかりこそ、あの襄陽であった。


「策よ。襄陽に攻め入るならば、まず漢水を渡らねばならぬ。だが、漢水は深く、流れも速い。……お前ならば、如何にする?」


孫堅は敢えて息子に問う。

次代を担うこの若者に、戦略の勘と経験を積ませる好機と考えたのだ。


「俺だったら、江南の造船と操船の技術を使うな。淯水から漢水に入って、三つに分ける。三方から渡河すれば、劉表も的を絞れないだろ?」


「ふむ。十分な時間と物資があれば、それも良い。だが、お前にしては少し回りくどいな、策」


孫堅の言葉に、孫策の眉がぴくりと動いた。

口の端が引き攣り、言葉を飲み込む。


「ああ、そうかよ……だったら——」


腕を組み、唸るように考え込む。

すぐに答えを求めようとしないところに、孫堅は好感を持った。


「お前も孫家の男なら、兵法に精通せねばならん」


思わず口の端が上がりそうになるのを堪えながら、孫堅は無理に真面目な顔を作って告げる。


「戦はまず、地を知ることから始めねばならん。俺たちは、漢水を知らなさすぎる」


そう言って孫堅は、孫策と並んで漢水を見つめた。

間もなく、近くに控えていた周瑜が、孫堅の傍に進み出た。


「将軍、近辺の村々に放っていた斥候隊が戻りました」

「首尾はどうだ?」

「はっ。襄陽の東に、唯一漢水が浅瀬となる場所があるとのことです」

「幅は」


それだけで、周瑜は孫堅の意図を察する。


「歩兵が二列に並ぶのが限度かと」

「速さが第一となるな。脚の遅い黄蓋軍は使えぬか……」


孫堅は素早く頭の中に地図を描いた。


「祖茂軍で漢水を一気に渡河、襄陽を包囲せよ。その後に騎馬隊を続かせる。黄蓋・程普軍は南北に布陣し、河へ逃れようとする敵があれば、これを討て」


孫堅の指示を合図に、全軍が慌ただしく動き出した。


「公瑾……お前、知ってて黙っていたな」


孫策が兵たちの喧騒に紛れながら、周瑜に耳打ちする。

周瑜は肩をすくめ、涼しい顔で答えた。


「私の言うことを聞いて、日頃から学を積んでいれば、こんなことにはならなかったんだ」


そのやり取りを聞きながら、孫堅は流石に苦笑を噛み殺せなかった。



漢水を挟み、黄蓋は襄陽の北、程普は南に布陣を完了した。

祖茂は東に展開する。劉表も漢水の浅瀬の存在は承知しているだろう。

単純に襄陽を包囲しただけと思わせるため、祖茂の軍はあえて浅瀬から外れた地点に配した。


孫堅が三方に兵を分散させる動きを見せても、襄陽の劉表は沈黙を守っている。

漢水を盾とし、亀のように身を縮め、こちらの兵糧が尽きて退くのを待つつもりなのだろう。

徹底した守備の構えだった。

だが、襄陽は交通の要衝。

漢水およびその支流が複雑に入り組み、守るには易い地である。


それが、今となっては災いした。

樊城・鄧城が陥ちた今、淯水いくすいを利用すれば、兵站線をこの地まで繋げることは容易だった。


——しかし、劉表の我慢比べに付き合う理由はない。


兵站が繋がっていても、物資が無限にあるわけではない。戦はこの先も続くのだ。

迅速に勝負を決したい。



襄陽包囲の布陣が整うと、孫堅は全軍に夜営を命じた。


そして翌朝。

孫堅は陣を払い、祖茂の歩兵隊を率いて浅瀬のある地点へと急行する。

夜明けの薄霧の中、一気に漢水の渡河を開始した。

祖茂軍が二列の隊形を組み、河を進んでいく。

朝靄に紛れ、敵がこちらの動きを察知するのが遅れた。

襄陽城内が騒がしくなったのは、祖茂軍が半数以上渡りきった後だった。


兵たちは距離を取って陣を敷く。

慌てて城壁から矢が放たれたが、届く頃には人を殺す力を失っていた。


渡河の開始直後に気づき、迎撃部隊を出していれば、こうはいかなかっただろう。

だが、祖茂軍はすでに堅陣を敷いている。

今さら兵を出せば返り討ちに遭うだけだと判断したのか、劉表はもはや兵を動かさなかった。


「漢水の守りに胡座をかき、哨戒すら怠るとはな」


無論、祖茂軍の渡河が迅速であったのも大きい。

まさか一人の死者も出さずに、襄陽の目前まで迫れるとは思っていなかった。


孫堅自身も騎馬隊を率いて悠々と漢水を渡りきった。

黄蓋、程普の軍が合流し、襄陽の包囲は完成に近づいていた。

劉表の首が、もう手の届くところにある。


「将軍、南方より敵の援軍です」

周瑜が伝令の報告を孫堅に告げた。


劉表配下、呂公の軍。その数、四千。

漢水に沿って北上してきている。


「祖茂に千五百を率いて迎撃に向かわせろ」


数は多いが、敵の進軍路は漢水と峴山けんざんに挟まれており、軍を広く展開できない。数の利を活かせぬなら、祖茂軍の半数だけでも難なく撃退できるはずだった。


——その時、城門が僅かに開いた。

わずか数十騎の騎馬隊が、土煙を上げて飛び出す。


祖茂を向かわせたことで、わずかに空いた包囲の網。

そこを突き破って駆け抜ける。

旗こそ掲げていなかったが、鄧塞で見た樊城の指揮官、黄祖に間違いなかった。

峴山の方角へ、一直線に走っていく。


「これ以上、援軍を呼ばれれば厄介か」


孫堅は麾下の内、百騎を呼び集め、自らも素早く馬に跨る。

「周瑜、俺は黄祖を追う。策に一時、指揮を任せると伝えろ」


何か言いかけた周瑜の返事を待たず、

孫堅は手綱を締め、駆け出した。

その背を、砂塵が覆った。


黄祖の後を追い、孫堅は峴山へと入った。

険しい山路を、馬でひた走る。


「呉景、挟み込む。半数を率い、回り込め」


妻の弟、呉景である。

馬術に長け、孫堅騎馬隊の副官を任せていた。

騎馬隊が二手に分かれ、山中を駆け抜ける。


黄祖は峴山の地形を熟知しているようだった。

馬の走りに迷いがなく、なかなか追いつけない。

だが、脚の速さはこちらが上。

もう少しで捉えられる。

——その時。


風切り音が耳を裂いた。

地面に矢が突き立つ。


「伏兵……!」


崖上に敵の影が見えた。

黄祖の狙いは、援軍要請だけではなかったのか。


片側は切り立った崖、反対は深い谷。

この狭路では、逃げ切ることもできない。

孫堅の頬に冷や汗が伝った。


——その時、頭上から敵の叫び声。

数人が崖上から転げ落ちてきた。


「呉景か」


隊を二分した判断が功を奏した。矢の雨が途切れる。


再び疾駆する。

目前まで黄祖の騎馬隊に迫る。

最後尾の敵の首を斬り飛ばした。


——黄祖。


孫堅の騎馬兵が黄祖の背後につく。

剣を振り上げた。

とった。


その瞬間、騎馬兵の首がぐにゃりと曲がった。

ゆっくりと、馬から転げ落ちていく。


何かが兵の頭に叩きつけられた気がした。

轟音。


視界が、ふっと暗くなる。

上——。


巨大な何かが、孫堅に迫ってきていた。


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