第百三十一話 見返り
司馬懿に請われるまま、難升米は倭国について語った。
まず尋ねられたのは、土地の広さだった。
そして、どんな国々が存在するのか。
倭国には魏と違い、距離を測る単位などは無い。
なので、大体歩いて何日。川を使って何日など、実際の移動距離から、おおよその距離感を伝えた。
その間、梯儁は黙々と筆を走らせ、司馬懿は羽扇で自身に風を送りながら聴いていた。
話し終えると、梯儁は明らかに失望したような顔をしていた。
難升米は何かまずいことを言ったのだろうかと、梯儁の方を見やった。
「ああ、すまんな難升米。そなたは何も悪くないのだ。梯儁の態度は気にするな」
梯儁がその場で頭を下げた。
難升米に詫びたのだろう。
「飽くまでこちらの都合でしかないのだがな、倭国にはもっと、広大な国であってほしかったのだよ」
その言葉で、難升米は何となく司馬懿の真意を察した。
「親魏王の称号を与えるからには、それなりの力を持つ国であって欲しい。そういう事ですね」
魏も倭国と同じだと言うことだ。
我々が魏の力を後楯に、倭国内で優位に立とうとするように、魏もまた、強大な蛮夷を臣従せしめたと触れ回れば、国としての箔がつく。
「その通りだ。そなたの語る倭国は、あまりにも小さすぎるのだ」
難升米は俯いた。
返す言葉が無かったのだ。
筑紫島だけでなく、東に延びる大八島を含めても、魏から見れば倭国は、ちっぽけな島国でしかない。
「だが、あまり問題はない。国の広さなど、実際に見てみなれば分からないのだからな」
すると司馬懿は、梯儁に目配せをした。
軽く頷いた梯儁は、新たな竹簡を取り出し、そこに筆を走らせていく。
「そなたの話しに、少し“色”をつけさせてもらう」
「色、ですか」
改竄。
ということだろう。
「許せ難升米。魏にとって、異国の地を正確に記すよりも、益のあることなのだ」
「いえ、許すも許さぬも御座いませぬ。自国の記録を、他国に委ねることしか出来ぬ、我等が不甲斐ないのです。いずれ倭国も、文字を得とうございます」
難升米の言葉に、司馬懿がまた愉快そうに笑った。
「それはいい。その際は、倭国も自分たちの史書を編むとよい。さすれば、口伝などよりもより正確に、より広く、自分たちの歴史を伝えていくことが出来るだろう。だがな……」
司馬懿がそこで、言葉を切った。
「お前たちが記す、お前たち自身の歴史が、全て正しい物になるとは、私は思わんがな」
そう言って司馬懿は目を細め、難升米を見下ろした。
司馬懿の発した冷たさに、背中がぞくりとした。
全身から、冷たい汗が噴き出した。
そうか。その通りだ。
外の者だけが、自分たちの歴史を変えるとは限らない。
自らの手で、自分たちの過去を、都合よく捻じ曲げることもあるのだ。
記された歴史が、どれだけ荒唐無稽な物であったとしても、時が流れ、記憶が風化した時に残るのは文字だけだ。
未来の人間にとっては、そこに記されたものだけが、唯一絶対の真実となりかねない。
文字は力なのだ。
正しく、知識や経験を伝える以外の使い方がある事に、難升米はこの時気付いた。
「さて、話しを戻そうか。倭国を大きく見せるのはな、何も外に向けた理由だけではないのだ」
「内に対しても、ということですか」
「左様。魏も中々に微妙な事情を抱えておる。この私自身もな」
「太尉様が……」
「魏も一枚岩では無いということさ。十年ほど前、魏の西にある大国、大月氏国が、我が国に朝貢を行った。今のお前たちのようにな。だがそれは、残念ながら私の功ではない」
微妙な事情とはそういうことか。
司馬懿ほどの男でも、権力を争う相手はいるということだ。
その人間よりも、手柄を立てたいのだ。
「我等が朝貢に訪れたのは、太尉様の功であると」
「ああ。公孫氏を滅ぼしたのは、私だからな」
事もなげに、司馬懿がそう言った。
この男が、十数年も漢と倭国の国交を断絶させた根源、公孫氏を滅したのか。
ならば確かに、この度の来朝は、司馬懿の功績に他ならない。
「だからこそ、お前たちは少なくとも、大月氏並の国であってもらわねば都合が悪い」
「なるほど、得心しました……」
「何か言いたげだな、難升米。私は腹を割った。お前も遠慮なく、思っていることを話すがよい」
司馬懿はまだ、全てを晒け出してはいない。
そう思ったが、少し踏み込んでみる気に、難升米はなっていた。
「これまでの太尉様のお言葉を拝聴するに、我らは記録を改竄せねばならぬほど、小さな存在なのだと思い知りました。他国やお身内に対し、はったりを効かすにはそれで十分かも知れません。ですが、逆に言えば、それ以上の価値が我々には無いということです」
「ふむ、確かにな」
「そうであるのに、太尉様はまだ私と言葉を交わして下さっている。一体我らの何に、太尉様は興味を持たれているのか。許されるならば、それが知りとうございます」
先程から、不気味に感じていた。
司馬懿の真意が読めない。
この男は他にまだ、自分たちに何かを求めている。
そんな気がするのだ。
「頃合いがな、良すぎると思ったのだ」
羽扇で口許を隠しながら、司馬懿が呟いた。
「先年に公孫氏を滅ぼし、我らは帯方郡を手にした。その直後に、お前たちはやってきた。まるで見越していたかのようにな」
時折試すような真似をされたが、司馬懿は難升米に対して柔和な態度を保っていた。それが今、綺麗に消え去った。
遠慮のない、冷徹な眼差しが突き刺さってくる。
「そしてお前だ、難升米。漢人と遜色のない言葉を操り、礼節もそれなりに弁えている。辺境の国の人間が、なぜそうまで優れた国際感覚を持っているのか。この国には何かある。そう思わない方が無理があるだろう」
難升米は答えることが出来なかった。
その疑問は、全て難升米の疑問でもあるからだ。
漢語はいい。持衰がかつて漢にいたことは知っている。
だがなぜ、持衰は正確に公孫氏が敗れる時が分かったのか。
その謎の答えは、難升米も未だ分からぬままだ。
「それは、私にも分かりませぬ。ですが、もしかしたらそれは、我が女王の力による所ではないかと愚考致します」
「ほう、女王卑弥呼か。して、その力とは?」
難升米は女王について語った。
病や怪我を直し、神の声を聞き、天候を操る。
人々の心を読み、未来を見通す。
持衰には、何か聞かれた時に困ることがあれば、全て女王の力だと説明しろと言い含められていた。
持衰自身のことは、口にするなと。
全てが嘘ではないが、女王と持衰を、まるで一人の人物であるかのように、難升米は語った。
「……まるで道術だな。太平道の張角、五斗米道の張魯が、似たような力を操ったと聞いているが」
話しを聞き終わった司馬懿は、顎に手をやった。
何かを考え込んでいる。
「幼い頃より女王は、不思議な力をお持ちだったようです。それを見込まれ、漢より渡来したある道士から、教えをお受けになられたと聞き及んでおります」
「なるほどな。ならば女王卑弥呼が操るは、もはや“鬼道”と呼ぶべきものだ」
「鬼道…ですか」
「難升米、やはり倭国は面白い。俄然興味が湧いてきたぞ。その女王にもな」
言葉とは裏腹に、固い表情は変わらない。
寧ろ、邪悪な気配が漂ってさえいる。
「梯儁、詔書をこれへ」
「は…」
梯儁は筆を下ろし、恭しく詔書を捧げ持ち、司馬懿に手渡した。
対して司馬懿は、それを無造作に手に取り、燭台の火にかざした。
親魏倭王の称号、数々の下賜品。
それらを約す証文の片隅が、火に当てられて黒ずむ。
「太尉様、何を」
「これから話すことが、お前たちが唯一、我らの為に成せることだ。それが出来ぬというのであれば、お前たちはやはり、この詔書に記された名誉を、財を、受け取る資格は無いということだ」
滑った細長い生き物が、何匹も身体に纏わりつき、身体を締め付けている。
そんな不愉快な錯覚に囚われた。
司馬懿に睨めつけられた途端、難升米は身体が動かくなった。
唇を噛み、痛みでそれを跳ね除けた。
「我らは大魏に臣従を誓った身。そのような真似を成されずとも、ご下命には従う所存です」
「そうかな」
司馬懿は詔書を火から離した。
傍らに佇んでいた梯儁が、それを受け取る。
「難升米、私は公孫氏を打ち倒した。それによって、また新たな敵が見えてきた。それは誰だ?」
難升米は一瞬の間を置いた。
帯方郡。その先にある国。
「……高句麗」
「その通りだ」
「まさか、高句麗と事を構えろと。そう仰るおつもりか」
弁、辰、馬で構成された、三韓の北に位置する大国。
長らく漢民族からの侵攻に晒されてなお、未だ存続しているのが高句麗だ。
その高句麗と戦えと、この男は言うのか。
辰韓の小国とは訳が違う。
漢や魏でさえも手を拱いていた相手に、倭国がどうにかできる筈がない。
「そうだと言ったら」
はっきりとした殺意が、司馬懿の全身から溢れ出した。
断ろうものなら首を刎ねられかねない。
そんな雰囲気だった。
だが命欲しさに、無理な約定を結ぶわけにはいかない。
難升米は自身と、魏にいる仲間の命を諦めた。
そう思い定めると、恐怖が消えた。
「臣は大魏に忠誠を誓いました。どのような命であろうとも、身命を賭して遂行する所存。ですが、高句麗を攻めろなどという命は、凡そ承ることは出来かねます」
「矛盾しておらぬか」
「いえ、しておりませぬ。高句麗を攻めるべし。それは命に非ず」
「ほう、命ではないか。ならば何だ」
「罰です」
司馬懿が剣呑な眼差しを向けた。
難升米はもう、それで身をすくませる事はない。
「高句麗とまともに戦っても、我らに勝ち目はありませぬ。それどころか、高句麗に傷一つ負わすこと叶わぬでしょう。それは無駄死にでしかない。大魏に益のある死なら、喜んで享受しましょう。ですが、これでは大魏にとっても、何ら実りのある戦いになりませぬ」
梯儁も司馬懿も動かない。
だが、いつ逆上して兵を呼ぶか分からない。
死ぬのはいい。
ただ、全てを吐き出してからだ。
「太尉様は我らに、ただ徒に命を投げ出せと仰っておられる。死にに行けと、仰っているのです。故に命ではなく、罰と申したのです」
腹に力を込め、目に気迫を宿した。
俺は負けない。魏の最高位の人間であろうとも。
臣従は、尻尾を振る負け犬になることではない。
国の誇りを、売ることではない。
司馬懿が立ち上がった。
難升米のもとに近づいてくる。
斬られる。
難升米は死を覚悟した。
後悔はない。だが、都市牛利たちに対してだけ、申し訳がなかった。
司馬懿が、難升米の肩に手を置いた。
身体が跳ねそうになったが、身を強張らせて、何とかそれを防いだ。
「安心したぞ難升米」
「え…」
思わず顔を上げた。
目が合うと、司馬懿は突然大笑した。
「すまんな、難升米。だが、先程も申したように、私は意地が悪いのだ」
「た、太尉様? それは一体」
「安心しろ難升米。高句麗を攻めろなどとは言わん。そんな勿体ない使い方などせぬよ」
司馬懿は尚も肩を震わせている。
「お前たちには東方に倭国有りと、その存在感を示して貰いたい。それが高句麗に対する牽制になる。その為にだな、弁韓に一枚噛んで欲しいのだ」
「弁韓の地を手に入れろ。ということでしょうか」
「海を隔てていては、高句麗に対しての圧力が弱い。だが、弁韓に倭人が常駐しておれば、事情は違ってくる」
「弁韓にいようと、小さな国であることには変わりがありませぬ」
「そうでないと思わせるために、文字があるのだ」
「そういうことですか……」
「名は与えてやる。それを存分に活かせ。あとは実だ。分かるな。強くなれ。そう言っているのだ」
「我らの未来を、太尉様は購ったと。そういう事ですね」
司馬懿が立ち上がり、羽扇で手を叩いた。
「お前のような男がいる国だ。必ず強くなる。私はそう確信したよ」
「はい。女王がいる国です」
「それだけではない。お前の師にも、私は期待している」
「師とは?」
「惚けるな。女王は姿を現さぬのだろ? ならばお前を育てた者が別にいるはずだ。或いはその者が、影の王か」
またも難升米は戦慄した。
一言も語ることなかった持衰の存在を、司馬懿は嗅ぎ取ったのだ。
この男からは、女王や持衰のような、神の如き力は感じない。
だが、人が持ちうる知略の限りを駆使して、その位置に並びうる力を持っている。
ある意味ではこの男の方が、持衰たちよりも恐ろしいかもしれない。
「お考えは、理解いたしました。倭国は大魏に報いるため、今以上に強くなるとお約束します」
「ああ、今はその言葉だけで満足だ」
話しは終わったと言うように、司馬懿は座に戻った。
梯儁も、筆を置いている。
「太尉様。最後に一つだけ、お伺いしても宜しいでしょうか」
「許す」
「もし私が太尉様の言う通り、高句麗を攻めると答えた場合、どうされるおつもりだったのですか」
「ああ、そんなことか」
心底どうでも良さそうだった。
司馬懿は興味を無くしたように、どこか遠くを見つめた。
「無論その時は、そのまま勝手に滅びて貰ったさ」
何の感情もないその声が、今までで一番恐ろしかった。
本当に嫌な男だと、難升米は思った。




