第百三十話 司馬懿
梯儁と名乗ったその男は、日暮れ時に一人で現れた。
「帝よりの詔をお伝え申し上げる」
そう言って、難升米一人を内城の中にまで導いていった。
梯儁の見てくれは、いかにも文官然とした物だったが、身のこなしからは、何か油断ならないものを感じさせた。
もしかしたら、武術の腕も立つのかもしれない。
内城の東側の一角にある邸に入った。
洛陽では宮に近い場所になるほど、格が上がる。
これほど内城に近いのであれば、相当な高官の邸ということになる。
そうなれば、ここの主は梯儁ではないだろう。
それほどの人物が、わざわざ一人で迎えに来るはずがないからだ。
広い邸の中、几帳で仕切られた空間に、その男はいた。
一段高くなった床に座している。
目の前にいるその人物の顔が、自分の記憶と結びついた瞬間、難升米は反射的に平伏していた。
間違いない。
この男は、帝と共にいた者だった。
「そう畏まるな、難升米。今から伝える詔は公的なものだが、ここに招いたこと自体は、私の個人的な要望だ」
「は…」
「面を上げよ」
言われた通りゆっくりと、難升米は顔を上げた。
「名を名乗ってはいなかったな、私は魏の大尉、司馬懿と申す」
大尉。
三公と呼ばれる、臣下の中で最も位の高い役職の一つであり、軍の統括権を握っているはずだ。
詔を伝えるのが、この男の役目なのか。
だが、ここへ呼んだこと自体は、私的なものだとも述べていた。
「司馬大尉様……」
「ほう。漢語に精通しておるだけでなく、礼も弁えておる。やはり、好感の持てる男だ」
涼やかな目元を細め、司馬懿が微笑んだ。
好意的な意味合いのはずであるのに、冷笑に近いような印象を与える。
難升米は少しだけ、寒気のようなものを感じた。
「まあ、先ずは仕事から終わらせようか。そなたも気になっているであろうしな。梯儁」
いつの間にか、部屋の隅に座っていた梯儁に向かって、司馬懿が声をかけた。
梯儁の前には小さな几と呼ばれる、低い台が据えられていた。
その上には硯と筆が置かれていた。
文字を書くための道具だとは、持衰から教わったことがあるが、実際目にするのは初めてだった。
梯儁が恭しく一つの巻物を取り出した。
一枚一枚、丁寧に削り取られた青い竹の札を、絹の紐で編み上げた竹簡であった。
窓から差し込む夕闇の光を浴びて、竹の表面が鈍く光る。
難升米は思わずそれに見入ったが、司馬懿は関心を示さず、手にした羽扇をゆっくりと動かしながら、難升米の反応だけを愉しむように見つめていた。
「これこそが大魏の天子、陛下が汝の女王に賜る御言葉である。心して拝聴されたし」
梯儁の声が、静かな部屋に凛と響いた。
難升米は咄嗟に、再び冷たい床に額を押し当てた。
竹が擦れ合う乾いた音が、難升米の耳に届いた。
詔は、以下のような内容であった。
女王卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を仮授する。
又、正使難升米を率善中郎将、副使の都市牛利を率善校尉として、銀印青綬を仮授。
献上品に対する返礼品として、
絳地交龍文の錦を五匹。(深紅の錦に龍の紋様を施した織物)
絳地縐粟の罽を十張。(深紅の毛織物に粟粒の紋様を施した敷物)
倩絳五十匹。(茜色の紬)
紺青五十匹。(藍色の絹布)
そして卑弥呼個人に対する下賜品として、
紺地句文の錦を三匹。(藍色の雷紋を施した織物)
細班華の罽を五張。(細かい花模様を施した、毛織の敷物)
白絹五十匹。
金八両。
長剣二振り。
銅鏡百枚。
真珠五十斤。
鉛丹五十斤。(橙色の塗料)
中郎将は将軍の一歩手前の官職、校尉はその更に一段下だ。
率善というのは、帰服してきた蛮夷に与えられる称号で、“善く率う”という意味が込められている。
何にせよ、生口十人、班布二匹の見返りとしては、破格としか言いようがない。
威信を見せつける意図があったとしてもやり過ぎと思える。
難升米は喜びよりも先に、きな臭さのようものを感じた。
「どうした中郎将殿。あまり嬉しく無さそうだな」
司馬懿が難升米を、今与えられたばかりの官職で呼んだ。
誂うような響きがあった。
「いえ…、そのようなことは。寧ろ、過分な見返りに恐悚しております」
「ふむ、今はそういうことにしておこうか」
そう言って、司馬懿はまた羽扇を振った。
「堅苦しいのは終わりだ。難升米、楽にせよ」
司馬懿の言葉に従い、少しだけ肩の力を抜き、上体を上げた。
「後で目録は、そなたに預ける。実際の品は、追って倭国にまで届けさせよう」
「大魏の方が、倭国にまでご来朝頂けるのですか?」
聞いたことが無かった。
もはや伝説となっているが、古代より倭国から使者を派遣したことは何度かあった。
だが、下賜品を届けるためにわざわざ国使が遣わせるなど、これまで一度も無かったはずだ。
「……光武帝。そして安帝の時代。私の知る限り、少なくとも二度、倭国は冊封を受けておる」
難升米の問いに答えず、司馬懿が呟いた。
倭国では霧散した記憶を、遠く離れた他国の人間がこうも正確に認識している。
これが文字の力か。
筆の置かれた几を、難升米は横目で見つめた。
「あの時は建前上、金印とそれなりの立場、下賜品を与えてやったのだろう。だが、それだけだ。気を悪くしないで貰いたいが、当時の倭国には、それくらいの価値しか無かった」
怒りなどしない。
ここに来て思い知ったのだ。
広大な土地。洛陽の景観。圧倒的な国力の差。
百年以上前の時代でも、その違いは決定的であっただろう。
形だけでも魏の後楯を得て、周辺諸国への牽制になればいい。
それ以上のことは、難升米も望んでいなかった。
今までの倭国の王、或いは首長がそうであったように。
「だが、今はそうではない。実際に足を運ぶ価値が、倭国にはある」
「……現段階において尚、倭国にそれ程の価値があるとは思えませぬが」
「遜るな。私はそなたを気に入りかけておったのだぞ」
司馬懿の瞳に、失望の色が翳る。
難升米は生唾を呑み込んだ。
自分の失言を瞬時に理解した。
ならばここは、引いてはならない。
「いえ、客観的に判断して、高々生口十人と、布切れを僅かに持参するのがやっとの我らに対し、大魏の厚遇は恐れながら、過分であると申し上げざるを得ません」
難升米の言葉を、司馬懿は黙って聴いている。
表情からは、まだ何も読み取れない。
「何かを得るにはそれと同じ対価が必要です。我らは大魏に対し、何もお渡しすることが出来ていない。帝は、司馬大尉様は、我らに対し、真に何をお求めなのか。この場にお招き下さったのは、それを私にお申し付けになられる為ではありませぬか?」
冷や汗がこめかみから流れ落ちる。
喉が乾いて、もう唾も呑み込めない。
司馬懿はどう切り返すのか。
一瞬の間が、永遠のように感じられた。
「素晴らしいな、難升米」
やがて司馬懿が相好を崩して、笑い出した。
「意地の悪い言い方をして悪かった。だが、それで見えてくるものもあるのだ」
そして笑いを止め、難升米をまた見据えた。
「自分たちに価値が無いと、そなたは言ったが、それは間違いだ。いや、正確に言うと、そう断じるのはまだ早い」
「単純な国力だけでは、価値は判断できないということでしょうか」
「打てば響く男だ、率善中郎将」
司馬懿が嬉しそうな声を出した。
「その通りだ。だからこそ、私は倭国のことをもっと知りたいのだ」
司馬懿が黙って座っていた梯儁に合図を送った。
梯儁は恭しく頷き、筆を取った。
「話してもらうぞ、そなたらの事を。なに、攻め込んだりはしないので安心しろ。そんな余裕もないしな」
そう言った司馬懿の目は、妖しい光を放っていた。
持衰以外で初めて、抗い難い力を感じた。




