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倭国大乱 観測者は全ての歴史を見届ける  作者: 明石
第三章

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第百三十話 司馬懿

梯儁ていしゅんと名乗ったその男は、日暮れ時に一人で現れた。


「帝よりのみことのりをお伝え申し上げる」


そう言って、難升米一人を内城の中にまで導いていった。

梯儁の見てくれは、いかにも文官然とした物だったが、身のこなしからは、何か油断ならないものを感じさせた。

もしかしたら、武術の腕も立つのかもしれない。


内城の東側の一角にある邸に入った。

洛陽では宮に近い場所になるほど、格が上がる。

これほど内城に近いのであれば、相当な高官の邸ということになる。

そうなれば、ここの主は梯儁ではないだろう。

それほどの人物が、わざわざ一人で迎えに来るはずがないからだ。


広い邸の中、几帳で仕切られた空間に、その男はいた。

一段高くなったとこに座している。


目の前にいるその人物の顔が、自分の記憶と結びついた瞬間、難升米は反射的に平伏していた。


間違いない。

この男は、帝と共にいた者だった。


「そう畏まるな、難升米。今から伝える詔は公的なものだが、ここに招いたこと自体は、私の個人的な要望だ」


「は…」


「面を上げよ」


言われた通りゆっくりと、難升米は顔を上げた。


「名を名乗ってはいなかったな、私は魏の大尉たいい、司馬懿と申す」


大尉。

三公と呼ばれる、臣下の中で最も位の高い役職の一つであり、軍の統括権を握っているはずだ。


詔を伝えるのが、この男の役目なのか。

だが、ここへ呼んだこと自体は、私的なものだとも述べていた。


「司馬大尉様……」


「ほう。漢語に精通しておるだけでなく、礼も弁えておる。やはり、好感の持てる男だ」


涼やかな目元を細め、司馬懿が微笑んだ。

好意的な意味合いのはずであるのに、冷笑に近いような印象を与える。

難升米は少しだけ、寒気のようなものを感じた。


「まあ、先ずは仕事から終わらせようか。そなたも気になっているであろうしな。梯儁」


いつの間にか、部屋の隅に座っていた梯儁に向かって、司馬懿が声をかけた。

梯儁の前には小さなと呼ばれる、低い台が据えられていた。


その上にはすずりと筆が置かれていた。

文字を書くための道具だとは、持衰じすいから教わったことがあるが、実際目にするのは初めてだった。


梯儁が恭しく一つの巻物を取り出した。

一枚一枚、丁寧に削り取られた青い竹の札を、絹の紐で編み上げた竹簡ちくかんであった。


窓から差し込む夕闇の光を浴びて、竹の表面が鈍く光る。


難升米は思わずそれに見入ったが、司馬懿は関心を示さず、手にした羽扇うせんをゆっくりと動かしながら、難升米の反応だけを愉しむように見つめていた。


「これこそが大魏の天子、陛下が汝の女王に賜る御言葉である。心して拝聴されたし」


梯儁の声が、静かな部屋に凛と響いた。

難升米は咄嗟に、再び冷たい床に額を押し当てた。


竹が擦れ合う乾いた音が、難升米の耳に届いた。


詔は、以下のような内容であった。


女王卑弥呼を親魏倭王とし、金印紫綬を仮授かじゅする。


又、正使難升米を率善そつぜん中郎将ちゅうろうしょう、副使の都市牛利としごり率善そつぜん校尉こういとして、銀印青綬を仮授。


献上品に対する返礼品として、

絳地交龍文こうぢこうりゅうもんの錦を五匹。(深紅しんくの錦に龍の紋様を施した織物)

絳地縐粟こうぢすうぞくけいを十張。(深紅の毛織物に粟粒の紋様を施した敷物)

倩絳せんこう五十匹。(茜色のつむぎ

紺青こんじょう五十匹。(藍色の絹布)


そして卑弥呼個人に対する下賜品として、

紺地句文こんぢくもんの錦を三匹。(藍色の雷紋を施した織物)

細班華さいはんかの罽を五張。(細かい花模様を施した、毛織の敷物)

白絹五十匹。

金八両。

長剣二振り。

銅鏡百枚。

真珠五十斤。

鉛丹えんたん五十斤。(橙色の塗料)


中郎将は将軍の一歩手前の官職、校尉はその更に一段下だ。

率善というのは、帰服してきた蛮夷に与えられる称号で、“したがう”という意味が込められている。


何にせよ、生口十人、班布二匹の見返りとしては、破格としか言いようがない。

威信を見せつける意図があったとしてもやり過ぎと思える。

難升米は喜びよりも先に、きな臭さのようものを感じた。


「どうした中郎将殿。あまり嬉しく無さそうだな」


司馬懿が難升米を、今与えられたばかりの官職で呼んだ。

からかうような響きがあった。


「いえ…、そのようなことは。寧ろ、過分な見返りに恐悚きょうしょうしております」


「ふむ、今はそういうことにしておこうか」


そう言って、司馬懿はまた羽扇を振った。


「堅苦しいのは終わりだ。難升米、楽にせよ」


司馬懿の言葉に従い、少しだけ肩の力を抜き、上体を上げた。


「後で目録は、そなたに預ける。実際の品は、追って倭国にまで届けさせよう」


「大魏の方が、倭国にまでご来朝頂けるのですか?」


聞いたことが無かった。

もはや伝説となっているが、古代より倭国から使者を派遣したことは何度かあった。

だが、下賜品を届けるためにわざわざ国使が遣わせるなど、これまで一度も無かったはずだ。


「……光武帝。そして安帝の時代。私の知る限り、少なくとも二度、倭国は冊封を受けておる」


難升米の問いに答えず、司馬懿が呟いた。

倭国では霧散した記憶を、遠く離れた他国の人間がこうも正確に認識している。

これが文字の力か。


筆の置かれた几を、難升米は横目で見つめた。


「あの時は建前上、金印とそれなりの立場、下賜品を与えてやったのだろう。だが、それだけだ。気を悪くしないで貰いたいが、当時の倭国には、それくらいの価値しか無かった」


怒りなどしない。

ここに来て思い知ったのだ。

広大な土地。洛陽の景観。圧倒的な国力の差。

百年以上前の時代でも、その違いは決定的であっただろう。


形だけでも魏の後楯を得て、周辺諸国への牽制になればいい。

それ以上のことは、難升米も望んでいなかった。

今までの倭国の王、或いは首長がそうであったように。


「だが、今はそうではない。実際に足を運ぶ価値が、倭国にはある」


「……現段階において尚、倭国にそれ程の価値があるとは思えませぬが」


へりくだるな。私はそなたを気に入りかけておったのだぞ」


司馬懿の瞳に、失望の色が翳る。

難升米は生唾を呑み込んだ。

自分の失言を瞬時に理解した。


ならばここは、引いてはならない。


「いえ、客観的に判断して、高々生口十人と、布切れを僅かに持参するのがやっとの我らに対し、大魏の厚遇は恐れながら、過分であると申し上げざるを得ません」


難升米の言葉を、司馬懿は黙って聴いている。

表情からは、まだ何も読み取れない。


「何かを得るにはそれと同じ対価が必要です。我らは大魏に対し、何もお渡しすることが出来ていない。帝は、司馬大尉様は、我らに対し、真に何をお求めなのか。この場にお招き下さったのは、それを私にお申し付けになられる為ではありませぬか?」


冷や汗がこめかみから流れ落ちる。

喉が乾いて、もう唾も呑み込めない。


司馬懿はどう切り返すのか。

一瞬の間が、永遠のように感じられた。


「素晴らしいな、難升米」


やがて司馬懿が相好を崩して、笑い出した。


「意地の悪い言い方をして悪かった。だが、それで見えてくるものもあるのだ」


そして笑いを止め、難升米をまた見据えた。


「自分たちに価値が無いと、そなたは言ったが、それは間違いだ。いや、正確に言うと、そう断じるのはまだ早い」


「単純な国力だけでは、価値は判断できないということでしょうか」


「打てば響く男だ、率善中郎将」


司馬懿が嬉しそうな声を出した。


「その通りだ。だからこそ、私は倭国のことをもっと知りたいのだ」


司馬懿が黙って座っていた梯儁に合図を送った。

梯儁は恭しく頷き、筆を取った。


「話してもらうぞ、そなたらの事を。なに、攻め込んだりはしないので安心しろ。そんな余裕もないしな」


そう言った司馬懿の目は、妖しい光を放っていた。

持衰以外で初めて、抗い難い力を感じた。

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