【第3面】 (1)
*
また、現実生活が始まった。
大学の毎日は、薄く、野暮ったく感じた。
授業を受けている時、構内を歩いている時、模造紙のように世界を無意味に感じた。食事は、カレーを食おうが、トマトスパゲッティーを食おうが、埃の集まりを口に入れているようだった。
私は今、「現実」を感じた。前よりも感じた。
どこに行こうと、どこに居ようと、私は「現実」感に組み敷かれていた。『ゲーム』での敗北は、今までよりも「現実」を際立たせる効果があった。
『ゲーム』を捨てて現実に戻った。けれど、現実世界は、もともと捨てた世界。今、私が現実に暮らしているという毎日。それは、おかしかった。
現実世界はもとより、『ゲーム』さえも、「現実」化してしまった。私には、今、「現実」だけがあった。
空き時間にカフェテリアに居たりすると、芒洋とした窓ガラスに、ユイの最期がフラッシュバックした。そんな時間は吐き気がした。
以前から現実世界がそうだったように。
あの時、私は、『ゲーム』から逃げた。
仕方なかったという言い訳はできる。
あの時は逃げるだけが精一杯だった。
ユイを見殺しにしたわけでもない。だって瞬時にユイは死んでしまったのだ。あそこに留まれば、私も死んでいた。死ぬか逃げるか、選ぶしかなかった。逃げるほうを選んだ。
私は、逃げた。
その時、『ゲーム』は、『ゲーム』ではなくなった。
現実世界では、頑張る理由などなかった。むしろ頑張るのは悪だった。現実世界は糞だったからだ。糞に加担する罪。
だけど、自分が選んだ『ゲーム』では、頑張らない理由は無かった。
『ゲーム』では、私は、逃げてはいけなかった。
今、『ゲーム』は小康状態を保っていた。
あれ以来、『ゲーム』に呼ばれたことは無い。だから、進展もないが、終結もしていない。
RTには週一で会った。『ゲーム』していないので、伝達事項も無かった。「な・い・よ ☆」と、丸くてかわいらしいぬいぐるみが、小馬鹿にした口調で語った。
英語の授業には行かなかった。ヒジリには会いたいが、ヒジリを見ると、内部が揺れすぎる。『ゲーム』を招く恐れがある。
今度『ゲーム』に呼ばれることを考えると、私の足は電柱のように強張った。また魔王に会えば、今度は終わりかもしれない。しかし、流れに抗うことは無理だとも思えた。
私は本当に死ぬのだろうか? そしたら、ヒジリもつられて死ぬのか? 嘘なんじゃないか。絵空事に違いない。しかし実際の事だった。その重すぎる論理。やりきれない。私は、意味ないノートを書くのに集中したり、売店のお菓子をヤケ食いしたりして、『ゲーム』に関する思考を、強制的に締め出した。現実生活の曇り空に、『ゲーム』の霧や雨が降る、そういう毎日だった。
「お待たせして御免なさい。イカサマちゃん」
水分が私の隣に座った。水分と書いて「ミクマリ」と読む。私ほどじゃないが珍しい苗字だ。名前は忘れた。私は「mkml」というラベルで彼女を呼称している。現実存在は、等しくつまらないもの。ラベリングされ、管理されるもの。
今は昼下がり。カフェテリアの、外を眺められる席。無機質な長方形の机に設置された二個の肉塊。
mkmlはバッグを椅子に置く。地味な灰色とモスグリーンのトートバッグ。中には几帳面に付箋紙が着けられたノートが何冊も入っていた。私は何となしにmkmlを眺める。三つ編みと黒枠のメガネとカーディガンが似合う、若干古めかしい美人。
mkmlは現実世界での新しい友人だった。先日、「地球環境学」のレポートを出した時、一度出会った女。次の講義の時、向こうからコンタクトしてきた。あのぅ、教授室の所に居た方ですよね? そういう流れ。ゲンジツニンゲンに私のほうから話す事は、まずない。知り合いになるとしたら、向こうからの流れしか無かった。私達は、授業の前や後、軽く話す関係になった。私は退屈さ以外を感じなかった。
きょうは初めて昼御飯を食べる約束をしていた。内心面倒ながらも、向こうが折り入って話があるというから了承した。
ゴハンを食べる行為には楽しみを感じないし、人間と同席でゴハンを食べることも、正直厄介でしかない。
しかしmkmlはニンゲンの割には「現実」を感じさせなかった。だから一緒に居てもさほど邪魔ではなかった。まずは見た目の粗が少ないのが大きい。私と彼女を並べ、男性50人にアンケートを取ったら、25対25で票が割れるだろう。私とタイプはが違うものの、ハイレベルな外見をもったゲンジツニンゲンだった。まあ私にはヒジリが居る。私は、mkmlが恥じらうように控え目に笑う顔が好きだったが、ヒジリとは比較対象にならない。そのぶん気楽な関係とも言えた。
mkmlは「コウイカと赤貝のぐちゃぐちゃドリア」を注文した。私は「トマトとレタスのZEPPINチーズサンド」とやらを。
料理が出来上がると、mkmlはきちんとフォークとスプーンを使い、手術や工作のように綿密に食べ始める。見ているこちらが窮屈になる。
「うん、おいしいドリアです。烏賊と赤貝の歯ごたえと、クリームソースの香りが渾然と絡み合い、美味しさを膨らませ合います。イカサマちゃんのサンドイッチはいかがです?」
「え? ん、まあ」
私は味を気にしてないので、適当にかじっていただけだ。それより苗字で呼ばないでほしいのだが、言っても忘れるのか聞かないのか直らない。mkmlを包むいまいち垢抜けないマイルドさは、彼女の芯の強さや頑なさを表すようにも見えた。
「だめじゃないですか。こういうときは『オイシイ』って言わないと女子失格ですヨ!」
mkmlは演技っぽく指を立てた。微妙にうぜえな。が、すぐ関心が移るらしく、別の話をはじめる。「あーいいですよねえ。きれいなお庭が見えるカフェテリアでランチ。贅沢ですよね。そう思いません?」「イカサマちゃんは教職課程は取ってますか? 私は取ってます。もーすごく大変なんですよ。毎日八時まで講義なんですよう。六時を過ぎると瞼が落ちてきてしまって」……どうやらこの女は口に脳味噌があるらしい。だが私は、好ましく観察していた。mkmlは感情を素直に表現している。彼女の話の根本には、基本的に、世界への素直な感動がある。怨みや欠点をあげつらうより、嬉しさと感動を表す事に忙しいのだった。だから、mkmlはエルフのような悪ではなかったし、有害でもなかった。
むしろ私は、類縁の情といったものを覚えた。
mkmlを見ていると、はるか昔の私、そのものなのだった。私が幼稚園や小学校のうちに了えた、「幸福な生活」の課程を、彼女は人生の今、消化しているのである。
彼女は学校で見る限り、気さくで、まじめだし、いつも穏やかにニンゲンと接していた。広く深い秋の空のように、彼女は現実世界と調和している。いわば彼女は現実世界の、「よくできたニンゲン」というロボットだった。きっとmkmlは、このカフェテリアのガラス越しに見える無風の庭のように、現実を受け取るのだ。
私も、舞台が現実世界でなければ、彼女のように生活してみたい希望を感じなくはなかった。だが、その希望は、矛盾そのものだ。「幸福な生活」は、夢を夢だと知るまで。機械と経済で駆動する遊園地を、純粋な理想郷と錯覚しているうちだけ。たとえ今、mkmlと替われるとしても、私は替わりたいとは思わなかったろう。
「あなたは、楽しそうね。何よりだと思うわ」
私は素直な感想を言った。mkmlが喚起した懐かしさをオカズに、ガラス越しの庭を見ていた。サンドイッチよりも全然おいしい気分だった。――現実の、こういう時間も、まれには、いいものだ。
いや、「いいものだ」と言いなさいと、ニンゲン同士はしつけ合っている。
現実とは巨大な糞だから、糞の臭気を嗅ぐ狭間の一瞬、つまり吸う息と吐く息が交代する無臭の瞬間が、相対的に「よいもの」になるわけだ。
うまくもないライ麦パンの耳を、私はガリ、と齧った。――ニンゲン基準では、こういう時間は、mkmlが言うように「贅沢」なのだろうな。現実世界から「現実」感を与えられない「贅沢」。ただの猶予に過ぎない。
……などと考えていた私は、黙っていたようだ。「あの、気分悪くしました?」と訊かれる。
「ごめんなさい、私、喋りすぎちゃってますね。うっかりはしゃいじゃいました。いつもこうなんですよ。ジブンのことばかり夢中で喋っちゃって」
いやべつに――言おうとするが、mkmlは勝手に続ける。
「私、うれしくて。イカサマちゃんと、こうやって、一緒に話ができるの。私、イカサマちゃんのこと好きです。かわいいし、きれいだし、スタイルいいし、話してみると性格いい人ですし、話、聞いてもらえるの、ほんとうに、もったいないです」
一緒にってか、一人で喋ってるんじゃないの。そのツッコミは飲み込む。私の描写については、おおむね適切と思える。やはりmkmlは素直なのだ。当たり前のことを言われているだけだが、当たり前に褒められるのは、けっこう恥ずかしい。そして、少し嬉しい。私は照れ隠しに、寝癖でも直すように不機嫌に言う。
「そう思い込んじゃうと、補正が働くからねえ。――ところで、もともとの話って何? そのために呼び出したんでしょ?」
「あっ。そうでしたね。思い出しました。ちょうど今の話に関係あるんです。私の性格の話なんです」
そう言って、水を注ぎ足して飲み、呼吸を落ち着けた。
mkmlは、強い眼差しで私を見た。
「相談なのですが、じつは私には友達が居ないのです。いろんな人と喋りはするんですけど、気付くとまわりからみんな消えてるんです。私は友達ができたことがないです」
「ああ――」
私は曖昧に返した。
その相談は私にしても無意味だ。友達なら私も居ない。しかし私の場合、ニンゲンは必要としなかった。今はヒジリだけ居れば充分だ。
「私よく、抜けてるとか天然とか言われるんです。たぶんきっとそのせいなんですよねー」
mkmlは一人、納得。
友達ができないのは、mkmlがズレているせいだろう。
純真な頑迷さ。mkmlはどこか独りよがりなところがある。ニンゲンの輪においては、順応と称賛が必須だ。糞が糞を褒める技術が要る。mkmlが輪に入ったら浮くのは明らかだ。
「よかったら、私と友達になってくれますか?」
「ええ、すでにそのつもりよ」
私は答えた。このぐらいは言ってもいいだろう。向こうも私を褒めてくれたから、返礼だ。
ついでに私はmkmlを慰めてあげた。これも、トモダチの形式。
「mkmlなら、友達なんてすぐできるわよ。かわいいからね」
「ありがとう。人のことを心配していて大丈夫? イカサマちゃんは友達できないでしょ?」
予想もしなかった返しに、私は呆然とした。
私は、錆びたロボットのように首を回し、隣の席を向く。
mkmlは平然とした顔でガラスの向こうを見ていた。
「イカサマちゃんはさ。きれいだよね。でも、きれいなだけじゃだめなの。友達はできないの。私には分かるよ。あなたがジブンを偽装していること。あなたの体の内側には、嵐が吹いているよう。近付くと吹き飛ばされて、いろんなところが折られそう。だからみんな近寄らない。あなたの内側にひそむ悪魔のような力の気配を察するの」
mkmlはすらすらと述べた。私はジブンについて他人から指摘されたことはなかった。それは当然だ。友達が居ないから。
しかし、mkmlの洞察は当たっているように思えた。
「よく見抜いたわね。当たっているわ。……でもそれがどうかした?」
トモダチが居ないことは、mkmlのように悩みではない。むしろ静かに威張りたい。私は、グラスの水と一緒に、沈黙を嚥下した。
「そんな私に、なぜあなたは近付いたの?」
「うん……。あなたに声を掛けた私も、なかなかレアなキャラでしょ? そうは思わない?」
「そうかもしれないわね」
私は憮然と言った。腹の探り合いのような会話だった。この女は何を意図している?
mkmlはテーブル上で手を組み、やわらかに、息を吐いた。
「あなたは危ない人。あなたの中にあるのは破滅と退廃。あなたは異端の化身。世界にとって、大いなる邪魔になり得る」
世界の邪魔。大きな話だ。ヤレヤレ。
話のスケールが変わった。嫌な予感もよぎる。さては、mkmlは、『ゲーム』プレイヤーであろうか? しかし、どうも、プレイヤーの印象ではない。むしろ私は軽く引いた。陶酔じみた口ぶり。しかも、堂々としている。
mkmlは立ち上がり、真面目な優等生の笑みで言った。
「ここでは話ができません。ふさわしい場所に参りましょう」




