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【第2面(裏面)】 (3)

 *


 大層な怪我でもないのに男性は大層心配した。私は大学を出てすぐに男性の掴まえたタクシーに乗せられ、三分くらい走った所にある市民病院に搬送されてしまった。このように何よりもイレギュラーを好む現実世界という演出家には、私は辟易していた。しかし、男性は感情的とも思えるほど怪我を心配していたし、たしかに傷口に絆創膏ぐらいは貼ったほうがいいとも思ったから、現実を打開するのはやめた。

 結果、透明なテープが傷に何枚か貼られ、加えて肘から手首への包帯を巻かれた。縫うほどではなかった。

 男性は待合で雑誌を開いていた。私は会計を済ませ、保険証を受け取った。

 男性は椅子から立ち上がった。洋画のギャングのボスのような出で立ちは、貫禄だけはあるが、市民病院では浮いている。

「傷が軽くて良かったね。ところで昼ご飯は食べたかね? ごちそうしようじゃないか」

「いえ、私は……」

 まだ付き添う気だろうか? 傷の手当ても終わったのに。

「いいから気にしないでくれ。うまいパスタを食わせるところがあるんだ」

 男性は私の背をポンと押した。分厚い手の圧力と重みは、現実を切り拓く力に満ちていて、私に長い余韻を残した。

 形式上、老婆から助けてもらい、病院に送ってもらった借りがあった。誘いを断ることはできなかった。

 私は、大学の近くのちょっと高級そうなレストランに連れて来られた。

 

 私達は二階のテラス席に座った。身体一つ分ほど隔てた所には街路樹の梢が並んでいた。木漏れ日と影のじゃれ合う切り絵のような柄がテラスに敷かれていた。若葉の緑がきれいで、「現実」に凝った眼筋をほぐしてくれた。

 男性は頓着もせずすずきとフォアグラの何たら風味という長ったらしい料理を頼んだ。食前酒も加えた。メニューを訊かれた私は……。ランチ「A」というつまらない注文をした。

 男性は透き通った白ワインのグラスをグッとあおった。とても飄逸ひょういつげだが、サングラスのせいか滑稽な演技感が漂う。

 しかし、演技感を取り去ったいかめしい渋い顔は、世の酸いも甘いも噛み分け、すべてを仄かな苦味に感じるようになったような、ある種の重みを持っていた。

 ……この人は暇なのだろうか。昼間からオンナノコと食事とは、良い身分ではないか。もっとも、そのオンナノコは「現実病」に罹った碌なものではないが。

 気詰まりな空気を飛ばしたく思い、私はどうでもいい挨拶を発した。

「あの。助けていただいて、ありがとうございました。暴漢、ていうかおばあさんですけど、ああいうふうに襲われたのは初めてで。何が何やら、正直、分かりません」

「つまり、その包帯ということだよ。きみが確かに襲われた証拠が残っているじゃないか。ところで、訊いていなかったが、きみの名前は?」

 男性はワイングラスを持たない手で、私の腕を指差す。

 そういえば私は自己紹介をしていなかった。する場面でも機会でもないと思っていたからだ。男性の名前はタクシーの中で訊いたが、覚えてもいなかった。

「――ショウブです」

「いい名前だ、日本的だね」

 男性は素っ気なく褒めた。正直、レストランに入っただけで身体が凝る私とは、現実対応力が違いすぎる。男性は私には縁のない「社交」という鎧を通常装用していた。異次元の人種だ。

「一見マフィアのような格好をしているけれど、わたしはある会社の社長をやらしていただいてましてね。まあ、社長とマフィアの違いは分からないがね。きょうはここの大学に夕方から用があって来ているんだ」

「そうなんですか」

 実業家か。納得できる。そういえば、壮年の暮れに差し掛かった容貌は、端正さを維持してはいるが、生え際はいくぶん後退し、刈り込まれた髪には白も目立っていた。現実世界での経歴が肉体に刻まれていた。ところで、大学に用というと、教科書や文房具の納品とか、何かの営業だろうか。仕事内容には興味がないので訊かない。

「世の中、色々な予期しないことが起きるものだ。いや予期しないことばかりと言ってもいいね。しかしわれわれは、ナイフで切られたら、包帯を巻かねばならない」

 男性は能弁に語る。一般的なウィット、とでもいうのだろうか。私は現実世界に興味がないので、実業の法則を語られても芳しい反応はできない。しかし、男性の年齢と経験からくる静かな喋りは、私の心証を害しなかった。

「わたしはこの歳になり、仕事でも安定して成果を上げられるようになり、この社会の経験をようやく一回り積んだと思えるようになった。経営哲学とでも言うかね。つまり、この世界はデータということなんだ。規定のデータを揃えれば、対応するデータが返される。この世界で勝つためのデータを集めれば、この世界では勝てる。わたしは経営者をやって、その訓練を三十年も積んだようなものさ」

 私は、『ゲーム』をやっている身として、「世界はデータである」という説に興味を感じた。

 でも、経営などの現実の話題である限り、利用価値は無さそうだ。

「この世界で」

 と男性は言った。

「『勝ち組』になれる条件を考えてみようか。金、地位、名声、あとは学歴もかな? これらは『データ』だろう? 漠然としたデータだが、それぞれを得るのに適したやり方があるのだよ。計画的に投資する、人脈を広げ信頼を築く、ミスなく真面目に仕事をこなす、といった『型』がね。データに到達するための適切なプログラムがあるというわけだ。『型』をなぞる事を覚えれば、勝ちという結果はついてくるようになっている」

 男性は私を見、すこし黙った。理屈は分かるが、実感はない。私はまだ学生なのだから。――その心情を見透かしたように、話題も転換した。

「たとえば君だってすでに勝っているんだよ。ある狭い世界ではね」

「私が、ですか!?」

 私は怪訝な顔を向ける。

「君は『若さ』や『女子学生』というデータを纏っている。それだけで勝ち組じゃないか。学生のコンパや、うだつの上がらない青年や中年たちに、もっと言えば売春という世界で……」

 過激な単語も淡々と発音する男性に対し、私は一方的に畏まってしまった。

 たしかに社会においては男性の言う通りかもしれない。しかし私は、コンパなどの現実の行事には見切りをつけていた。だから私は、勝ってなどいなかった。「狭い世界」で勝てるとしても、私は嬉しく思わないだろう。

「だが、むなしいものだったよ、勝つということは」

 男性は顎の前で手を組み、陰翳を帯びた声で語った。

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