【第2面(裏面)】 (2)
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私は『ゲーム』からご無沙汰だった。
最後にログアウトしてから五日は経っていた。『ゲーム』へのログインは、私の意志とは関係なしに、突然行われる。その不穏な予感が息苦しい。
ログアウトしたのは、『箱舟』に襲撃された土壇場。状況をどう打開したらいいか想像もつかない。再開されれば、一瞬でゲームオーバーになることは目に見えていた。
最近に限り、現実世界は「現実」の牙を剥かず、おとなしく私の周囲を流れた。ログアウトした時の切迫感も薄れた。『箱舟』の襲撃は完全に悪夢だったが、今は悪夢自体を忘れつつある。『ゲーム』が無いから、ヒジリとの接触も無かった。
昼休みに売店へ行くと、事務連絡と称し、RTが毒を混ぜた不愉快な話をしてきた。だが、悲嘆と絶望にまみれた世界こそ、現実のありのままの姿だ。RTの毒など、ただのユーモア。生温かい。そんな「他愛もない」話を延々とするRTには苛々した。
昼休みのキャンパスは学生で溢れ、人間のなまぬるい空気で満ちていた。さながらロータリーは混雑する露天風呂のようだ。現実というあいまいな重み。その何よりも重い空気こそが、現実世界を肯定している。
『SC』を始めた私は、今まで無かった、血肉を削られるような試練を味わうようになった。現実世界では経験したこともない重圧だった。
今までは現実世界を見捨てていたので、現実の事象も私を素通りしていた。しかし今は、現実を捨て去った代わりに『ゲーム』を拾った。引き受けた『ゲーム』を逃げるわけにはいかなかった。非現実と現実が渾然となった試練が、私の生身を直撃した。
油断すれば、エルフのように、『ゲーム』の貪食の餌食となってしまう。
これからの『ゲーム』を思うと、この上なく深刻な表情で佇んでいる自分が、現実世界に居た。
「あのう、すみませんが」
声を掛けられた気がした。
人混みのノイズに、まるで消されかけながら、一人の老婆が居た。腰は曲がり、地面に打ち込まれたホッチキスの針のような人間だった。
「道を訊きたいんですが、メディアセンターにはどうやって行けばいいでしょう?」
社会人学生だろうか。こういう老人の学生もたまに見る。
「メディアセンターなら、あの円錐形の塔があるわよね。あそこの奥の道を――」
「案内してもらえると助かります」
指差し説明する私に、老婆は言った。言葉は丁寧だったが、態度からは「説明は聞かない。早く連れて行け」という横柄さが滲んでいた。私は瞬間的に怒りが湧いたが、内心ブチギレた程度では、現実世界の重みを払い除ける荒業には至らない。こういうストレスが蓄積すると「現実病」になるのである。そして、現実世界に居る限りストレスの蓄積が永劫に起きると思うと、折れる寸前の竹のように心がひしゃぐわけだ。
私は、若い美しい女の静やかな顔面を保ち、老婆を先導してあげた。
チラと見ると、老婆は奇矯だった。明るすぎるヒマワリの絵がプリントされたワンピースを着ているが、象のようなひび割れた白い足と、ぶよぶよの皮の垂れた二の腕は気持ち悪い。ばさばさの髪は山姥のようだ。明らかに若すぎる格好で、不調和だ。でも、現実人間の細部になど私は興味は無いので、気にせず先導した。
中庭を通り抜け、出口の洞門の所に来た時、
腕に鈍い痛みを感じた。
しかし、なぜか不思議な予感によって私は振り向いていた。だから老婆の動きを察知できて、老婆がナイフで切り付けてきたのを、間一髪でかわすことができたのだった。腕の皮を一枚切られたが影響はなかった。むしろ急激にアドレナリンが分泌され、私は興奮と集中を増した。こういう身体能力の向上は、『ゲーム』からの『反映』に間違いない。
私は、ストップウォッチでも計れないほどの僅かな間に、全体を観察できた。老婆はナイフを引っ込め、再び攻撃に移ろうとしていた。柄がプラスチック製の安っぽいナイフである。どうして私が攻撃されるのだろうか。覚えがなかった。老婆の顔にも全く心当たりが無かった。しかし、攻撃してくる以上、防衛しなければならない。私は更に感覚を研ぎ澄ませ、戦う姿勢をとった。老婆は目をむいた。目元の皺がぶよんと動いた。内部に隠れていた泣きボクロが表れた。それはふいに私の認識に割り込み、違和感の波紋を広げた。しかし、何か大事なことを思い出せない。
そのとき、介入者が現れた。
体格の良い中年男性が、素早く割り込んだ。男は老婆の腕を固め、ナイフを取り上げると、蹴るようにして押し倒した。老婆は尻餅をつき、勢いを制御できず、地面に「ごちん」と頭を打ち付けた。だらりと動かない老婆。男は「大丈夫か」と言ってきて、私を抱いて立ち上がらせ、洞門の暗がりから外に逃れさせた。どちらかというと、私は老婆の容態が心配で、逃げながら振り返った。老婆はぐったりしていた。
「心配いらない。警備員がすぐくる」
男が私の耳元で大きな声を上げた。
場面の勢いというのか、ほとんど強引に男性に引っ張って来られた。もう洞門のある建物さえ見えなかった。
ふいに思い出したのは、キャンパスの正門まで来て、ずいぶん離れた時だった。
老婆と同じ泣きボクロがエルフの目にもあった。




