食い逃げ妖精、魔女のオーブンから焼き上がる。
森の奥には、煙を吐かない煙突があった。
屋根は黒く、窓は細く、壁には蔦が絡んでいる。
庭には青い茸が生え、井戸の縁では三本脚の蛙が昼寝をしていた。
いかにも魔女の家だった。
けれど、その日は少しだけ甘い匂いがした。
蜂蜜。
焦がした砂糖。
砕いた木の実。
それから、焼ける前の小麦の匂い。
リリィは森の上をふらふら飛んでいた。
特に行き先はない。
タルムは川辺で甲羅を干している。
リリィは甘い匂いに鼻を向け、そのまま黒い煙突の家まで飛んできた。
窓は開いていた。
「お菓子だ」
リリィは迷わず中へ入った。
魔女の台所は薄暗かった。
天井から乾燥させた薬草がぶら下がり、棚には色の違う瓶が並んでいる。
紫の粉。
緑の蜜。
瓶の中で眠る小さな雷。
欠けた月を漬けた水。
けれどリリィは、どれにも目を向けなかった。
大きな作業台の上に、星形の生地が並んでいた。
蜂蜜を練り込んだ薄茶色の生地に、細かな木の実が散らしてある。
リリィは一番近いものを持ち上げた。
端を少しかじる。
さくり。
まだ焼いていないのに、小麦の甘さが広がった。
蜂蜜の香り。
砕いた木の実の香ばしさ。
「おいしー!」
金色の粉が、作業台へぱらぱら落ちた。
リリィは夢中になって、もう一口かじった。
星形の端が少し欠ける。
さらにもう一口。
そのとき。
玄関の扉が開いた。
「まったく。薪まで湿っているじゃないか」
低い声がした。
魔女が帰ってきた。
黒い帽子。
黒い外套。
腕には細い薪を抱えている。
リリィは口いっぱいに生地を入れたまま、周囲を見回した。
棚の後ろは瓶でいっぱい。
鍋の中には緑色の液体。
籠の中では、何かが牙を鳴らしている。
隠れられそうな場所は一つしかなかった。
壁際にある、大きなオーブン。
リリィは食べかけの星形生地を抱えたまま、オーブンの中へ飛び込んだ。
直後、魔女が台所へ入ってきた。
魔女は作業台の前に立った。
一つ。
二つ。
三つ。
数えていく。
「……一枚足りないねえ」
リリィはオーブンの中で息を止めた。
魔女は首を傾げた。
けれど、すぐに肩をすくめる。
「まあ、昨日のあたしが味見したんだろう」
リリィは小さくうなずいた。
きっとそういうことにしておこう。
魔女は天板へ生地を並べ始めた。
星形の生地が一枚ずつ、オーブンの中へ入ってくる。
リリィの横。
頭の上。
足元。
最後に、魔女が鉄の扉を閉めた。
暗くなった。
「閉じ込められた」
リリィは小声で言った。
手元には、まだ食べかけの星形生地がある。
とりあえず、一口かじった。
「でも、おいしい」
外から薪を組む音がした。
次に、火打ち石の音。
かちり。
かちり。
何度鳴っても、火はつかなかった。
魔女が舌打ちする。
「またかい」
かちり。
かちり。
それでもオーブンの中は暗いままだった。
リリィは少し安心した。
火がつかなければ、焼かれない。
外で魔女がぶつぶつ言っている。
「昨日もだめ。今日もだめ。百年も使えば、火だってへそを曲げるか」
リリィは暗闇を見回した。
オーブンの奥に、小さな赤いものがあった。
炭の欠片かと思った。
けれど、よく見ると丸まって眠っている。
赤い尻尾。
橙色の耳。
呼吸をするたび、背中がぼんやり明るくなる。
小さな炎だった。
リリィは近づいた。
「ねえ」
炎は起きない。
「火をつけるんだって」
返事はない。
リリィは星形生地をかじった。
半分になった。
暗いところで食べても、蜂蜜の香りはよく分かる。
「おいしいよ」
炎の耳が、ぴくりと動いた。
リリィはもう一口食べた。
木の実が、こりっと鳴った。
炎は薄く片目を開けた。
けれど、すぐ閉じた。
「寝てるね」
リリィは残りを見た。
あと一口。
リリィは最後の一口を頬張った。
「おいしー!」
金色の粉が、暗いオーブンの中へ広がった。
眠っていた炎の鼻先へ、一粒落ちた。
炎の鼻が動く。
もう一粒。
「……ふ」
炎が小さく息を吸った。
「ふ、ふ」
「はっくしゅん!」
炎がくしゃみをした。
赤い火の粉が、オーブンいっぱいに飛び散った。
壁が赤く染まる。
薪へ火が移る。
眠っていた炎は勢いよく立ち上がった。
オーブンの中が急に熱くなった。
「たいへん」
リリィの羽が熱でふくらむ。
星形の生地が、じわじわ色づいていく。
蜂蜜が溶け、木の実の香りが立つ。
柔らかかった生地の縁が、きつね色に変わる。
外では魔女が驚いていた。
「ついた?」
鉄の扉の向こうで、薪がぱちぱち鳴る。
リリィは焼けていく星の間を飛び回った。
けれど、羽には蜂蜜生地がついている。
熱で少しずつ固まり、重くなる。
「飛びにくい」
リリィは天板の端へ降りた。
足元の星形ビスケットは、もうすぐ焼き上がりそうだった。
甘い匂いが濃くなる。
リリィは焼けた端を少しかじった。
かりっ。
外は軽く、中はほろりとしている。
蜂蜜の甘さのあとから、炒った木の実の香りが追いかけてきた。
「おいしー!」
炎がさらに喜んだ。
ごうっと大きく燃える。
「熱い!」
リリィは鉄の扉へ飛びついた。
押す。
開かない。
蹴る。
やはり開かない。
外で魔女が焼き上がりを待っている。
リリィは扉を叩いた。
「開けて!」
ぱんぱん。
「まだいるよ!」
魔女が眉をひそめた。
オーブンから、聞いたことのない声がする。
「誰だい」
「リリィだよ!」
「どこのリリィだい」
「ここ!」
「ここじゃ分からないよ」
「オーブン!」
魔女は黙った。
すぐに鉄の扉が開いた。
白い煙。
甘い香り。
赤い火の粉。
その全部と一緒に、リリィが飛び出した。
髪はふわふわに逆立ち、羽には焼けた蜂蜜が薄く固まっている。
頭には、星形のビスケットが一枚乗っていた。
魔女は目を丸くした。
リリィは台の上へ着地した。
「焼けたよ」
魔女はリリィを見た。
オーブンの中を見る。
きれいに焼けたビスケットを見る。
もう一度リリィを見る。
「おまえは焼いてないよ」
「ちょっと焼けたよ」
リリィは自分の髪を触った。
毛先が少しだけ香ばしい。
オーブンの奥では、小さな炎が元気に跳ね回っていた。
魔女は近づき、目を細める。
「ようやく起きたのかい」
炎は魔女の指へ頬をすり寄せた。
魔女の顔が少しだけやわらかくなる。
リリィは頭に乗っていたビスケットを取った。
一口かじる。
かりっ。
金色の粉がまた散った。
粉はオーブンの扉へ落ち、小さな星の模様を作った。
炎がその星を追いかけて、楽しそうに走る。
魔女はリリィの手元を見た。
「それは、あたしのビスケットだね」
「オーブンにあったよ」
「あたしが入れたんだよ」
「一緒に焼けたよ」
「だからといって、おまえの分にはならない」
リリィは残りを口へ入れた。
魔女の眉が上がる。
「代金を払いな」
「ないよ!」
リリィは羽を広げた。
けれど、焼けた蜂蜜がぱりぱり固まっていて、うまく開かない。
一度、台から落ちた。
すぐに立ち上がる。
魔女が杖を取った。
「待ちな!」
リリィは走った。
作業台を横切る。
砂糖壺を飛び越える。
薬草の籠へ突っ込み、頭に葉をつけたまま窓へ向かう。
最後に羽を思いきり広げると、固まっていた蜂蜜がぱきんと割れた。
リリィは窓から飛び出した。
「ごちそうさま!」
「払ってから言いな!」
魔女の声が森へ響いた。
その日から、森の奥の煙突は、毎日少しだけ甘い煙を吐くようになった。
魔女のオーブンでは、小さな炎が星形のビスケットを焼いている。
ただし、天板へ並べる数は、いつも一枚だけ多い。
また食い逃げ妖精が焼き上がっても、困らないように。
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