【電子書籍先行配信記念】蛇足:モンゴメリー男爵視点
娘が王立学院に通うため王都へと旅立ってから、三日が過ぎた。
マリーがいないだけなのに、屋敷の中はやけに静まり返っているように感じる。
あの子がいた頃は、朝から晩までどこかしらで物音がしていた。
廊下を走る足音、書斎の扉が勢いよく開く音、私の小言に被せるように「ねえ、三年前の小麦の取引記録ってどこに置いたっけ!?」と尋ねる大きな声。
その淑女らしからぬ物音が今は何一つ聞こえず、私は一人、寝室のベッドの上で朝日を浴びながら、窓の外に見える庭の大きな木をぼんやりと眺めた。
——あれは、マリーが幼い頃によく登っていた木だ。
あの頃は、まさかこんなことになるとは、思ってもみなかった。
◇◇◇
マリーは、生まれた時から活発な子だった。
……いや、活発というのは少々控えめな表現かもしれない。
彼女は癇癪などを起こさない、驚くほど手のかからない子どもだったが、同時に、親の肝を冷やすことにかけて天才的な才能を発揮する子どもでもあった。
領地の子どもたちといつも泥だらけになって駆け回っては、誰が一番高いところまで行けるか、競って大木に登る。そうして、一番高い枝で得意げに笑っているような娘だったのだ。
下で見上げている私は気が気ではなかったが、彼女の顔は、私が世界で一番美しいと信じて疑わない最愛の妻にそっくりなものだから、たちが悪い。
木のてっぺん近くで、風に髪をなびかせて笑う娘を見上げていると、喉まで出かかった叱責の言葉が、いつの間にか引っ込んでしまう。
親バカと言われればそれまでだが、私にとってあの子は手のつけられない、それでいてどうしようもなく愛しい、小さなイノシシだった。
そんなイノシシが、厩舎から鞍もつけずに馬を連れてきたあの日が、今にして思えば転機だった。
「お父様、見ていてね! 私この子と人馬一体になるわ!」
何を言っているのか理解ができず、止める間もなかった。
気がついた時にはマリーはひらりと裸の馬の背に飛び乗り——そして、あっけなく落ちた。
地面に、頭から。
鈍い音を立てて地面に叩きつけられた愛娘を前に、私は心臓が止まるかと思った。
妻の悲鳴、駆け寄る使用人たち、ぴくりとも動かない小さな体。
あの時のことは、今思い出しても心臓が凍る心地がする。
幸い、命に別状はなかった。
派手に頭を打ちつけた割に、たんこぶ一つで済んだのは、強運としか言いようがない。
だから私はそれを転落事故として処理し、今度こそあの小さなイノシシに危ない遊びを止めさせようと、固く決意したのだった。
——私には、知る由がなかった。
あの落馬事故の衝撃を境に、娘の猪突猛進する方向が、百八十度変わってしまうことに。
◇◇◇
本人は意識もはっきりしており元気だったが、頭を打ったということで、医者は念の為数日の絶対安静を言い渡した。
しかし、じっとしていられないイノシシに安静を強いるなど、拷問に等しい。
案の定、絶対安静を告げられた娘は、数秒も経たずにこう言い出した。
「お父様の仕事の書類、見せて」
大人しく寝るふりをする気さえないのが少々気にかかったが、まあいつものことだ。
それに、随分可愛らしいことを言っているのだから、それくらいは大目に見なければ。
——父の仕事の真似事がしたいだなんて、本当に可愛らしい。
退屈しのぎに選んだのが、私の真似をして書類を眺めるごっこ遊びだとは、本当に微笑ましい。
それに、書類さえ渡しておけば、あの子はベッドの上で大人しくしてくれるだろう。一石二鳥だ。
そう考えた私は、請われるがままに、帳簿だの取引記録だのを、抱えきれないほど運んでやった。
まさか六つの子どもが、それらを理解できるだなんて思いもせずに。
そして、頭の包帯が取れる頃、娘は私に紙の束を差し出した。
「お父様、これ読んでくれる?」
私の真似をして書類まで作ったのかと思い、微笑ましい気持ちで手元の紙に視線を落とし——私は己の思い違いにようやく気がついた。
「マ、マリー……これは」
「農業改革案。このままだとうちの領地は、先細りする一方だと思うの。だから、こうしたらどうかと思って」
そこに書かれていたのは、農地の区画整理や、新しい輪作の導入についてなど——およそ六歳が書いたとは思えない内容だった。
どれもこれも、私が長年なんとなく「まあ、こんなものだろう」で済ませてきた、急所を的確についている。
……どうやら、娘の猪突猛進グセが、完全に私の仕事へと向かってしまったらしい。
正直に言って、私にはその農業改革案が上手くいくかどうか、判断できるだけの能力はなかった。
しかし、そんな私にも、一つだけ確信を持って言えることがあった。
農業改革の方が、木登りや裸馬に乗るよりよほど安全である、ということだ。
その確信が決め手となり、私は娘の好きにさせることにした。
領主として情けない判断だと笑われるかもしれないが、何しろ私にとって最も大切なことは、娘の頭がかち割れないようにすることだったのだ。
そして、数字だけを見れば、その判断はおそらく正しかった。
娘が書類に関心を持つようになってからたった三年で、モンゴメリー男爵家の収入は倍になったのだから。
私はもはや、感心を通り越して、娘の将来が少しばかり心配になってしまった。
◇◇◇
それからいくらもしないうちに、私の心配はあまりにも予想外な形で的中してしまった。
「天才令嬢」などという、本人を一度でも見たことがあれば絶対に出ない形容詞が王都まで一人歩きし、あろうことか、国王陛下直々にお声がかかってしまったのだ。マリーを第二王子である、クロード殿下の婚約者に、と。
田舎の冴えない男爵家に、王家との縁談。
考えるまでもなく、あの子には荷が重すぎる。
そして、私は不敬を承知で辞退するために宮殿へ向かい——気づいた時には首を縦に振っていた。なぜだ。
殿下と娘の顔合わせの席では、私は走馬灯を見ながら過去の自分を激しく恨んだ。
なぜ私の小さなイノシシが、好みのど真ん中の顔をした殿下を前にして、大人しくしていられると思ったのか、と。
ところが、だ。
いきなり全力で己の顔面を褒めちぎるという奇行に走った娘を前に、クロード殿下はなぜか気分を害した様子はなく。耳元を赤く染めて、娘から目を逸らしていらっしゃった。
後になって思えば、あの時すでに殿下の御心は動かされていたのかもしれない。
当時の私は、ただただ一家打首にならずに済んだことに、膝から崩れ落ちそうなほど安堵していたため、気付くことはなかったが。
生きた心地のしなかった顔合わせの後、陛下は娘に家庭教師を遣わしてくださった。
しかしその授業の内容は、どう考えても花嫁修行のためのものではない。
娘の才能を磨き上げ、国の役に立つ人材として育て上げるためのものだった。
果たして私の小さなイノシシが、陛下の求める結果を出すことができるのか。私が胃を痛めていたある日、家庭教師が妙な顔をして私のもとへとやってきた。
「お嬢様は……これまで、一体どのような教育を受けてこられたのですか」
私はやはり娘が何かをやらかしたのかと身構えたが、よくよく聞いてみると、その逆だった。
何を教えても、乾いた土が水を吸うように、貪欲に吸収していってしまう、と。
その話を聞き、無理をしていないかと不安がよぎったが、当の娘はといえば——胃を痛めてめっきり食が細くなった私の倍以上の料理を平らげた後、まだ足りないといった顔をして弟のルシアンの皿を見つめていた。いたっていつも通りだ。
そこで私はようやく腹を決めた。
本人が嫌がらない限り、案じるのはやめよう、と。
◇◇◇
そして、今。
娘はこの小さな男爵領を飛び出して、王立学院のある王都へと旅立っていった。
——あの子は、もうここには戻ってこない。
もちろん、長い休みには帰ってくるだろう。
だが、私の小さかったイノシシはもう、この場所には収まりきらないほどに成長した。
田舎の小さな男爵領は、あの子が自由に羽ばたくには、あまりにも狭すぎたのだ。
今頃、あの子は何をしているのだろう。
大方、生来のお人好しを発揮して誰かの厄介ごとに首を突っ込み、私の制止を振り切って持っていった書類の山に埋もれているに違いない。そして今日も、殿下の顔面を褒め讃えているのだろう。……ああ、考えただけで胃が痛む。あの中身は一体誰に似たのだろうか。
窓の外の大木が、風に揺れている。
その昔娘が得意げな顔をして座っていたあたりをぼんやりと見つめていると、耳に心地の良い足音が聞こえてきた。なかなか顔を見せない私を心配して、妻が様子を見にきたのだろう。
私は寝室の扉が開くと同時に、最愛の妻に朝の挨拶をした。
「おはよう、私の愛しい人! 今日はいい天気だが、太陽だって君の眩しさには敵わないね——」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
そしてご報告です。
ついに、コミックシーモアにて電子書籍が先行発売されました!
いつも応援してくださる皆様のおかげで、この日を迎えることができました。
本当にありがとうございます!
良くはないけど買わなくていいので、試し読みをクリックして大きく表示されるとんでもなく素晴らしい表紙だけでもぜひ見てみてください!
ちなみにコミックシーモアのみ、特典でアベル視点の蛇足がついてきます。
https://www.cmoa.jp/title/1101488813/vol/1/




