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ヒースローに停められた漆黒のプライベート・ジェット。その機内で、CIAのMは待っていた。機内に設けられた二つだけの座席。片方のテーブルにはスピーカーが置かれ、もう一方にはワインクーラーに浸されたピノ・ノワールがあった。相変わらずスピーカーだけという姿のM。しかし容貌が見えずとも、彼の嗤っている光景は容易に想像できた。
「久しぶりだね、ミス・チューズデイ。さあ、掛けたまえ」
「常々思っていたけれど、あなたっていつも電話で話している気分になるわね」
「それは許してくれ。これは僕の主義なんだ」
チューズデイはシートに腰をおろす。机上にはよく冷やされたワイン。氷の詰め込まれたワインクーラーで程よく冷やされている。その隣には、アンティーク調のグラスもあった。ステムの短い、ブラウンシュガーのような色をしたグラスだ。
「僕が用意した。イングリッシュ・ワインといえば白だが、君は赤が好きだったものね。ピノ・ノワールだ。飲んでくれ」
「残念だけど、でかい仕事の前には飲まない主義なの。それよりも、仕事の話をしてくれないかしら」
「わかった。いいだろう」
合成音声がそう告げてから、機長からシートベルト着用のアナウンスが入った。
黒のプライベート・ジェットは、ハマド国際空港行きのエアバスに続いて、滑走路に出る。そしてまもなく、上空へと飛び立った。
安定飛行に入ってから、Mが本題に入った。Mは相変わらずチューズデイがワインに手をつけないことを気にしていたが、彼女も頑として飲もうとしなかった。
機内に搭載された巨大ディスプレイに明かりが点る。すぐにそれは人工衛星が捉えた航空写真に切り替わった。
「君のおかげで、我々はモサドが何かたくらんでいることに気づけた。感謝する。それで、だ。彼らが何を計画しているかはまだ分かりきってはいないが、我々のスパイ衛星がこのような映像をとらえた」
映像は地球の青い姿から、中東の砂漠地帯へとズームを開始。シリアとイスラエルの国境付近へと近づいていった。
「半年前、シリア国境の町クネイトラから北へ一〇〇キロの地点で武力衝突があった。ここはイスラエルが保有する無人地帯であるから、シリア側が出張ってきたものと考えられる。しかし、問題はそのあとだ」
映像が進む。点のような人々が交戦する様子が写された。銃声こそないものの、バタバタと人が倒れていく様子がわかる。やがて武力衝突は沈静化。砂漠の無人地帯から軍が消えていった。
それから映像は早送りで進み、数日後の映像に切り替わった。すると武力衝突が起きた砂漠の中に、トラックがいくつも通ったような轍が見えたのだ。
「轍を発見できたのは、つい最近のことだ。かるい武力衝突だと思っていたからね。はじめは兵員輸送車でも動いた跡だと思われた。しかし、このような砂漠の乾燥地帯でそう何日も轍が残るのも珍しい。つまり、一定間隔で車両がこの場所を行き来していたものと考えられる」
「あなたが言っていたイスラエルの軍事基地らしきもの、というのは……」
「そうだ。この山岳地帯の中にあると思われる」
映像が切り替わる。
轍を写したズーム映像から、今度は夜の砂漠を映した赤外線映像。そこに描き出されていたのは、巨大な赤い単眼鏡のようだった。熱赤外線カメラは捉えていた。熱をはらんだ、巨大な何かを。
「これは……?」
「無人偵察機が捉えた映像だ。まもなく偵察機は、突如として信号途絶。何もわからないまま、墜落した。映像はこれだけだ。以降何度か偵察機を飛ばしたが、この地帯に入る前に必ず墜落している。それも、システムの不調が原因でだ。撃墜された形跡はない。DARPAの意見では、これは何かしらの指向性エネルギー兵器の影響だそうだ。強力なマイクロ波が周囲一帯にまき散らされており、その影響で偵察機がショートした、とかなんとか……。一種の電磁パルス攻撃だそうだ」
「まさかそれは、ハートブレイカー……?」
「おそらく、そうだろう。サドルディンやイブラヒムが所有していた強力なマイクロ波兵器、『ハートブレイカー』。威力からして、その拡大版でないかと推察される。単純計算だけでも、威力はロンドンで確認されたものの七〇倍以上。シンジケートとモサドは、これを隠匿していたものと考えられる。これだけ大型のマイクロ波兵器は、さすがに我が国にも無いよ。飛んでもない殺戮兵器だ。もしもこれが完成していたら、クネイトラまでは余裕で……それどころか、ASISの各拠点にも容易に届くのではないかと考えられる。威力は未知数だ。下手をすれば、我が国にも届く可能性はある。そうなれば、一つの街が誰も知らないうちに全滅している……などということだって十分にあり得る。史上最悪の大量殺戮兵器になるかもしれない」
「では、シンジケートはそれを隠すために……」
「各国にイーライ・ブラッドレイのようなエージェントを用意していたのだろう。かつまた、暗殺者に『ハートブレイカー』を使わせることで、その実戦データを採集していたと思われる。もしイーライ・ブラッドレイがそのデータを渡し、イスラエルがこの兵器の起動準備を進めているとなれば……。世界は、再び冷戦の時代に入るかもしれない」
「……私にそれを止めろ、と?」
「そうだ。状況は未曾有の危機にある。だが、CIAが大手を振って活動をするわけにはいかない。彼らは計画を早めることだろう。そのためには、誰にも素性を知られていない諜報員が必要になる。どの国家にも帰属しない、君がな」
「でも、私はレノックスに正体が割れている。教えたのはあなたでしょう?」
「そうだ。僕もまんまと騙されていたよ。ネイサンとは古くからの付き合いでね。よもや彼がモサドの二重スパイだとは思いもしなかった。彼は、人一倍自分のルーツを憎んでいた男だったからね。……だからこそ、僕は彼を止めなければならない。君にはレノックスの口封じもしてもらう。彼にはハートブレイカーまでの水先案内人になってもらい、目標を確認したところで殺す。それが君の仕事だ」
「相変わらず無茶を言ってくれるわね」
「でも、君にしかできない仕事だ。僕らも協力を惜しむつもりはない。……装備は準備してある。見るかい?」
スピーカーの向こうで、Mは不敵に笑んだ。
「わかったわ。それじゃ、CIAの支援とやらを見せてもらいましょうかしら。MI6と比較してあげるわ」
チューズデイは機体後部にある格納庫に案内された。ワードローブを改造したそこには、所狭しと銃が並べられていた。
「今回、君に潜入してもらう要塞には、さっきも言ったように強力な電磁パルスが発生している。ゆえに電子機器の類は一切使用できない。侵入後は、無線もGPSもすべて禁止だ。
また、このプライベート・ジェットも要塞に近づくことはできない。この機は、要塞から一〇〇キロの地点で離脱する。そこが限界ギリギリのポイントだ。君は目標の予測ポイントより一〇〇キロ東の地点からグライダーで滑空開始。目標地点まで距離を縮めたら、グライダーを放棄。ウイングスーツで接近、潜入してもらう。そのための装備が今回用意したスニーキングスーツだ」
格納庫の右壁面、ワードロープの名残を残した場所に漆黒のスーツが掛けられていた。マットブラックの、ライダーススーツのようなぴっちりとした戦闘服だ。その手足には、水掻きのような翼膜が張られていた。これが滑空用ジャンプスーツ『ウイングスーツ』である。
「これはスニーキングスーツとウイングスーツの役割を持つ特殊装備だ。まず体にフィットすることで、止血と体温維持の効果を発揮。と同時、足音や衣擦れの音を最小限にとどめることに成功。さらに視認性を低くするよう外界に溶け込みやすい形状になっている。特に夜間での視認性は極めて低い。隠密潜入作戦のため、DARPAが試作したものだ。
手足のウイングは滑空用だ。空中からの迅速な潜入が可能にする。素材はステルス性の高いモノを使用しているため、レーダーに捉えられる心配もない。もっとも、EMPの中でレーダーが動くかは疑問だがね? まあともかく、翼膜は着脱可能だから潜入に成功したら外すといい。
潜入後、君はハートブレイカーと目される兵器の偵察、および破壊。ならびにイーライ・ブラッドレイの暗殺を行ってもらう。
そして任務完了後、君はバックパックに装備したバルーンを展開。電磁パルスの影響がない高高度まで上昇する。上昇を確認後、我々のガンシップを向かわせる。そしてスカイフックを使って君を回収する。……いいかな?」
「スカイフック? ずいぶんアナログな手だこと。冷戦時の遺物じゃなかった?」
「そうだ。フルトン回収システムとも言う。仕方ないだろう? 要塞周辺のEMPがどの程度のものか見当がついていないんだ。だからピックアップ用のヘリを向かわせることはできない。無用な犠牲は極力避けたいんでね。そのためのアナログ作戦だ。ご理解いただけたかな?」
「なるほどね。状況が状況だし、仕方ないか……。いいわ、やってみせましょう」
言って、チューズデイは壁に掛けられた銃をいくつか手に取った。
メインアームにクリス・ヴェクター。EMPの影響を受けるため、サイトはアイアンサイトのまま。ストックとサプレッサーだけを装備。レーザーサイトもフラッシュライトも取り外す。セカンダリは、いつものスタームルガーMkⅢ。そしてハートブレイカー破壊用にC4プラスティック爆薬と起爆剤を用意。
それからチューズデイはスニーキングスーツに着替えると、ヴェクターをスリングで背中からさげ、さらにタクティカルベストに固定。ルガーはレッグホルスターに差した。
あとはグライダーだった。Mが用意したものは、非常に簡素で動力機もなにもない、本当にただの滑空機だった。翼と骨組みだけのシンプルな構造で、翼は折り畳み可能。銃でたとえればカラシニコフのような単純さだ。また翼と骨組みはタンカラーに塗られており、砂漠に溶け込むようになっていた。破棄したあとも発見までに時間がかかるだろう。
装備を整え、チューズデイは最後の確認に入る。サプレッサー装備のヴェクターは、ストックを畳んで背中に。右足にはルガー。そしてウイングスーツと、背中のバックパックにパラシュート、そしてバルーン。バックパック右側のヒモを引っ張るとパラシュートが開き、左側のヒモを引っ張るとバルーンが展開する。
予備弾倉ケースを金具でベストの胸元に取り付け、最終確認。チューズデイは、ワードロープから出る。
客室では、Mが待っていた。
「準備は整ったようだね、ミス・チューズデイ。さきほどイーライ・ブラッドレイもイスラエルに入ったと情報があった。MI6支部に行って、それから各国の諜報機関とともに報復行動の下準備を進める予定らしい。だが、本格的な準備が始まるにはもう少し時間がかかる。……彼はそれまでにシンジケートと接触し、情報を共有するはずだ。おそらく、あの要塞に現れるだろう」
「まさに一石二鳥。ブラッドレイと一緒に、ハートブレイカーを破壊してくるわ」
「頼む。君だけが頼りだ」
ジェット機の窓から外を見る。空は明るみを帯び始めていた。雲海が赤く輝き始めている。しかし、下界はまだ日の入り前だ。
ジェット機は徐々に降下を開始。雲を突き抜け、夜明け前の乾燥地帯を描き出した。
*
そのころ、ネイサン・レノックスは車に揺られていた。それもMI6でもモサドの車でもない、タンカラーのハンヴィーだ。
野戦服をまとった兵士たちの中で、スーツ姿の紳士はひときわ目立った。しかし彼は兵士たちにとって要人であり、守るべき対象だった。彼ら兵士は、全員傭兵である。雇用主について彼らは詳しくわからないが、ただこの男を指定された座標まで送り届けろとの指示を受けていた。
ネイサン・レノックス――イーライ・ブラッドレイ。彼はちょうど先ほどまで、レバノンで会談を進めていた。現地入りしたMI6とCIA、両者の目的はいまや一致している。ASIS残党への攻撃である。そのために両組織は結託して、残党とそのリーダーとおぼしき人物の捜索を行うこととなった。
合同捜索隊の派遣は、少なくとも三日はかかる。それまでレノックスは、現地にて待機する。それは、ある意味で英国内におけるテロを防いだ彼への休暇とも言えるものだった。
しかし、彼にとっては休暇ではなく、本業を行うための時間だった。
ハンヴィーはしばらく進んで、夜明け前には山岳地帯の中程に到着した。シリア・クネイトラから北方へ一〇〇キロの地点。一見してなんでもない乾いた岩場に見えたが、それはすべて擬装だった。
傭兵たちがクリアリングを行うと、レノックスはハンヴィーから降りた。
「ご苦労だった。ここまででいい」とレノックス。
彼はそう言うと、山間の方へ向かって一人歩き始めた。
「おい、そっちはなにも無いはずだぞ!」
傭兵の一人がハンヴィーに戻りつつ、余計な一言を言った。
「いいんだ。ここでいい」
「でも、そっちには――」
すると、その次の瞬間だ。
乾いた土壌に一台の装甲車両が現れた。獅子の咆哮のようなエキゾーストノートを響かせて、それはレノックスの前に急停止した。冷酷な淑女……イスラエル国防軍の装甲兵員輸送車である。
「安心しろ。ここから先は君たちの仕事ではない。我々、組織の仕事だ」
レノックスは言って、上着のポケットからスマートフォンを取り出した。彼はタッチパネルにふれると、走行車両に乗り込む。
刹那、傭兵を乗せたハンヴィーが爆発、炎上した。乗っていた傭兵たちはみな焦げ落ち、爆発で肉があたりに飛散した。砂の上に赤い血肉がべたべたと落ちる。真っ黒いエンジンオイルとともに。
レノックスはその様子に一瞥をくれることもなく、今度は装甲車の運転手にクルマを出すように命じた。
まもなく、『冷酷な淑女』は起伏の激しい丘をよじ登りながら、谷間にある人工物の中に入っていった。岩場と丘の合間に作られた極秘の軍事基地。……ハートブレイカー、である。
*
降下地点まであとすこし。ルビー・チューズデイは、それまでの時間を静かに過ごしていた。さすがにそこまで来ると、Mも酒を勧めるような無粋な真似はしなかった。チューズデイは黙って、静かに、目を閉じて時を待つ。ここ数日、光のように時が流れては、様々な事件が彼女を襲った。そのなかでも、今日が一番つらい時だろう。休まるときは必要だった。
しばらくして、コックピットの向こうから機長の声が聞こえた。
「まもなく、一〇〇キロ地点。降下ポイントです」
チューズデイはうなずく。スピーカーの向こうのMもまたうなずいているように感じられた。
グライダーを片手に、装備の最終点検をしてから、チューズデイは気密扉の前に立った。
「行ってくるわ」とチューズデイ。
扉を開ける。
刹那、ジェット気流とともに上空の冷たい風が飛び込んできた。ワインクーラーに入れられたピノ・ノワールが跳ね、壜の中身が爆ぜた。血飛沫のようにワインが飛散する。
「これからは通信もすべて不可能だ。フルトン回収後、よい報告が来るのを待っている。良い旅を、ルビー・チューズデイ!」
直後、チューズデイはグライダー片手に虚空へ飛び出した。
虚空に投げ出された体。チューズデイは、右手に持ったグライダーの留め具をはずし、翼を展開させた。デザートタンに塗られた翼が大きく開き、乾燥地帯に流れる風をつかんだ。
滑空開始。風に身を委ね、ゆっくりと進んでいく。少なくともこのグライダーで一〇〇キロ近くを飛ばなければならない。それも、GPSやその他のサポートもなしの状態で、だ。かなり厳しい作戦であるとはわかっていた。しかし、ここで止めなければ、ハートブレイカーは起動する。
それだけは避けなければならない。
チューズデイはアナログな方位磁針に目を落とし、針路を確認。さらにベストにしまった航空写真を取り出し、現在の状況と照らし合わせた。
クネイトラ北方一〇〇キロの地点。シリアとイスラエル、そしてレバノンとの国境沿いにある大地には、徐々に光が射し込み始めていた。夜明け前の大地は青黒く、冷め切っている。そこへ紫色をした太陽の光が山際からぬっと顔を出し始める。夜明けは色鮮やかな光が現れるイメージがあるが、実際のところそのような華やかさはない。青ざめた空間に、それより暗い光が徐々に投げ落とされていくだけだ。そこにまばゆい光はない。太陽が姿を完全に現す、そのときまで。
完全な夜明けを迎える前に、たどり着かなければならない。日が完全に昇ってしまえば、単純に視界が広がる。グライダーだって容易に発見されてしまう。
風に乗るグライダー。いまのチューズデイには、それを信じることしかできなかった。