六 返歌
その後、宴の場でどのように過ごしたのか、雅嗣はほとんど覚えていない。
始めは簀子に座って舞台の舞を眺めていたが、御簾のうちから何やら話しかけられ、煩わしくなって庭に降りた。……今思えばあれは誰だったのだろう、色目遣いの女房か、右大弁の姫の一人だったか。
庭に降りれば降りたで、誰からかは分からぬまま次から次に酒を勧められた。雅嗣は決して弱くはないが、このような席で飲む酒をうまいと思ったことはない。次々に注がれる杯を空けながら、心ここにあらずだった。
あの姫はきっと、母屋の御簾の中にいて、こちらを見ていただろう。
さっき話した男がこのわたしだと、気づいてくれただろうか。それとも、わたしの姿など、捜してもおられなかったか。
姫の気配を感じることができれば、と思ったが、賑やかな舞台以外から楽の音が聴こえてくることはなかった。父に引き止められ、なんとか亥の刻近くまでは我慢したものの、酒に酔って痴態を晒す者が増えてくるにつれ耐えられなくなり、その場を離れた。まったく父の意向にそぐわぬ行動ではあったが、致し方あるまい。
そのまま、向かうともなしに、また東の対に向かっていた。
そうだ、今一度あの美事な桜を見てから帰ろう。言い訳めかしてそう心に呟いたが、本当に見たいのは桜ではない、「梔子」だ。
先ほどは、蔀戸が開け放たれ御簾がかけられていたが、今はただ一箇所、半蔀が上げられているのみだった。階を昇って渡殿を越え、身をひそめてそっと中を窺ってみると、ひとつだけ灯された燭に照らされ几帳がぼうっと光って見えたが、人の気配はなかった。
雅嗣はひとつため息をつき、切ない想いを抱いて二条堀川邸を後にしたのだった。
───後ろで、その姫が見つめているとも知らぬまま……。
「……若君、若君」
文遣いを終えて邸に戻ってきた康清が庭先で呼ぶと、よほど待ちあぐねていたのだろう、雅嗣が転がるように簀子縁に出てきた。烏帽子が歪んでいるのも、この際見て見ぬふりをしておこう。
「帰ってきたか。遅かったではないか」
主人の非難めいた言葉に、康清は肩をそびやかして答える。
「右大弁さまのところで、結構待たされましたのでね」
この康清は雅嗣の乳母の子、つまり乳兄弟である。世の中の例に洩れず、幼い頃には雅嗣───当時は三郎君と呼ばれていたが───の遊び友だちとして、そして今は雅嗣の従者として側近く仕えていた。
「それで? 首尾はどうだ?」
康清は、高欄越しに主人の顔をまじまじと見上げた。そして、その思いつめたような表情に、思わずにやりと笑ってしまった。
「なんだ? その笑いは……」
「いえ、若君がこのように姫君に恋文を送られるなど、ついぞなかったことでしたので」
「……」
「嬉しゅうございますなあ」
康清は、焦らして楽しんでいる。真面目な主人は、結構からかい甲斐があるのだ。
「しかも、お相手は右大弁家の姫君。先日、あれほど文句たらたら出かけて行かれましたのに。縁というものは、まこと、どこにあるか分からぬものです」
「……」
そこまで言って、雅嗣の睨めつける視線に気づき、さすがに可哀想になって胸元から文を出した。
「……返事をいただけたのか?まこと、二の姫だったのか?」
康清は頷く。
「よろしゅうございましたね」
そう言いながら小さく結ばれた文を差し出すと、受け取った雅嗣は、すまぬ、と言い残し、再び御簾のうちに引っ込んだ。
その姿を、康清は微笑ましく見つめる。
よろしゅうございました。まるで、兄が弟を思うような気持ちで、もう一度心の中に呟いた。
雅嗣は右大弁の宴から戻った夜、思い悩んだ末、康清にすべてを打ち明けていた。必ず姫を捜すと豪語したものの、恋に慣れぬ男は、情けないことに姫が誰なのかを調べる術すら思いつかなかったのだ。その点、あちらこちらへ顔を出し、それなりにいい思いもしている康清は、翌日雅嗣が出仕した折、さっそく同僚の従者たちにそれとなく探りを入れ、大方の見当をつけていた。
「……まあ多分、二の姫さまではないか、と」
俄かに吹き荒れ出した、野分のような春の風が蔀戸を叩く深夜、揺れる燭の灯りを片頬に受け菓子をほうばりながら、康清は呑気に言った。
「なぜ、そう思う?」
康清とは対照的に一点を見つめてじっと動かぬ雅嗣は、その目に燭の灯りを映している。
「まず、一の姫さまではないでしょう。そこはよろしいですね?」
「まあ……そうなのだろうな。右大弁に似た姫だ、ということは聞いた」
雅嗣の言葉に、康清は動かしていた口を止めて主人を見る。
「なんと……人は変われば変わるもので───」
噂の類にはとんと無関心だった主人が、今日の参内で必死に聞き込んできたのだろうことを思い、康清の口許は自然と緩む。それを見た雅嗣は、その涼やかな目を細めて康清を睨んだ。
「……康清、いいから早う続きを申せ」
「ああ、失礼いたしました。三の姫さまはこう……言葉は悪いですが見栄っ張りな姫とか。そういう姫なら、宴の前に箏なんか弾いてる暇はないでしょう」
「なぜだ?」
「そりゃあ、着飾るのに必死でしょうから」
「……そんなものか?」
そうなのか、と雅嗣が呟くと、康清は大きなため息をついて、これだから若君は……という風に頭を振った。
「残念ながら、二の姫さまの話はどこからも聞くことができなかったのですが。若君のお好みからいっても、我の強そうな一の姫や三の姫ではないと思いますよ。ほら……祝姫さまもなんというか、ご自分のお気持ちよりも誰かの言うことを優先して、流されておしまいになるような方で。だから、あの但馬守───」
「何を言う。あれはまだ子どもの頃の話ではないか」
雅嗣は眉間にしわを寄せてまた康清を睨んだ。嫌なことを思い出させる。
祝姫というのは、例の幼なじみの姫である。雅嗣の乳母である和泉───康清の母である───の姉が乳母として仕えていたのが祝姫だった。三歳年上だった姫は雅嗣と幼い約束をしていた。にも関わらず、雅嗣が未だ元服も済ませておらぬ十一歳の時、姫より十二も上の但馬守を通わせ妻になってしまったのだった。それも多分、相手と心通わせることなく夜這い同然で。
「それに、あの姫は祝姫ではない」
憮然として言うと、康清は慌てて手を振った。
「これは失礼いたしました。ただ、若君のお好みの話をしたかったまでで……とにかく、話を聞いた限りでのおれの直感です。絶対に二の姫、中の君さまです」
全幅の信頼を寄せる康清にそのように断言されれば、ほかに頼るよすがもない雅嗣も信じるしかなく、二の姫に文を遣ったのだった。
そして今───雅嗣の手には桜の薄様の結び文がある。突き返されるかと思っていた。受け取って貰えたとしても、返事までは期待していなかった。
雅嗣は、まるで壊れものでも扱うかのように届いた文を脇息に載せ、半ば呆然と茵に座り込んだ。御簾で遮ってなお明るい春の陽差しが、端近に座る雅嗣のまわりを照らす。昨夜の風が嘘のようだ。
雅嗣は姿勢を正し、それからはたと気づいて烏帽子を直した。
そして、解く時に破ってしまわぬかと思うほどに動揺している指をついに文へと伸ばした時、背後で、若君、と古参女房の近江の声がした。
「寝殿の方に、兄君の中将さまがお見えでございま───」
近江が言い終わらぬうちに雅嗣は、ふぅ、と大きく息を吐き、背を向けたまま手を挙げて制した。
「分かった。あとで参るゆえ、今はひとりに」
はあ、と間抜けな声を出した近江が下がるのを確かめてから、雅嗣は覚悟を決めてそっと文を開く。
『花かげに たれそかれとぞ問はれしが かずならぬ身をも あはれやと見ん』
ほかに言葉はなく、ただ一首その歌のみが、柔らかく優美な手蹟で書かれていた。
───美しく咲き誇る桜のもとで、貴女は誰と問うてくださいましたが、梔子の花のようにつまらぬわたくしのことをも、美しいと思っていただけるのでしょうか。
間違いない、あの時の姫だ───雅嗣はまばたきすることも忘れ、文を見つめた。




