五 くちなしの姫
その同じ頃。
大納言家の三男、藤原雅嗣もまた、参内から戻ってすぐに送った文遣いが未だ戻らぬことに悶々としながら、時を遣り過ごしていた。
歌を詠んだり文を書いたりすることは、決して嫌いではないが得意でもない。ましてや、まことの心をこめた恋文など書いたこともなかった。
それでも、送りたい相手ができればするものだ、と我ながら感心した。昨夜一晩、頭を悩ませて書き上げた文は、恐らくもう、あの姫に届いているだろう。素晴らしい出来でないことは承知している。それ以上のことは……考えるまい。
浅葱*の袍から狩衣に着替えると、そのまま茵にごろんと横になった。
二日前のあの宵、嫌々ながら父大納言に連れて行かれた、右大弁家の宴。
噂に聞く二条堀川邸の優美さには興味があったが、同じくよく聞く三人の姫については、正直言ってまったく興味がなかった。
なんせ、あの右大弁の娘である。内裏ですれ違っても身分が下の者には視線も向けない、話すことはやれ、誰が良い衣を着ているだの誰が太って醜くなっただのという、女々しくくだらぬことこの上ない人物である右大弁の婿になるなど、まっぴらごめんだ。
そんなことを考えていると、同乗する父がぽつりと言った。
「この秋の除目で、恐らくはそなたも殿上を許されるであろう。しっかりと人脈を作っておきなさい」
雅嗣がこのような宴を好まぬことを知った上で、敢えて連れてきたのだと知る。右大弁家の姫と昵懇になれと期待されているわけではない、と思うと少し気が楽になった。
邸が噂に違わぬ美しさを持っていることは、門をくぐって車宿に降りた時すでに分かった。大き過ぎず、しかし小さくもないその邸は、隅々にまで手入れが行き届き、磨き上げられた階や簀子縁の板からさりげなく置かれた調度まで、昨年身罷ったという北の方の息吹が今なお、そこここに感じられるような気がした。女々しい右大弁の美意識も、ここでは一役買っているのかもしれない。
宴の始まるまでに、まだ時間もあった。雅嗣は、通された寝殿の裏手の階からこっそり庭に降り立ち、建物に沿って庭を歩いてみた。桜がちょうどいい具合に配置され、その間を埋めるように梅、躑躅、山吹、藤、萩などが植えられており、季節を追って咲いていくのだろう様子が目に浮かぶ。
植えられた花々の意趣が面白くて歩いているうちに、気づけば東の対のあたりまで来ていた。遣水を越えたところに、それは見事な桜が咲いているのが見えて、思わず足を止める。
その時だった、どこからともなく箏の音が聴こえてきたのは。
しばし立ち止まったまま聴いていた。なぜか、心に染みた。雅嗣は笛をするが、その師はいつも言う。楽の音には奏者の心映えがすべて映し出されるのだ、と。そして、その時聴こえた箏の音は、優しさと趣味のよさに満ちていると雅嗣は感じた。
もっとよく聴いてみたくなった。あたりを窺って誰もいないことを確認し、そっと渡殿手前の階を昇って、その対屋に近づいた。蔀戸が開け放たれ、御簾の下がったところから、その音は漏れ聴こえているのだった。
これもまた、客をもてなす趣向だろうか、と雅嗣は建物の角に身を潜めて、耳を傾けながら思った。陽が落ちてきていた。先ほど見た桜が夕風の中、微かに枝を揺らしている。
なんと美しい、と桜を見上げた時、ふ、と曲の途中で箏の音が止み、それっきり、ふっつりと聴こえなくなった。
なんだか、とても残念な気持ちになった。宴の趣向ではなく、誰かが手すさびにつま弾いていたのだろう。とすれば……これは右大弁の姫のうちの誰か、ということかもしれぬ。宴の日に箏を弾くほど暇な女房はいないだろうから。
雅嗣は迷った。まっぴらごめん、と思っていた右大弁の姫かもしれぬのなら、下手に声などかけぬ方がいい。でも、そう考える前に口が動いていた。箏を奏でる女がその場を離れる前に……と咄嗟に思ったのだ。
「───素晴らしい音色なのに、もう聴かせてはいただけぬのですか?」
しばらく、なんの音も返事も聞こえなかった。驚かせてしまったか、それとももう、そこにいないのか。御簾の中の気配を感じようと耳を澄ましたその時。
「……ここは東の対屋でございます。場所をお間違いではございませぬか?」
可憐な声が聞こえてきた。
困ったような、少し湿り気のある声。もしや、泣いていたのか。
警戒させたくなくて、雅嗣は慌てて言葉を返した。
「いえ、少しばかり早く着いてしまったので、邸を拝見させていただいていたのです。そうしたら、箏の音が聴こえたものですから」
本当にその通りだったのだが、言ってからそれがとても白々しい言葉だったような気がして、雅嗣は焦った。案の定、しばらくして御簾の中から、さっきよりも冷静な声が返ってきた。
「お恥ずかしゅうございます、ほんの指ならしでございましたのに。陽も落ちて参りました、宴も始まりますゆえ、どうか───」
早く立ち去れ、とその姫は言っているのだ。このままでは、自分はただの徒な男だと思われてしまう。いや……見も知らぬ、しかも、まっぴらごめんの右大弁の姫にどう思われようと構わぬ、はずなのだが。
「そんなことはない、まこと素晴らしい音色でした。心に沁み入るような……弾いておられる貴女の心が伝わってくる気がしました」
戯れに声をかけたわけではない、素直に心に思ったことを言っただけだと伝えたかった。
「……ここは本当に美しいですね。亡き北の方さまが愛された邸と聞いています。このような邸には、賑やかな音曲より一面の箏の音の方が、よほどふさわしいのに」
雅嗣は、前に広がる庭に目を遣った。もうじき宴も始まるだろう。寝殿の南庭には立派な舞台も設えてあった。華美を好む右大弁なら、静かな楽の音とともに、というような宴を開くことは思い至らぬに違いない。しかし、華美な宴は雅嗣の性格には合わず、好みでもなかった。
御簾の奥で、微かな身じろぎの気配がした。
「貴女は、そうは思われませんか? 私は、このような宴は苦手なのです……本当は」
きっと、この姫も自分と同じに違いない───なんの根拠もなかったが、なぜかそんな気がしていた。あのような箏を奏でる女ならば、きっと。
いったい、この姫は三人いるうちの誰だ?
今まで、噂に一切耳を貸そうともせず、この姉妹にまったく興味を抱かなかったことに、雅嗣は今、初めて後悔した。
知りたい、誰なのか。
「不躾なことをお伺いしてもよろしいですか?貴女は……?」
雅嗣は未だ、女の許にきちんと通ったことはない。
幼い頃からともに遊んだ姫に淡い恋心を抱いたようなこともあったが、その想いは、その姫が早々と違う男を通わせてあっけなく潰えた。出仕するようになってすぐ、内裏の女房に声をかけられ始まったかりそめの恋は、他の男と鉢合わせしそうになって懲りた。
十八になってなお、書にばかり向かい、女の影のない雅嗣だったが、そもそも父の意向によって勧学院*でなく大学寮に入ったという、その出自にしては珍しい経歴を持つ彼は、その後の出世も若干滞りがちで未だ六位*の身分、中務大丞という役職にやりがいを感じてはいたものの、やはり、早く昇殿できる五位以上に、そしていつかは父を超えて……という目標もあり、今は勤めに精を出すばかりだった。
そのような男が、うまく高貴な女人の名を聞き出す術など、持ち合わせているはずがない。でも、かなりまずい尋ね方であることくらいは、さすがの雅嗣でも分かった。
「……山吹の花色衣、とも申します」
御簾の中の姫は、そんな謎かけのような言葉を返してきて、雅嗣は一瞬、わけが分からずたじろいだ。
やまぶきのはないろごろも……
待てよ、何かで読んだ記憶がある───漢書ばかり読むのではないと、姉君に無理やり和歌の指南を受けさせられていた時だ。
───山吹の花色衣ぬしやたれ 問へどこたへず くちなしにして
くちなし、梔子……口なし! そうだ、古今集だ。
「くちなし、ですか」
雅嗣は思わず、笑ってしまった。この謎が解けたのは奇跡だ。姉君に感謝せねば。
口がないと言うのだ。とにかく、答えたくないということだろう……当然だ。雅嗣は納得した。しかしどうしても、このまま立ち去る気にもなれなかった。
「分かりました。これ以上の無理強いはいたしません。その代わり」
雅嗣は、御簾の中の気配を探りながら言ってみた。
「もう一曲だけお聴かせいただけませんか?」
「あの……」
戸惑うような呟きが聞こえてくる。透き通った、可愛らしい声だ。
「もう一曲お聴かせいただければ、気乗りせぬこのような宴に来た甲斐もあるというものです」
少し意地が悪いかとも思ったが、これは賭けだった。
自邸での宴に気乗りせぬと聞いて不愉快に思うならば、自分と同じように感じているのではという直感は外れたことになる。さあ、この姫はなんと答えるだろう───
「まあ」
驚きとも呆れともつかぬ声の零れるのが聞こえた。
雅嗣は、御簾の中の気配に耳を凝らす。
やがて、中から微かな衣擦れがして、指が触れたのか、箏の糸の震える音が伝わってきた。
心の臓が鷲掴みにされるようだ───雅嗣は身じろぎすらできぬまま、息をつめて空を見上げた。桜の枝がまるで、動揺する雅嗣を笑うかのように揺れている。
「貴女のところからも見えるでしょう、ほら、その桜は殊のほか美しく咲いている。貴女の箏をいつも聴いているからでしょうか」
話している言葉も声も、自分のものとは思えなかった。わたしは何を言っているのだ───落ち着け、と心に命じた。しかし、もはや制することのできぬ暴れ馬のようだ。雅嗣は大きく息をつく。
御簾の中からはもう返事はなく、その代わり、箏の音が再び鳴り出した。
───応えてくれた。
自分でも信じられぬほど、喜びを覚えた。そして、気づく。
恋してしまったことに……まっぴらごめんの姫に。
「必ず、貴女が誰なのか、捜します。そうしたら、文を……貴女に文をお送りすることを、お許しいただけますか」
やはり、返事はなかった。ただ、箏の音だけが鳴り続いていた。
───問へどこたへず くちなしにして
言葉の返事はなくとも、その音色は何より雄弁な答えのはず。雅嗣はそう信じた。
陽はますます傾いてきていて、仄かな桜の色は黄昏の光に沈みつつあった。そして、渡殿の向こうに人の来る気配がした。
箏の音は続いている。
雅嗣は抑えきれない、熱くて甘い感覚を身体の中に閉じ込め、静かに身を滑らせてその場を離れたのだった。
浅葱
緑がかった薄い藍色のこと。
官位が六位の者が身につける袍の色として決められていたことから、六位の者の別称ともなっています。
勧学院
藤原氏の子弟が学ぶ大学別曹。
六位
この時代、人の身分は律令制に基づく『位階』という序列で表しました。
上は正一位から下は少初位下まで30段階に分かれており、五位以上が昇殿を許された『殿上人』と呼ばれる貴族、六位以下は『地下人』とはっきり区別され、その差は非常に大きなものでした。




