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説得  作者: 夕月 櫻
第一章
5/58

四 初めての文

『たそかれに かくれをりたるくちなしの きみが色にぞわが身そまりつ


 お約束どおりに

                    雅嗣』



 結子の許にふみが届いたのは、宴の二日後の午後だった。乳母めのとの右京が側にいない時を見計らってこっそり手渡された、文。

 あの方だ……!

 小さく結ばれた山吹の薄様うすようの文を読んだ結子の心は震える。

 まさつぐ、という名に心当たりはなく、それでも、間違いなくあの時の、柳の衣を着たかの人だということが判るだけで充分だった。


 ───黄昏時*に隠れておられた「口なし」の貴女あなた。わたしは貴女への想いで染められてしまいました。


 かの人の口ぶりと同じくらい、実直でまっすぐな歌。

 あの夕刻の黄昏時を、名を問うた自分の言葉に重ね、梔子くちなしに例えて名を明かさなかった結子の言葉から、梔子が染める色の「黄み」と「君」をかけた上で、貴女の色にこの身が染まっています、というのだ。

 結子は、何度も何度も読み返した。恥ずかしさに目を背けたいような、でも、抑えることのできぬ嬉しさが結子の心に溢れる。

 今までにも幾度となく文を貰ったけれど、それはいかにも遊び慣れた風の、美辞麗句に彩られた技巧的な歌ばかりで、心に響くものなどひとつもなかった。でも、この歌は違う。結子が生まれて初めて、心動かされたひとからの恋文。ただ二人にしか分からぬ情景を詠み込んだ、真心込められた恋の歌。


「……二の姫さま」


 几帳の向こうで、取り次いだ女房の茅野かやのがおずおずと声をかけてきた。

 茅野は、女童めのわらわの頃からずっと結子の許に仕えてきた者で、受領ずりょうに嫁いで都を離れた結子の乳姉妹ちしまい、弥生の代わりとなり、身の回りのことをしてくれているのだった。


「お返事は、いかがいたしましょう?」


 男の恋文の取り次ぎをせねばならなくなった、まだ幼いと言ってもいいほどに年若い、茅野の戸惑いが伝わるその声を聞きながら、結子はもう一度文を見つめた。

 やんごとなき姫君は、初めて文を送ってきた男に返事などせぬものだ。けれど───

 咄嗟に、開け放たれた蔀戸しとみどから渡殿の方を窺った。右京の姿はまだ見えない。

 結子は急いで文机に桜の薄様を広げると、小首を傾げて少し考えた。それから、ひとつの歌だけを流すように書きつけ、それを同じように小さく畳んで結ぶと、待っていた茅野にそっと手渡した。

 驚いて目をまんまるにした茅野は思わず声を上げる。


「ま……あ、姫さま、よろしいのでございますか?」

「しっ! 右京には内緒よ。もちろん、お父さまたちにも」


 茅野は不安げに、でも心得たと頷いた。


「それから……どちらのおやしきからなのか、文遣いの者に確かめてちょうだい」

「承知いたしましてございます」


 茅野は頭を下げると、結子からの文を袖の内に隠し、そっと出て行った。その後ろ姿を、蔀戸の陰から見送る。一抹の風が吹き、あの美事な桜から散り初めの花びらが雪のように舞った。

 この樹を見ておられた、あの方───雅嗣さま。

 結子は目を細めて桜を見上げながら、勢いでしたためてしまった返事のかの人に届くことに、今更ながら大変なことをしてしまったと感じていた。頭に血が上り、息苦しいような心地がして、思わず胸を押さえて大きく息をつく。

 あの文をお読みになられたら、なんと思われるだろう。さっそく返事を寄越すなど、慎みもゆかしさもない娘だと思われてしまったら?

 ああ……でももう、あの文は今頃、あの方の文遣いに手渡されて、あの方の邸に向かっているに違いない───

 もう、後戻りできない一歩を踏み出してしまった気がして、結子の心は震えおののく。でもそれは、なんと甘やかな戦慄だったろう。

黄昏時

「たそがれどき」という言葉は、「たれかれ」からきており、「あなたは誰?」と問うほどに薄暗い夕暮れの時を指します。

対になる言葉「かはたれどき」は、同じく「たれ」からきており、薄暗い夜明けの時を指します。

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