四 初めての文
『たそかれに かくれをりたるくちなしの きみが色にぞわが身そまりつ
お約束どおりに
雅嗣』
結子の許に文が届いたのは、宴の二日後の午後だった。乳母の右京が側にいない時を見計らってこっそり手渡された、文。
あの方だ……!
小さく結ばれた山吹の薄様の文を読んだ結子の心は震える。
まさつぐ、という名に心当たりはなく、それでも、間違いなくあの時の、柳の衣を着たかの人だということが判るだけで充分だった。
───黄昏時*に隠れておられた「口なし」の貴女。わたしは貴女への想いで染められてしまいました。
かの人の口ぶりと同じくらい、実直でまっすぐな歌。
あの夕刻の黄昏時を、名を問うた自分の言葉に重ね、梔子に例えて名を明かさなかった結子の言葉から、梔子が染める色の「黄み」と「君」をかけた上で、貴女の色にこの身が染まっています、というのだ。
結子は、何度も何度も読み返した。恥ずかしさに目を背けたいような、でも、抑えることのできぬ嬉しさが結子の心に溢れる。
今までにも幾度となく文を貰ったけれど、それはいかにも遊び慣れた風の、美辞麗句に彩られた技巧的な歌ばかりで、心に響くものなどひとつもなかった。でも、この歌は違う。結子が生まれて初めて、心動かされた男からの恋文。ただ二人にしか分からぬ情景を詠み込んだ、真心込められた恋の歌。
「……二の姫さま」
几帳の向こうで、取り次いだ女房の茅野がおずおずと声をかけてきた。
茅野は、女童の頃からずっと結子の許に仕えてきた者で、受領に嫁いで都を離れた結子の乳姉妹、弥生の代わりとなり、身の回りのことをしてくれているのだった。
「お返事は、いかがいたしましょう?」
男の恋文の取り次ぎをせねばならなくなった、まだ幼いと言ってもいいほどに年若い、茅野の戸惑いが伝わるその声を聞きながら、結子はもう一度文を見つめた。
やんごとなき姫君は、初めて文を送ってきた男に返事などせぬものだ。けれど───
咄嗟に、開け放たれた蔀戸から渡殿の方を窺った。右京の姿はまだ見えない。
結子は急いで文机に桜の薄様を広げると、小首を傾げて少し考えた。それから、ひとつの歌だけを流すように書きつけ、それを同じように小さく畳んで結ぶと、待っていた茅野にそっと手渡した。
驚いて目をまんまるにした茅野は思わず声を上げる。
「ま……あ、姫さま、よろしいのでございますか?」
「しっ! 右京には内緒よ。もちろん、お父さまたちにも」
茅野は不安げに、でも心得たと頷いた。
「それから……どちらのお邸からなのか、文遣いの者に確かめてちょうだい」
「承知いたしましてございます」
茅野は頭を下げると、結子からの文を袖の内に隠し、そっと出て行った。その後ろ姿を、蔀戸の陰から見送る。一抹の風が吹き、あの美事な桜から散り初めの花びらが雪のように舞った。
この樹を見ておられた、あの方───雅嗣さま。
結子は目を細めて桜を見上げながら、勢いで認めてしまった返事のかの人に届くことに、今更ながら大変なことをしてしまったと感じていた。頭に血が上り、息苦しいような心地がして、思わず胸を押さえて大きく息をつく。
あの文をお読みになられたら、なんと思われるだろう。さっそく返事を寄越すなど、慎みもゆかしさもない娘だと思われてしまったら?
ああ……でももう、あの文は今頃、あの方の文遣いに手渡されて、あの方の邸に向かっているに違いない───
もう、後戻りできない一歩を踏み出してしまった気がして、結子の心は震えおののく。でもそれは、なんと甘やかな戦慄だったろう。
黄昏時
「たそがれどき」という言葉は、「誰そ彼」からきており、「あなたは誰?」と問うほどに薄暗い夕暮れの時を指します。
対になる言葉「かはたれどき」は、同じく「彼は誰」からきており、薄暗い夜明けの時を指します。