俺の意思はどこにある3
瓦礫の山をかき分け、崩れかけた通路をようやく抜け出すと、目の前に広がったのは、開けた外の世界だった。
肌に触れる風が心地よい。けれど、その中には微かに火薬と焦げの匂いが混じっていて、先ほどまでの混乱の余韻を残している。なのに、不思議と辺りは静まり返っていた。まるで、すべてが夢だったかのように。
「はーっ、なんとか脱出成功!」
レッドが勢いよく両腕を振り上げ、満足げに背筋を伸ばす。そのマイペースな様子に、思わず苦笑がこぼれた。まるでさっきの爆発も乱戦も、ちょっとした運動だったかのようだ。隣で肩で息をしている俺とは対照的に、彼はピンピンしている。まったく、どんな体力してんだ。
「トオルさん、怪我してない?」
「ん、ああ……」
「よかった!でもまさか、こんなとこで再会するとは思わなかったなぁ!」
あっけらかんとした笑顔に、胸の奥がわずかにざわついた。すると突然、レッドの表情がふっと真剣なものに変わる。
そして、じっと俺を見据えた。
「……な、なんだよ」
「いやさ、気になってたんだけど俺が中に突入した時さ……レヴィの頭、撫でてた人がいたんだよね」
その目は、探るようでいて、どこかもう答えを知っているようだった。鋭さはないのに、まっすぐで、逃げ場がない。何かに気づいたのか、それとも最初から見えていたのか。言葉を返せず、俺はただ口を閉ざす。少しの間を置いて、レッドが静かに言った。
「……あれってまさか、トオルさん?」
返事はしなかった。ただ、目をそらさず、黙っていた。それで十分だったのか、レッドはふわっと表情を明るくし、屈託のない声で言った。
「やっぱり、トオルさんってさ…めちゃくちゃすごい人なんじゃん!」
「……は?」
あまりに予想外の言葉に、思わず間の抜けた声が漏れる。
「だって、レヴィだよ?あのレヴィが頭撫でられて怒らないなんて、ありえないって!」
……レヴィ? 誰だそれ。
いや、まあ流れから察するに、あの無口な白銀の男のことだろう。俺をここまで連れてきた張本人。とはいえ、なんで俺はここに連れてこられたのかも、彼が誰なのかもわかってないけどな。それより、レッドが尊敬の眼差しを向けてくるのが地味にきつい。やめてくれ。俺はただのフリーターだ。
──だが、その空気を断ち切るように。
「その件については、あとで詳しくお伺いしてもよろしいでしょうか?」
低く、落ち着いた声が、背中をひやりと撫でた。振り返ると、そこにいたのはグリーンだった。黒煙の残る通路の向こうから、まるで音もなく姿を現したその男は、柔らかな微笑みを浮かべていた。ただし、その目だけは、笑っていなかった。レッドの明るさとは正反対。静けさで押し潰すような、無言の圧がそこにあった。
「グリーン!」
レッドがひらひらとグリーンに手を振る。
グリーンはヒーロースーツを着てはいなかったが、戦闘直後のような鋭い気配をまとっていて、どこか近寄りがたい。
「レッド。あなたにはこれを。本部まで届けていただけますか?」
淡々とした口調で言いながら、グリーンは腰のポーチから小型のデバイスを取り出し、手渡す。
「え、今から……?」
レッドが戸惑いの声を上げるより早く、小さなデバイスが手に押しつけられる。強引すぎる指示に少し面食らったような顔で、レッドはぼやいた。
「せっかくトオルさんと話せると思ったのに……」
だが、グリーンの鋭い視線が再び向けられた途端、レッドはぴたりと口をつぐむ。
「──じゃ、じゃあ行ってきまーす! またね、トオルさん!」
ぎこちなく敬礼すると、レッドは走り去っていく。軽い足音が遠ざかって──やがて、完全に消えた。
……いや、できれば行かないで欲しかったんだけど?
レッドの気配が完全に途切れたその瞬間、場の空気が一変した。音が吸い込まれたような静けさの中、俺とグリーンだけがそこに残される。風が肌を刺すように冷たく感じる。だが──それ以上に、グリーンの視線が熱く、重い。
「……トオルさん、色々と聞きたいことはありますが」
ひとつ、足音が静かに響く。グリーンがこちらへと歩を進める。その足取りは落ち着いていて音も小さいが──逃げ出すには、もう距離が近すぎた。
「今羽織っている服はトオルさんのものではありませんね?トオルさんが他人の服を着ているなんて、私を怒らせたいんですか?」
それは、俺が部屋着のスウェット姿でいたのを見かねて、ヤツが勝手に服を貸しただけだ。まぁ無理やり連れてこられたせいでもあるが…。好んで着た訳でもない。だが、そんな理屈は、この男には通じない気がした。グリーンがじっと俺を見下ろす。その瞳はどこまでも冷ややかで──それなのに、わずかに愉しんでいるようにも見える。
次の瞬間、彼の指先が俺の胸元へと伸び、服の襟にそっと触れた。
「……脱がせますね?」
「は?」
言葉の意味を問い返す暇もなかった。彼の手が、迷いなく伸びてくる。スッと胸元に指が触れ、羽織っていた服が、ためらいもなく滑らせるように剥がされていく。
その手つきはあまりにスムーズで手慣れていて──
まるで“服を脱がせている”のではなく、“俺という存在を剥いでいる”ような錯覚すら覚えた。
「……まさか、そのままでいるつもりでしたか?」
ぽつりと落とされた声は、柔らかく、冷たい。
「そんな格好で、私の隣を歩くなんて──想像しただけで、吐き気がします」
静かな語気なのに、吐き捨てるような鋭さが背筋を刺した。体をすくませる間に、俺が着ていた黒い上着は奪われるように外され、新しいものが──グリーンの匂いがする服が、代わりに肩へと掛けられる。
(……これで終わりか?)
かすかに息を吐いた瞬間、彼の手がまた動いた。今度は、ゆっくりと頬をなぞる。
「ちょ、待──」
言い終える前に、耳のすぐそばで、吐息が触れた。
ほんのわずかな空気の揺れが、皮膚の奥にまで突き刺さるようだった。ひどくぞわりとした感覚に思わず後ずさる。
「……まさか、逃げようなんて考えてませんよね?」
耳元に落ちる声は、ぞくりとするほど低く、静かで、それでいて凍えるような熱を帯びていた。
「こう見えて、機嫌はあまりよくないんです。だから──逃げられたら、何をするかわかりませんよ」
冗談のような口調なのに、冗談には聞こえなかった。
抗議の言葉が喉まで出かけるが、声にならない。ただ背筋に走る寒気に、身体が硬直する。
そして──
グリーンの指先が、ゆっくりと俺の首筋をなぞった。ひやりとした指が触れるたびに、逆に熱が滲むような錯覚を覚える。指先が喉のくぼみへ沈み込み、まるで撫でるのではなく、刻み込むように滑っていく。
「……トオルさんに、触れたやつはいませんよね?怪我とか……してませんか?」
囁く声とともに、指は鎖骨のあたりまで落ちていく。皮膚の薄い場所を、丁寧に、けれどどこか執念じみた動きでなぞっていく。
「無事でよかったです。でも……ほんの少し目を離しただけで、敵と至近距離で──頭を撫でていたなんて」
「あーいや、それは──ちが──」
言い訳しかけた瞬間、指先がわずかに力を帯びた気がした。そのぬるい圧に、言葉の続きは喉で凍りついた。
「違う?」
耳元に吐息がかかる。直後、耳たぶにやわらかな指先が触れた。その瞬間、全身がびくりと跳ねる。
「“違う”のに、抗わなかったんですね。撫でる手を止めたら、寂しそうにしたんでしょう?だから、続けてあげたんですよね」
(……見てたのかよ、こいつ)
言い訳の言葉は喉まで上がるが、息すら整えられない。意識はすべて、首筋を這うその指先に持っていかれる。くすぐったくて、逃げたいのに逃げられない。この柔らかい指先に追い詰められていく自分に──うすら寒い自覚が芽生えていた。
「……安心してください。あなたが触れていいのは──私だけです。ちゃんと、身体に覚えさせてあげますから」
囁く声が耳に触れた瞬間、グリーンの指先が再びそっと動き、俺の耳たぶを優しく挟んだ。
その触れ方はあまりにも柔らかくて、反射的に背筋を快感が駆け上がる。息が漏れそうになった喉を、なんとか押し殺す。
このままじゃまずい──
支配されるような空気をなんとか断ち切ろうと、必死に言葉をひねり出す。
「……そういや、お前……俺のバイト先に連絡、入れたよな?」
わざとらしく話題を変えたつもりだった。けれど声はかすかに震えていて、自分でもごまかしきれていないのがわかる。
「ええ。トオルさんが社会的に不利益を被るのは、私としても耐えられませんから」
淡々と、あくまで理知的な口調でそう返される。
「……助かったよ」
本当に助かったのか──その実感は、正直なかった。
でも、ほかに言葉が見つからなかった。ただ、それだけだった。
「ふふ……それで逃げたつもりですか、トオルさん?」
グリーンは穏やかに笑う。
けれどその笑顔の奥に、なにか底知れないものがちらりと見えた気がして、思わず肩に力が入る。
「そんなに怯えないでください。私は優しいですよ、あなたには」
やさしい声。やさしい目。けれど──
「トオルさんを誘拐した彼には、忠告を無視した代償をきちんと支払っていただきましたので、どうぞご安心を」
少々手荒になってしまいましたが、と、淡々と当たり前のように言いながら、グリーンがまた一歩、こちらへと踏み出す。背後に道はなく、退路はもうない。
「ですが、次に同じことがあれば──」
耳元で、低く、甘く囁かれる声。
「……今度こそ、あなたを、私の部屋から出られない身体にしてしまうかもしれません」
ゾクリと、体の芯が凍える。それでも足はすくみ、声は喉で凍ったまま。
(彼に何をしたのか──聞けるわけがない)
知るのが怖い。想像すらしたくない。
けれど何よりも恐ろしいのは、それを笑いながら語れる、この男自身だった。
「ちゃんと反省してくださいね」
整った笑顔が、まるで仮面のように浮かぶ。
完璧で、隙がなくて、そして──気味が悪いほど美しい。
「それと……私の理性が、まだ“かろうじて”あるうちに」
すっと顔を寄せながら、耳元に甘く、ねっとりとした声が落ちる。
「早く私に堕ちてください、トオルさん。じゃないと、傷つけずに済む自信が……なくなりそうですので」
“あなたには優しくしたいんです”と、まるで愛を囁くように。だがその奥には、狂気と執着が静かに蠢いていた。
……ああ、こいつのどこが正義のヒーローだよ。




