静かに働きたい1
今日は、駅から少し離れたバーでのバイト。
低く流れるジャズ。磨かれるグラスの音。氷が溶けるわずかな感触。
ここには、ヒーローたちが駆け回る“あっちの世界”とは違う、穏やかな時間がある。
──平和だ。
そんな時だった。
扉の開く音とともに、一瞬、外気が店内に流れ込んだ。
それに続いて、足音。リズムも重さも、どこか癖のある歩み。
「……カウンター、空いてます?」
その声は、静けさを乱すように、はっきりと届いた。
顔を上げると、金髪の男がこちらを見ていた。
襟の開いたシャツに、無造作に撫でつけた髪。見た目は軽そうだが、目が笑っていない。探るような視線。
(どこかで見たことあるような……)
既視感。でも、思い出せない。
ここは、あの物騒な現場とは違う、ただのバーだ。客を迎えるだけでいい。
「どうぞ」
必要最低限の言葉で、カウンター席を示す。
男は素直に腰を下ろし、にこりと笑った。
無邪気そうに──だが、その奥が見えない。
「へぇ、いい雰囲気だね。落ち着いててさ。あ、ジントニックで」
「かしこまりました」
慣れた手つきで氷をすくい、グラスに落とす。
液体を注ぎ、軽くマドラーで混ぜるただのルーティン。いつもの動作のはずなのに、背中にうっすらと冷たいざわめきが走る。
(厄介なことにならなきゃいいが…)
そう思わせるだけの存在感が、目の前の男にはあった。
「君、バイト? 社員?」
「バイトです」
「ふーん。ここだけ? 掛け持ちとかしてる?」
「……なんでそんなこと聞くんですか?」
「いや~、なんか…初対面な気がしないんだよね~」
グラスを拭いていた手が、ごくわずかに止まる。
「どこだったかな……俺、人の顔は結構覚えてる方なんだけど」
わざとらしく考える仕草をして、すぐに肩をすくめた。
「ま、いいか。飲んでたら思い出すかもだし」
……俺にはこんなイケメンの顔立ちの知り合いがいた覚えはないので気のせいだと思うけど。
ジントニックを差し出すと、男はふと視線を外した。
照明の陰で、その表情がわずかに見えなくなる。
「ごゆっくりどうぞ」
短くそう言って、俺は手元の作業へと視線を戻す。
バーに、再び静かな空気が流れ始める──はずだった。
カラン――
ドアベルの音とともに、聞き慣れた声が店内に響く。
「こんばんは」
(……また来やがった)
現れたのは、グリーン。正義のヒーローにして、ストーカー。
何食わぬ顔でカウンター正面の席に腰を下ろす。
俺はため息をひとつ飲み込み、無言で水を差し出した。
「トオルさん。今日もお会いできて、嬉しいです」
(……これで何日連続だっけ)
それでも、表情は変えず、いつも通り訊ねる。
「……何にします?」
グリーンは少しだけ首をかしげ、目を細める。
「では、ブラック・ルシアンをお願いできますか?」
氷を入れかけた手が、ごく僅かに止まる。
……またクセのあるものを頼みやがって。
「かしこまりました」
無表情を崩さず、ウォッカとコーヒーリキュールを静かにグラスに注ぐ。
混ざり合う黒が、どこかグリーンの心の中を覗いているように見えた。
グラスを差し出すと、彼はそれを指先でゆっくりと回しながら、俺の顔だけを見ている。
「この苦味、落ち着きますね。……トオルさんを連想させるような味で」
「……黙って飲んでろ」
「ふふ…いただきます」
一口飲んでから、意味ありげに微笑んだ。
「本当は、トオルさんにも一杯ごちそうしたいんですが、酔った姿を他人に見られるのは気に入らないので、今度二人きりの時に飲みましょうね?」
その言葉に、背筋がわずかに冷える。
──何が“正義のヒーロー”だ。
すると、さっきまで黙って酒を飲んでいた金髪の男が、口を挟んできた。
「あー……お前、なにしてんの? 綠谷」
その声に、カウンターの空気がピタリと止まった。
俺とグリーンのやりとりを、どうやら最初から見ていたのか、呆れ混じりの、けれどどこか探るような視線が、グリーンに向けられる。
「お前普段と違いすぎんだろ…。なにその態度とその距離感。どういう関係?俺がここにいるのも気付いてんのに無視してんだろ?」
グリーンはゆっくりと視線だけを横に流し、顔も声も変えずに、淡々と返した。
「うるさい、黄瀬」
その一言は、穏やかな口調のくせに、空気を鋭く冷やす。
金髪の男──“黄瀬”と呼ばれた彼は、苦い表情を浮かべる。
「いやいや、この状況を突っ込まずにいられるかっての……!」
黄瀬がジントニック片手に嘆くように言った。
俺はというと、目の前のやり取りにやや面食らいつつ、その名前に引っかかっていた。
(……綠谷。そういや、名前、初めて聞いたな)
何度も顔を合わせているはずなのに、彼が名乗った記憶はなかった。
思い返せば、俺は名前を名乗った覚えもないのに、向こうは俺の名前を知っていたけどな。
自己紹介というわけでもなく、ただ当たり前のように隣にいる存在だったから、気に留めることもなかったのだ。
それに、彼には「ヒーロー」というより、もはやストーカーって呼んだほうがしっくりくる名前もあるけど……。




