蛇の生殺しは人を咬む
とある日。レティア姫が夫ユース王子に胸を触られて突き飛ばした日から約数週間後のこと。
レティア姫はカール令嬢とアリス、オリビアの4人で巷で噂の「ふわふわパンケーキ」を食べに、お忍びで城下街のとあるカフェを訪れていた。
秋の薔薇が咲く庭が見える個室。まばらな雲しかない青空に美しい庭園を眺めながらスイーツを口にする予定。
レティア姫はアリスとオリビアを待ちながら窓の外をぼんやりと見つめ、小さなため息吐いた。
「レティア様。ここのところため息が多いですが何か困り事でも?」
ハーブティーを飲みながら、カール令嬢が尋ねる。
「えっ? ため息が多いです? それはすみません」
「謝ることではありませんよ。私には相談しにくい事です?」
「いえ、あの。大した事ではないのです。そんなにため息が増えていたなんて……。最近、ユース様はお忙しいようで、その、あまり話しをしていなくて……」
レティア姫が俯きそうになると、カール令嬢はニコリと微笑んだ。
「寂しいのですね。本人に寂しいと伝えれば解決ですよ」
この発言に、レティア姫は顔をしかめ、首を小さく横に振った。
「いえ。あの、私が照れ屋過ぎて……。傷つけたか怒らせたかもしれなくて……」
膝の上で重ねた手を握り締めると、レティア姫は苦笑いを浮かべた。
「それなのに優しく笑って、気にしていないよという態度で、距離を保ってくれているユース様に……」
レティア姫は込み上げてくる涙を堪えようと、唇をキュッと結び、目に力を入れた。
「寂しいなんて言えない? どうせユース王子ならそのお気持ちを見抜いてます。傷つけたなんて、大して気にしていませんよ。私にこの店の予約をさせ、アリスやオリビアに声を掛けるなど、少々解決法を間違えていますけど」
カール令嬢はティーカップを置き、ジャケットのポケットからハンカチを取り出すと、レティア姫へと差し出した。
「ユース様がこの店の予約を?」
レティア姫は感謝の言葉を告げてから、ハンカチを受け取った。
「もちろん、レティア様がここのところ元気がないので、私もお誘いしようとは思っていました。傷つけたか怒らせたと不安なら、何か贈って謝ってみてはどうです? 相手が気にしていないようだから戸惑って日にちが過ぎてしまったのですよね?」
「はい! そうなのです。それで皆でパンケーキを食べたら買い物に行きたいと思っています。ただ、何を買えば良いのか分からず……。物で済ませるのもどうなのかと……」
大丈夫、というように歯を見せて笑うカール令嬢に、レティア姫は小さな笑みを返した。
「クヨクヨしているよりも行動ですね」
「ええ、そうです」
「そうですお姉様! 作戦を考えましょう」
「オリビア、カール様に任せれば大丈夫だからやめようよ」
背後からアリスとオリビアの声がして、レティア姫は振り向いた。レティア姫の護衛騎士団員の1人、サー・マルクがアリスとオリビアの後ろに控えている。
「ご苦労マルク。下がって扉前で……」
「サー・マルク! そうですサー・マルク。男性として、少々意見をいただけますか?」
立ち上がったレティア姫がカール令嬢の台詞を遮る。サー・マルクはわりとつぶらな瞳をまん丸にした。
過去にレティア姫を通り魔から救出したことのある近衛騎士は、レティア姫にとても信頼されている。
本人は、主の真っ直ぐな信頼の瞳を少々苦手にしている。まるで宝石のように煌く瞳に滲む好意が「恋慕」ではないと理解していても、うっかり勘違いしそうになる上に、可憐な笑顔に惚けてしまいそうになるからだ。
日に焼けた頬は赤らんでも分かりにくい。しかし、つい泳ぐ視線は誤魔化せない。
だがレティア姫は鈍感なので、この彷徨う視線を「迷惑」だと捉えた。
「すみません突然。何のことか分かりませんよね? それに勤務中に、私的な相談など……」
「マルク、この店の店員からディナーで良く出るワイン、女性客が好むワインを聞いてこい。それから1、2時間後にレティア様がそれなりの酒屋へ買い物に行けるように手配しろ。その酒屋で人気のワインと女性にオススメのワインを聞いておけ。上官に私から命じられたと伝えてからだ」
サー・マルクは「かしこまりました」と返事をして会釈をして部屋から退室。
「カールさん?」
「相変わらず命令に慣れないようですね。それに可愛い笑顔を振り撒くとやきもち焼きの夫が拗ねますよ。2人で晩酌。酔ったふりか、本当に酔って甘えれば満点。さあさあ、早くパンケーキを選びましょう! 私は我慢の限界です!」
カール令嬢はアリスとオリビアを手招きして、テーブル上に置いてある2つのメニュー表を手に取った。そのうち片方のメニュー表を開いてレティア姫へと差し出す。
「ユース様は嫉妬で拗ねたりなんてしません。可愛い笑顔とはありがとうございます」
メニュー表を受け取ると、レティア姫は着席した。レティア姫の左右の席にアリスとオリビアも座る。
「お世辞ではないですよ。恩人のサー・マルクが大好きだと顔に描いてあります。みっともなく鼻の下を伸ばして惚けていたので、後で根性を叩き直しておきます」
「まあ、そのような言い掛かり……」
「カール様、ユース様は嫉妬深いのですか?」
「拗ねるって、あのユース様がですか?」
アリスとオリビアが興味津々という表情でカール令嬢へ上半身を近づける。
「男は見栄を張る生き物。よってレティア様は知らない姿だ。可愛がられている小娘達も知るべきではない。そんなことよりパンケーキだ。成長期なので3種類選べ。私のと合わせて3人で4種類をシェアだ」
カール令嬢が早く選べとメニュー表をアリスとオリビアへ見せる。
(なんだかカールさんの方がユース様を分かってそう……)
「レティア様、私が見られる世界と貴女様が見られる世界が違うだけです。買うワインは貴女様が選んでこそ価値が生まれるというだけです。他の物でも良いのです。ただ、酔ったら甘え下手なレティア様も甘え易くなると思いました」
「私が選ぶと?」
甘え下手という自覚はあるので、レティア姫はそのことについては何も口にしなかった。
「そりゃあそうですよ。私だってレティア様に贈られたワインと、父上から贈られるワインでは嬉しさが違います」
サラッと告げると、カール令嬢はアリスとオリビアに「どのパンケーキにする」と選択を急かし始め、更にはレティア姫にも早く注文したいと言い出した。
☆★ その日の夜 ☆★
レティア姫は昼間購入したワインボトルの入った袋を背中側に持ち、夫ユース宰相の背後をなるべく足音を立てないようにちょろちょろしている。
(ユース様は今夜も忙しそう。晩酌しましょうって雰囲気ではないけれど、せっかく買ったし……。最近ずっとろくに話もしていないし……)
対するユース宰相は妻の気配に気がついていないフリをして、書類修正に勤しんでいる。
(レティア、19日目にしてついに我慢出来なくなったか。私はとっくに限界なのに、遅かったな)
うーむ、と仕事で悩んでいる風の声を出すと、ユース宰相は頬杖をついた。
右手で持っている万年筆の先をインクの容器の縁に軽く当てる。
レティア姫がそろそろとユース宰相へ近寄る。しかし後一歩というところで遠ざかった。
(お仕事の邪魔は良くないわ。終わるまで待っていよう)
レティア姫はソファへ移動して腰掛けた。手に持っていた紙袋を隣に置いて俯く。
(待つよりも私も働くべきね。カールさんの言う通りユース様は気にしていないわ。心が広くて察し上手だもの。自分が寂しいからって仕事の邪魔は良くない。寂しいのは暇だからよ。暇なのはやるべき事を蔑ろにしている証拠ね)
よしっ! とレティア姫は立ち上がった。
「ユース様、先日はすみませんでした。その、あの、突き飛ばしたりなんかして。お詫びと思って用意したので、良かったらこちらを受け取って欲しいです」
ユース宰相は、ん? と小首を傾げながらレティア姫の方へ体を向けた。続けて彼女がテーブルに置いたワインボトルに視線を移動。
「黄昏国の収穫祭で披露する演奏と歌の練習をしてきます。毎晩大変そうですが、たまには息抜きをしたりご自愛下さい」
会釈をすると、レティア姫は部屋の隅に置いてあるベビーハープのケースを手に取って、脱兎の如く部屋から逃亡。
(あれっ? なぜ逃げる?)
今夜こそ「レティア、寂しいの」と妻に甘えられると期待したユース宰相はガックリと肩を落とした。
立ち上がり、テーブルへと近寄りレティア姫が置いていったワインボトルを手に取る。
(ご機嫌取りにワインとはカールの入れ知恵だよな? 酔って甘えてみればとかそんな事を言っただろうに、なぜ逃げた)
ユース宰相は髪を掻き、小さなため息を吐いた。




