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それでも、前に進んでしまった

喜伊さんが出て行ってから、数時間は経った。

『そう言えば、帰る時間とか言わなかったな』

自室のベッドの上で白いカードを指でなぞりながら、朝の喜伊さんの言葉を思い返す。

いつもなら、何時ごろに帰るか、せめて目安を教えてくれるのに。

時計を見ると、もう夕方を過ぎ、夜に差し掛かろうとしていた。


遅くなる場合は、夕ご飯の支度を済ませることもあった。

今日は、それもない。

昼食さえ用意せず、慌ただしく出て行った。

本当に珍しい。


まだ、連絡はない。


お腹が空いたな。


材料は冷蔵庫にある。

少しだけど、インスタントの食品もある。


───でも、それを作るのが、どうしようもなく億劫だった。


昼よりも、夜よりも。

今がいちばん、ひとりだと感じた。


思えば、昨日からずっと家に閉じこもっている。

「よし」

気分転換に、近くのコンビニにでも行こう。

徒歩で数分。

そのくらいなら、いいだろう。


『必ず私に連絡をくださいね』


喜伊さんの言葉が、頭に浮かぶ。

けれど私は、それを振り払うように家を出た。


反抗じゃない。

ただ、少し離れたかった。

───喜伊さんの思いからさえも。




外に出ると、日が陰り、空気が少し冷たく感じる。

ほんの数分の外出のはずなのに、なぜか落ち着かない。

まるで、初めて通る道を歩いているみたいだった。


胸の奥が、ざわざわする。


私は本当に、お腹が空いたから外に出たのだろうか。


───なんで?


まとまらない私の思考とは裏腹に、周囲はいつも通りの日常を過ごしている。


学生達の談笑。

慌ただしく通り過ぎる車の音。

母親と手をつなぎ、幸せそうに笑う子供。


───喜伊さん。


優しい笑顔が、脳裏に浮かぶ。

なぜだか、急に泣き出してしまいそうになった。


喜伊さんは、私を守ってくれている。

あの嘘も、きっと私のため。


それなのに私は───。


今度は私が、約束を破っている。

どうして、何も言わずに外に出てしまったのだろう。

答えの出ない自己問答。


「よう」

その声に気付くまで、少し時間がかかった。

振り向くと、少女が立っていた。

白いブラウスに、赤いプリーツスカート。

特徴的な赤いキャップを、目深に被っている。

どこか絵本めいた姿に見えたのに、ふと視線が落ちて、その印象は揺らいだ。

スカートの下、足首まで覆う革のブーツ。

可愛らしさよりも、歩くことに慣れた靴だった。


「あそぶには、良い時間だ」

見えるのは、歪んだ笑みを浮かべた口元だけ。


夕方よりは遅く、夜には早い。

それでも、子供が出歩くには、やはり不自然な時間だった。


「どう、したの?」


目線を合わせようとして、少しかがむ。


───でも、目が合わない。


そこに目があるはずなのに、覗き込む先は、底の見えない闇みたいだった。

本能が警鐘を鳴らす。


「……拍子抜けしたぜ。あのアバズレが、なんでこんなガキをなぁ」

言葉は通じている、はずだ。

なのに、意味が噛み合わない。


「まぁ、お前がいなくなれば、ちょっとはアバズレも変わるか」

にい、と口元が歪む。


その瞬間、気づいた。

少女の両腰に下げられた、禍々しいもの。

赤黒く光る、凶器。

少女はそれに、慣れた手つきで触れる。

何を言われているのか、言葉の意味は分かる。

けれど、どこにも届かない。


理解の外で勝手に話が進んでいく。

何かを選ばされている気がするのに、その選択肢さえ、私には見えなかった。


───これが、嘘の代償なのだろうか。


私は声を出せず、体も動かせず、ただ少女を見つめていた。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

この章から徐々に灯が当事者として参加していきます。

その感情の揺れや成長を、ゆっくりですが、丁寧に書いていきます。

読んだ方の心に少しでも何か残れば幸いです。

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