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慈愛のない世界

扉が開く音。

少し困惑したような表情の喜伊さんが現れた。

私と目が合い、何度か逡巡する。


「……すいません、お嬢様。少し出掛けて参ります」

申し訳なさそうに。


「うん、わかった」

その言葉に少しだけ安心する。

喜伊さんと距離が置けることに、安心してしまう。


───その安心を覚えてしまう自分が、ひどく卑怯に思えた。


「外に出られるときは、必ず私に連絡をくださいね。……きっとですよ」

念を押すように言う。

いつもはそんなこと言わないのに。

そう言わせてしまっている。


頷く私を心配そうに何度も振り返りながら、喜伊さんは出て行った。

何かを言いかけて、やめる。

そんなことを、何度も繰り返しながら。




連日こんな所に来るなんて、いつぶりだろうか。

昨日も通った廊下を進みながら、思い返す。

廊下の一番奥にある扉を開いた。


昨日会った眼鏡の男───事務スタッフのトップが、事務机に備えられた椅子に座って、待ち構えていた


「どういうことですか?」

単刀直入な問いにも、男は動じない。

「電話で話した通りですよ」

男の目の前に近づき、掴みかからんばかりに顔を寄せる。

「お前は……お前達は、私を怒らせたいのか」

怒りに、どす黒い感情が溢れ出す。

その私の行動に、男はわずかに眉を顰めた。

「昨日も思いましたが、本当に珍しいですね。あなたが感情を露わにするのは」


───そう、苛立っている。

昨日からずっと。

これは八つ当たりだ。


「誤解があるようですが、我々は止めました。しかし、”あれ”は簡単に止まるモノではないでしょう?」

赤いキャップをかぶった存在。

「何より、そんなに簡単に止まってしまっても困ります。多少制御がきかない。それが、ちょうどいい」


なにがちょうどいいものか!

掴みかかろうとする衝動を、必死に抑える。


「だからといって……!」

「そんなにも、あなたが恐れる事があるのですか? あなたの傍に」

じっと、見透かすように私の目を見つめる。


守るべき少女の顔が思い浮かぶ。

弱みを見せないよう、その目を睨み返した。


「言ったでしょう。我々の慈愛は、多くないと」

男は立ち上がり、背を向けながら話す。

「別に我々は、このままでいいんですよ」

男は、私のすぐそばに来た。

「このまま、あなたと”あれ”が争っても。それを待ち望んでいる方々は多い」

その言葉に、思わず気圧される。

「多少、後処理は大変ですがね」

言葉とは裏腹に、顔は楽しそうに歪んでいた。


「ちょうど来てくれたことです。こちらも聞きたいことがたくさんあるんですよ。なに、時間はたっぷりとあるでしょう?」

男は再び、椅子へと深く腰掛けた。

スマートフォンに手が伸びる。

だが、それは触れるだけにとどまった。

何をどこまで知られているのか。

"あれ"はどこまで知ってしまったのか。

それが分かるまで、迂闊に動くことができなかった。




もうすでに何時間経っただろうか。

聞きたいことと言いながら、差し障りのない話を続けていた。

聞き出したい情報も大して得られないまま。

無為な時間に、焦りだけが募っていく。

そんな私を嘲笑うかのように、男はのらりくらりと話を続ける。


「そうそう、一つ新しい情報を」

思い出したかのように男は手を叩く。

「朝には”あれ”は飛び出していますよ。ちょうど電話を終えたあたりですね」

反射的に男の顔を見る。

まるで、いたずらの種明かしをする子供のような表情。


───灯お嬢様!


私は何も答えず、部屋を飛び出した。

そんな背中に、男のくすくすとした笑い声が追いかけてきた。


連絡を取ろうと、何度もスマートフォンを操作する。

だが、返ってくるのは無機質な音だけだった。


───私は、また間に合わないのか。


少しでも立ち止まれば、また間に合わなくなる気がして、私は走った。

ただ、灯お嬢様のもとへ向かって。


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