拾遺 アンナの頼もしい番犬 1
ある朝、目覚めると、夫が犬になっていた。
「って、なんでやねん!」
思わず関西弁でツッコミを入れてしまったアンナである。
これはアンナがエヴァンと結婚して半年ほど過ぎた、緑が眩しい季節の出来事。
アンナの声に隣で寝ていた犬が目を覚まし、わーふと大きなあくびをし、それから起き上がってアンナにすり寄ろうとして、ふと固まる。
じっと自分の前脚を見たあと、自分の体を見下ろし、体をひねってぱたぱたと揺れる尻尾を確認後、信じられない、という顔つきでアンナに視線を戻す。
それからとても悲しそうな声で鳴いた。
犬は、凛々しい顔つきの、銀色の目に銀色の毛並みの、オオカミによく似た犬種だったが、意外に甲高い声だった。
その声に犬自身も驚いたようで再び目を見開いた。
すごく、ものすごく、ショックを受けているのがわかる。
あと、しぐさが人間ぽい。
それに、掛布団の下にまるっとエヴァンが身に着けていた衣類が残されていた。
その上にいる犬。
しかも銀色の毛並み。
「え……エヴァン、よね……?」
わおーん。犬が鳴く。
「ほ、本当に? エヴァン? どうして?」
エヴァンがぶんぶんと頭を振る。
言葉は通じている。
「どうしよう、大変だわ」
どう考えても何か悪い魔法にかかったとしか思えない。
結婚してからこっち、エヴァンは勝手に仕事を辞めてしまったが、英雄と呼ばれた魔術師団長がなんの引継ぎも後片付けもなしに辞められるわけもなく、しょっちゅう王都に呼び戻されては残務整理に当たっている。
本人はそう言い張っているが、実際は部下たちでは手に負えない案件をやらされているのだろう。この国で一番強い魔力の持ち主はエヴァンだ。
――と、いうことは、これは何かの呪い……?
おろおろするエヴァン犬に「こっちにおいで」と手を差し伸べれば、おとなしくエヴァン犬はベッドの上で座っているアンナの膝上にぽすんと頭を置いて、すんすんと悲しそうな鼻息を漏らす。アンナはそんなエヴァン犬の頭から背中にかけてのなめらかな毛を撫でた。ふわっと香る甘いにおいはエヴァンが好んでつけている香油のものだ。……もともとはメーアが髪の毛をまとめる際につけていた香油なんだよね、という前世の記憶は置いといて。
ああ、この犬は間違いなくアンナの愛する夫の現在の姿である。
――私に魔力があれば、どんな呪いにかかったかわかったかもしれないのに。
残念ながらアンナには魔力がない。メーアの記憶があるから魔力に憧れを抱いたことはないが、今は魔力があればと思ってしまった。
「困ったわね、エヴァン……ねえ、どこ触ってるの……」
すんすん泣きながらエヴァン犬が大きな頭を、アンナのネグリジェごしの胸にこすりつけてくる。ネグリジェの下はシュミーズ一枚だ。
鼻先を乳首にこすりつけ始めたのでこの男、犬になっても懲りないな、とアンナはエヴァン犬を引きはがしてベッドから降りる。
とりあえずラルスに連絡をとってみよう。
ラルス。王都で雑貨店を営んでいる、メーアの元部下の名だ。
王都を離れる際に店を見つけたついでに、一度だけ立ち寄ったことがある。片脚が義足になっていたから、それで除隊になったのだろう。
除隊になったところで魔法が使えなくなるわけではない。
魔術師であることを生かして転職していないから、雑貨店の傍ら、情報屋のようなことをしているのは間違いないだろう。もともとラルスは戦場の魔術師としては珍しく、大学を卒業している博識な人物だった。戦場の魔術師たちからも頼られていた。
ラルスなら何か知っているかもしれない。
というより、アンナにはラルス以外、頼れる存在がなかった。
着替えたあと、エヴァン犬には人間の意識があるので、犬のエサを用意したら怒るだろうとアンナはいつも通りの食事を用意し、いつも通りエヴァンの席に置いた。
思った通り、エヴァン犬は自席に座ったものの……
まあ、食べられないわけである。
何度か試した結果、うまく食べられず悲しそうな声をあげたので、アンナはパンをこまかくちぎってエヴァン犬の口に押し込み、ハムを切って食べさせ、スープの具をひとつずつ口の中に入れてやった。
あむあむとおいしそうに食べるエヴァン犬を見ていると、そういうところはやっぱりエヴァンだなと思う。
エヴァンはアンナの作る料理をおいしいおいしいと言って食べてくれた。
アンナは料理が作れなかった。下働き経験が豊富なアンナだが、厨房の手伝いはやったことがなかったからだ。だから結婚してしばらくの間、ソフィアの実家に料理を習いに行った。豪農の家らしく、料理人がいるのである。
そのおかげで多少は料理ができるようになったものの、当然、料理人のようにはいかない。経験値が違うのでしかたがない。
それでもエヴァンは喜んで食べてくれたし、片付けも手伝ってくれた。
「犬だとお手伝いはできないわよね」
空っぽになったお皿をどけてスープをエヴァンの前に置く。
エヴァンは、スープは自分で飲んだ。というか、こればかりはスプーンでうまく飲ませてやれなかったのだ。
犬の舌使いに慣れていないエヴァン犬がびちゃびちゃスープをこぼすのは、もうしかたがない。半分はテーブルに飲ませたな、という感じで朝ごはんを終え、犬の口まわりを拭き、テーブルを拭く。
おなかが膨れたからか、犬はご機嫌そうにアンナの脚にすり寄ってくる。
「ねえ、エヴァン」
お皿を片付けながら、アンナはエヴァン犬に声をかけた。
「どうして犬になっちゃったの。自分ではどうにもできないの?」
犬がアンナを見上げる。銀色の瞳が悲しそうに揺れる。
アンナは皿をシンクに置くとしゃがみ込んで、犬を抱きしめた。
「ずっとこのままなのかな」
やわらかな毛並みはエヴァンの髪の毛そのものの手触りだ。かすかに甘い匂いもそう。
メーアが死んだあとも律儀にメーアのにおいをまとい、メーアを探し続けていたエヴァンに思いを馳せる。
貞操を守る一方でエロ本を大量読破していたことに関しては、なんとコメントしていいのかちょっとわからないが、エヴァンがこのまま犬でいるのはつらい。
「大丈夫よ、エヴァン。必ず私が人間に戻してあげるから!」
犬の顔を覗き込んでそう決意表明すると、犬がわふっと鳴いて尻尾を振った。
しばらく犬の顔をもちもちしたあと、立ち上がり、キッチンで立ったまま自分のぶんを口に押し込んでスープで流し込んでから、エヴァン犬を連れて駅に向かった。
電報は駅の電報窓口から送るのである。
いつぞやラルスの店から豪華なタンスを送られてきたことがあった。その送り状をきちんととっておいてよかった。ラルスの店の住所がわかる。
「あら、アンナちゃん! 今日は犬を連れているのね?」
「やあ、アンナ! 犬なんて飼っていたかい?」
「きれいな犬ね、アンナ。あなたの家に犬なんていたかしら?」
村の農道を歩いていると、畑仕事をしているご近所さんたちから次々と声をかけられる。
ええ、そうなんです。夫が預かってきまして。少しの間うちで面倒を見ることになりました。
アンナは適当なことを言いながら道を急いだ。
その間、エヴァン犬はご機嫌でアンナの傍らをついてくる。時々駆け出しては振り返り待ってくれもする。
本人の機嫌がよさそうなことは救いだ。
電報室からラルスに電報を打ち、アンナは元来た道をたどった。エヴァン犬は傍らを歩いていたかと思うと少し先に進んではアンナが追いつくのを待つ、を繰り返す。
わっふわっふと尻尾を振りながら歩くエヴァン犬の後ろ姿を見ていたら、ちょっとだけ泣けてきた。
***
「確かに何かの呪いっぽいけど、解き方までは……うーん、わからん!」
電報を打ったその日の夕方にラルスはアンナたちの家にやってきた。
エヴァンが呪いにかかった、至急来てほしい、という内容だったので本当にすっ飛んできてくれたらしい。魔術師用の転移ゲートを使ったからこそできた芸当である。
エヴァン犬を見るなり、ラルスは目を剥き、次に大爆笑し、「間違いなくエヴァンだ!」と太鼓判を押してくれたものの、なぜ犬になったかはわからないようだった。
「そうですか。困りましたね」
「本人はあまり困っていないようだけど」
居間にてうなだれるアンナの背後で、エヴァン犬は楽しそうにソファからソファへジャンプするという遊びを楽しんでいる。お気に入りのソファが破れたらどうするの、とは思うものの、楽しそうにしているエヴァン犬を見ると叱ることもできず。
「呪いの効き目は半永久的だから、なんとかして解かないとエヴァンは犬のままですよね。ラルスさん、呪いについて詳しい方をご存じですか?」
「どうだろうねえ。我が国の魔法は物理的な力に変換してぶっ放すことに特化していて、呪いの類にはからきし弱いんだ。魔法研究所の連中ですら頼りにならないと思う。何しろほかの研究には予算がつかないから。呪いに一番詳しいのは、それこそエヴァンだと思うけどねえ。あいつは隊長……、昔の上司の集めた本をそっくりもらい受けていたから」
ラルスの言葉に、アンナはしみじみと今度はクッションに噛みついてじゃれているエヴァンを見やった。
昔の上司なんて事情を知らないアンナにもわかりやすく説明してくれたけれど、要するにメーアだ。
メーアの本好きは有名で、ラルスにも「本の虫」とからかわれたことが何度もある。
学がないことに劣等感を抱いていたメーアは、とにかくたくさんの本を読んだ。
エヴァンにも本を読むように指示した。
確かにエヴァンは王都の屋敷に連れ帰るたびに書斎にこもっていたっけ。
――だからエヴァンが魔術に一番詳しい人、なのね……。
ほんの一瞬、過ぎた日々に意識をもっていかれたタイミングで、ビリッといい音がした。はっと我に返ったアンナの目の前でクッションが裂け、中の綿が舞い散る。
ソフィアから結婚祝いでもらったクッションが……。
「エーヴァーンー!」
アンナは立ち上がってエヴァン犬を睨んだ。
アンナの大声に驚いてエヴァン犬が動きを止める。
「私の確認に反応しているのだから、おまえにはまだ人間の意識が残っているはずだよな? エヴァン? そのクッションは私のお気に入りだと知っているだろう? なぜ破いた!」
低くドスの利いた声で怒った途端、エヴァン犬の耳と尻尾が下がる。
「待て、エヴァン!」
そう叫んだ時には時すでに遅し。エヴァンは開いていた窓からポーンと外に飛び出し、風の速さで遠くへ駆けていった。
「……逃げたな、エヴァン」
ややあって、ラルスが言う。
「ほかに行くあてがないのだから、帰ってきますよ。そんなことより、もうすぐ日が暮れます。今から王都に戻っていたら日付が変わるでしょう。今夜は泊まっていってください。すぐに客間を用意しますから」
アンナがラルスに振り向くと、ラルスは困ったように微笑んだ。
「いいのかい、奥さん? 知らない男と二人きりだよ?」
「あなたは、そんなことはしない」
アンナはにっこりと微笑んだ。
「どうしてそう言い切れる?」
「それは、私はあなたのことをよく知っているからよ」
アンナの言葉に、ラルスはぽかんとなり、しばらくしてから声をあげて笑った。
「エヴァンがいろいろしゃべったんだな! そうそう、オレは女子どもには弱いんだ。それで片脚を失った。後悔はしていない。確かに今から帰ると真夜中になっちまうし、この脚で長く歩くのは無理だし、今夜はお言葉に甘えて泊まらせてもらうよ」
「ええ、ぜひそうして」
「それに、あいつがあんな姿になっちまった以上、この家の留守番は必要だろう。エヴァンには敵が多いからね。あいつはなんといっても『英雄』だから」
「今でも?」
「これからもずっと。あいつの師匠が今でも死神と呼ばれているのと同じさ」
「……そう」
しみじみと呟くラルスに、アンナはようやくの思いで声を絞り出した。
「今でもその名前で呼ばれているのね」




