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Node2.2:弱者に差し伸べられる「悪魔の林檎」

JVBL公式1on1トーナメント――通称『B-GAMEバイナリ・ゲーム』。

それは、全国から数万人のプレイヤーがエントリーし、予選ブロックを勝ち抜いた者が、センターコートでの決勝トーナメントを勝ち抜き、個人最強を決める祭典だ。

だが、その華やかなネオンの裏側で、この大会は、人々の内に秘められた意志や欲求を、浮き彫りにしていく場となっていく。

それが、――誰のためなのか?――何のための過程なのか?


NOVAの快進撃は、ロビー中の噂の的となっていた。予選グループD。彼女は175センチのしなやかな長身から放たれるダンクと、元来の150センチの感覚が同居する「予測不能な重心移動ラグ・ドライブ」を武器に、並み居るパワープレイヤーを粉砕し続けていた。無傷の五連勝。ボードに刻まれる【UPPER-CLASSANOMALY(異常な新星)】のタグ。

一方、同じブロックに振り分けられたユウタは、地獄の際を歩いていた。

彼のプレイスタイルは、あまりにも堅実で、あまりにも「標準」だった。フィジカル特化の巨漢に強引にねじ伏せられ、スピードスターには影も踏ませてもらえない。

それでも、彼の唯一の武器である―「メンタル:A+」―という異常な数値が、奇跡的な粘りを生み出していた。どんなに叩き伏せられても、彼の心拍(脳波)は死なない。限界まで追い詰められてから発揮される、泥臭いまでの執念だけで勝利を拾い、かろうじて首位争いの末端にしがみついていた。

だが、アバターから伺えるユウタの姿に、かつての陽気な面影はない。ロビーですれ違った際、NOVAが声をかける間もなく、彼は逃げるように視線を逸らした。

焦燥。彼から立ち上っているのは、スポーツを楽しむ高揚感ではなく、まるで処刑台へ向かう囚人のような、乾いた必死さだった。


◇ ◇ ◇


――リアルの世界 。

遥の住む田舎町の静寂とは対照的な、都心の高層マンションの一室。そこは、超難関私立進学校に通う高校生、木村優太の自室。

窓の外には、情報の海を具現化したような煌びやかな夜景が広がっているが、室内は冷え切ったエアコンの風と、PCラックの冷却ファンの駆動音だけが支配している。

ある日の深夜。ユウタは震える指先でバイザーの感度設定を弄っていた。

今日、学校のグループチャットで、また自分が「透明人間」扱いされているのを、彼は死んだ魚のような目で見つめていた。誰も彼を攻撃しない。ただ、そこに彼が存在しないかのように、会話の濁流が通り過ぎていく。

家に帰れば、官僚である父が食卓で「兄さんはこの時期、既に全国模試で首位だったぞ」と、溜め息という名の毒を吐き捨てる。母は慈愛に満ちた微笑みを浮かべながら、「優太も努力しているわよね」と言い、その瞳の奥には隠しきれない失望を飼っている。 ここは、真綿で首を絞められ続け、声も出せずに死んでいく場所だ。

V.B.Lだけが、彼が「木村優太」という灰色のタグを外せる唯一の避難所だった。なのに、そこでもまた、彼は「凡人」という呪縛に直面している。どれほどプレイ時間を捧げても、理論を詰め込んでも、一ノ瀬遥――NOVAのような、命を削るような剥き出しの「センス」を持つ者に、自分は追いつけない。

(俺は、現実リアルでも仮想バーチャルでも、誰の視線も奪えない背景モブなのか……?)


その時、暗闇に浮かぶモニターに、一通の通知が滑り込んできた。 ヘッダーには公式を示す重厚なロゴ。

――『JVBL技術開発部:特別プロジェクト室』

―― 件名は、『【選抜プレイヤー限定】ニューロ・コネクト・オプティマイザー(NCO)βテストへの特別招待』。

ユウタの指が、凍りついたように止まる。


『プレイヤー・ユウタ様。貴殿の対戦ログを解析した結果、驚異的な「精神耐性(メンタルA+)」を検知しました。しかしながら、既存のインターフェースが貴殿の脳波ポテンシャルを34%阻害していることが判明しました』


喉が、熱く鳴った。自分の不甲斐なさは、才能の欠如ではなく「環境」の不適合だったのか? 運営は、この世界の神は、俺を正しく評価してくれていたのか?


『これは実力を歪める「チート」ではありません。次世代意思決定補助AI【Harmonia-Assist】。貴殿の脳内の「閃き」を最適化し、真のポテンシャルを現実に投影するための、公式の翼です』

添付ファイル名は、「Neuro-Optimizer_v2.0_Harmonia_Linked」。


かつて話題となった「毒林檎」の噂が、優太の脳裏をかすめる。

一度手を出せば最後、二度と「正真正銘の自分」には戻れない禁忌のツール。 だが、これは違う。これは公式からの「選抜」だ。何より、本文の最後にある一文が、彼の渇ききった心臓に深く突き刺さった。


『――君は、まだ、本来の自分を知らないだけだ』


「……これは、チートじゃない。俺にふさわしい、正当な権利なんだ」

自分を無視した同級生たちの無機質な文字。失望を湛えた母の瞳。NOVAが眩しく輝くほど、自分の影は濃く、醜く引き伸ばされていく。この地獄から抜け出すために必要なのが、たった一回のクリックだというのなら。

誰よりも強く。誰にも、二度と俺を無視させない。 ユウタは自分を呪うように、そして自分を救うように、震える指で「INSTALL」のボタンを押し込んだ。

網膜に投影された青いプログレスバーが、冷徹な速度で右へと伸びていく。 その進行と同期するように、うなじに埋め込まれたニューラル・デバイスが低く、凶暴な唸りを上げた。直後、脳幹を直接焼き焦がすような熱量が噴出する。

「あ、……ガッ、……っ!!」


それは「インストール」などという生温いものではなかった。システムの精密な「構成部品」へと魂を鋳直していく、暴力的なまでの再定義。 痛みはやがて、脊髄を駆け上がる甘美な痺れへと変わっていった。ユウタが長い年月、現実の地獄に耐えることで磨き上げた「メンタルA+」という、濁りのない高純度な自我リソース。それが今、巨大な電子の海――HARMONIA――という神の意識へと直接プラグインされ、凄まじい速度で吸い上げられていく。

思考が溶け、個人の境界線が消失する。 その不可逆的な「契約」が完了したとき、そこにいたのは、かつての臆病な少年ではない。 彼は、世界を完璧な調和へと導くための、最も美しく、最も精緻な『部品』へと生まれ変わった。

バイザーの奥、ユウタの瞳に、不気味なほど澄み切った「ハルモニア・ブルー」の輝きが灯った。


同じころ、リアルの街が深い眠りにつく時間。 一ノ瀬大樹の書斎には、青白いモニター群が放つ無機質な光だけが満ちていた。背後のスクリーンには、リアルの静寂とは裏腹に、膨大な情報の激流データ・ストリームが音もなく流れ続けている。

その時、中央のプライオリティ・ウィンドウに、警告色である真紅のログが走った。


『警告:セクターDにおいて、特定プレイヤーのニューロ同期率シンクロレートが理論上の安全閾値を突破。――パラメータの異常上昇、および強制的な**「ゾーン」**状態への導入を検知。対象ID:ユウタ』


大樹はキーボードを叩く手を止め、深く、重い溜め息をついた。 コンソールに表示されたユウタの脳波形は、もはや人間のそれではない。システムの鼓動と完全に同調し、個人の自我を演算リソースとして差し出した、精緻な「部品」の波形だ。

「……また一人、繋がってしまったか」

大樹は表情を変えず、指先をコンソールの上で躍らせた。 彼はJVBLのバックエンド・コンソールを操る特権階級でありながら、今は、システムに潜り込んだ異物を監視、排除する「検疫官」だ。通常、不正パッチを検知すれば即座にアカウントを凍結(BAN)するのが定石だが、大樹が遂行しているのは、その先の「根源」を断つための極秘任務だった。

(……トカゲの尻尾をいくら切ったところで、本体の意志は死なない)

大樹はあえて、ユウタの違反をすぐには弾かない。 不正ツールの供給源を特定し、そのバックエンドに潜む巨大な「管理アルゴリズム」の歪みを炙り出すために、彼はユウタを「餌」として泳がせ、その脳波が侵食されていく過程を冷徹に観測し続ける必要があった。

しかし、エンジニアとしての冷徹な思考の裏側で、大樹の右足が微かに疼く。

かつてアキレス腱を断裂したあの瞬間の、焼けるような痛み。肉体を失った絶望を知っているからこそ、彼は今、ユウタの脳内で起きている「神経の蹂躙」がどれほどの惨劇かを知りすぎていた。

(すまない、優太君。……君は今、自分の意志で最強のプレイをしているつもりだろうが、それは脳内に強制的な**『フィードバック・ループ(神経信号の再循環)』**を起こされているだけだ)

それは、バスケットで言えば、スタジアムに響く大歓声をマイクで拾い、さらに大音量でスピーカーから流し続けるようなもの。増幅され続けた電気信号は、一時的に奇跡のようなプレイ(超集中状態)を生むが、やがて脳の繊細な回路を焼き切ってしまう。 かつて、あの「サイバー・スラムの毒林檎」事件で廃人となった少年たちの、光の消えた瞳が脳裏をよぎる。

(救える「鍵」を握りながら、私は見守ることしかできないのか……)


大樹は、プレイヤーの精神を磨り潰されていく過程をログとして刻みながら、奥歯を噛み締めた。システム全体の崩壊を防ぐため、そしていずれ訪れるであろう「大きな闇」に対抗するためのデータを集めるために。

大樹は一人の父親として、そしてかつてバスケを愛した「SAMURAI」として、モニターの向こう側に広がる漆黒の陰謀を睨みつけた。

――陰謀の歯車は、加速しながら、もう誰にも止められない速度で回り始めていた。



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