Node1.4:境界線の観測者
放課後の体育館は、湿った熱気と安っぽい制汗スプレーの人工的な香料、そしてバッシュが床を激しく擦る「キュッ」という高周波のスキール音で満たされていた。
男子バスケットボール部の練習中。コートの中では、選ばれたレギュラーメンバーたちが、激しい紅白戦を繰り広げている。
三井翔太は、ベンチの最端、日光の届かない影の中に座り、膝の上に乗せたタブレット端末に視線を落としていた。ユニフォームは着ているが、その上にチームの識別用ビブスはない。今日も、そしておそらく明日も、彼の定位置はここ――「観客席に最も近いコート内」だ。
(……三秒後、右のコーナーが完全に死ぬ)
翔太の視界には、リアルの風景に重なるように「演算結果」が投影されていた。
ポイントガードがボールを保持し、一歩踏み出した瞬間、相手ディフェンスの重心がわずかに左親指へ寄ったのを、彼の目は見逃さない。
今、バックスピンをかけたバウンドパスを、ガードの右膝横を通せば、逆サイドの味方にフリーで渡る。翔太の脳内では、その完璧な「パス・ベクトル」が白い光の線となって鮮明に描かれていた。
だが、リアルは残酷だ。ガードは周囲の状況を無視して強引なドライブで突っ込み、待ち構えていた相手センターの分厚い壁に阻まれてボールをこぼした。
「おい!もっと周りを見ろと言ったはずだ!」
顧問の罵声が響く。
(……見えてないんだ。脳の演算機能が、身体の躍動に追いついていない)
翔太は小さく溜め息をつき、タブレットに「ターンオーバー:判断ミス」という冷静な記録を入力した。
翔太には、呪いのような特異体質が備わっている。人の視線の微かな揺らぎ、筋肉の収縮、呼吸の深浅。それらの断片的な情報を無意識に集積し、数秒先の未来を「正確」にアウトプットしてしまうのだ。それはSF作品にでてくる超能力といった類ではない。
……幼い頃から、周囲の顔色を窺い、空気の微かな変化に怯えて生きてきた彼が、生き延びるために身につけてしまった、あまりにも高度で悲しい「最適解の観察眼」だった。
翔太の家庭は、周りでも珍しいほどの『放任主義』だった。
「翔太の好きなようにしなさい」――両親はいつもそう言って彼を自由の海へ放り出した。だが、それは決して慈愛に満ちた自由などではなかった。
そして選択を誤ったり、期待から外れていたとしても両親は、彼を叱ることはない。しかし、この世の終わりかの様に、深く、静かに落胆してみせるのだ。
「……ああ、そう。残念ね」
母親の、あの凍りつくような溜息。父親の、失望を隠しきれない痛々しい眼差し。激しい怒声で打ちのめされた方が、どれだけ楽だっただろう。
(それなら最初から、答えを教えてくれればいいのに。「こっちに行け」と、レールを敷いてくれればいいのに)
凍てつく沈黙の重圧に押し潰されそうになりながら、彼は心の中で幾度も悲鳴を上げていた。
『失望』という名の、形のない罰。それから逃れるために、彼は自分の意志を捨てた。代わりに、周りが自分に何を求めているのかという「最適解」を、他人の表情の隙間から、空気の震えから、必死に読み取るようになったのだ。
――自ら選び、自ら決めることができる。確かにそれは自由だ。だが……見せかけだけの自由ならいらない。
しかし、彼が唯一選択したバスケにおいては、その「最適解」を実行できる身体能力が、決定的に欠けていた。……
どれほど完璧なパスコースが見えていても、そこにボールを正確に叩き込む腕力も、敵の包囲網を突破する爆発的な初速もない。「脳という超高性能なCPU」を、「旧世代の貧弱な筐体」に押し込めたバグ。それが、三井翔太という選手の限界だった。
「翔太、ビデオの録画アングル、もうちょい広角にしとけ。後で分析にかけるからな」
「あ、はい。了解です。最適化しておきまぁ―す」
チームメイトの指示に、翔太は愛想笑いを浮かべて従順に従った。三脚の位置をミリ単位で微調整する。誰も、翔太を「プレイヤー」としてカウントしてはいない。
便利な記録係。高性能な分析AIの補助パーツ。景色の一部。自分は影だ。光の当たる場所で踊る誰かを、解析という名の檻の中から眺めているだけの、永遠の観測者。
(……俺は、見るのが好きなんだ。)
心の中で、使い古した予防線を張る。主役になれない惨めさを「観察者としての優越感」という名の薄い鎧で隠し、「俺は誰よりもこのゲームを理解している」と斜に構える。そうやって自分の存在を論理的に納得させ、お道化ていないと、このコートの熱気に焼かれて消えてしまいそうになるからだ。
ふと、視線を隣のコートへ向けた。女子バスケットボール部の練習エリア。そこには、異様な熱量を放つ「ノイズ」がいた。一ノ瀬遥。150センチという、この競技においては致命的なハンデを背負った少女が、自分より頭二つ分も大きい相手に向かって、何度も、何度も、壊れた機械のようにドライブを仕掛けている。
弾き飛ばされる。床に叩きつけられる。バッシュが床と擦れて嫌な音を立てる。それでも、彼女は立ち上がる。汗で張り付いた前髪を振り払い、不器用なウサギのような瞳で、決して諦めない強さと愛らしさで再び高く分厚い壁に挑んでいく。
「……っ、まだ!まだ終わってない!」
遥の声が、体育館の空気を震わせる。
その瞳は、絶望に浸食されるどころか、抗うほどに激しい光を宿していく。諦めるという選択肢を、生まれながらに削除されたかのような意志の力。
(……なんでだよ。計算に合わないだろ、そんなの)
翔太の手が止まる。彼の「観察眼」によれば、遥が今の状況でシュートまで持ち込める確率は、0.3%にも満たない。効率が悪すぎる。無謀を通り越して無意味だ。
翔太のロジックは、彼女の敗北を100回中100回予測できる。それなのに、彼女の動きは、その予測の「外側」にある何かを掴もうとしている。
「あまり無理しすぎるなよ。無駄な努力は、自分を傷つけるだけだ」
翔太は、そう呟きながら胸の奥では、ぎりりと締め付けられている。
これは「憧れ」などという生易しいものではない。自分が、効率と論理を優先してとっくに捨ててしまった「不可能な未来に手を伸ばす勇気」を、今も持ち続けている人間への、嫉妬に近い、狂おしいほどの尊敬だった。
自分は「無理だ」と悟った瞬間に、賢明にも足を止める。でも、彼女は止まらない。その姿が、あまりにも眩しくて、直視できなかった。
「……俺は、何をやっているんだろうな」
練習終了のブザーが、無機質に放課後の終わりを告げる。後片付けの最中、翔太はポケットからスマートデバイスを抜き出した。画面には、昨夜JVBLでアリーナを震撼させたルーキー、『NOVA-Johannès』のアーカイブ動画が再生されていた。
175センチの、しなやかで力強い長身女性アバター。圧倒的な身体能力を背景にした、優雅なダンクシュート。一見、泥臭いリアルの遥とは似ても似つかない。だが、翔太の「眼」には重なって見えた。
画面の中で、遥とNOVAが重なり鮮烈なダンクを叩き込み、重力の呪縛を笑い飛ばす。その電子的な着地音は、翔太の冷え切った心臓に、小さく、けれど確かな火花を散らした。
不可能とわかっていても抗おうとする彼女。
(じゃあ、俺は?)
安全なベンチの端で、解説者気取りで他人のプレイにスコアをつけて、それで満足して一生を終えるのか?
「観測者」という安全な檻から抜け出せない自分への激しい嫌悪と、プレイヤーへの、焼けつくような渇望。翔太は、画面に映る『新星(NOVA)』から逃げるようにデバイスを閉じると、一人、夜の帳が降りた街へと歩き出した。
遥に声をかけようとして、指先さえ動かせなかった自分の無力を、夜風にさらされる自動運転バスの音でかき消しながら。
(それにしても似てるんだよなぁ……この、独特の溜め。視線の誘導。そして、追い詰められた時に一瞬だけ見せる、あの『絶望を無視したステップ』のリズム……)




