Node3.2:ベンチからの景色、届かぬ指先
その夜、Xとの嵐のような1on1を終えてログアウトした後も、遥の脳内はアドレナリンの残響と、解き明かせぬ謎への探求心で支配されていた。
X。彼は公式大会にもランキングにも関心を示さず、神出鬼没。深夜のストリートコートや、誰もいない閑散としたルーキーサーバーにふらりと現れては、壁にぶつかったプレイヤーに「暑苦しいまでの説教」を叩きつけて去っていく。V.B.Lにおける生ける都市伝説だ。
再び彼と遭遇できたのは、三日後の深夜だった。
コートで対峙したXは、やはり圧倒的だった。しかしNOVAも、前回の敗北をただの糧にはしていなかった。以前よりも遥かに鋭く、地を這うような低重心で巨漢に挑みかかる。ドリブルの一歩目、ディフェンスの間合いの微調整、シュートに至る筋力配分。Xのプレイには、0.1ミリの無駄もない。まるで、彼自身の意識がボールの物理演算コードそのものと一体化しているような滑らかさ。NOVAは必死に食らいついた。指先がボールをかすめ、スティールまであと数ミリまで迫る。だが、そのたびにXは、嘲笑うのではなく「楽しそうに」わずかな差で躱していく。圧倒的な実力差。絶望的な壁。しかし、その差こそが、NOVAの心に「生」の炎を灯していた。
(どうすれば、この人みたいな動きができるんだろう。……いつかたどり着きたい)
ゲーム後、肩で息をするNOVAに、Xは空中でデジタルなスポーツドリンクを投げ渡した。
「ハッハッハ!悪くない、実にいい食らいつきだ!だがな、お嬢さん!君はまだ『目で見て』から脳で考えて動いている!遅い!遅すぎるぞ!!心で感じろ!ボールの震えを、コートの呼吸を!!」
― Don't think, Just move. だぁ!―
「……あなた、本当に何者なの?」
NOVAは、ドリンクを飲み干して問いかけた。
「プロの選手?それとも、運営側のデバッガーなの……?」
「フッ、言ったはずだ!私はただの通りすがりの、救いようのないバスケ馬鹿さ!!」
Xはマスクの奥で、不敵な笑みを浮かべた。
NOVAの胸には、言い知れぬ期待感が渦巻いていた。Xのプレイスタイルは、遥自身の目指すべき「究極の上位互換」だ。小柄な者が大男を翻弄するための最適解。その完成された動きに、遥は自分の血に流れる根源を感じずにはいられなかった。
(まさかね……お父さんが、あんなに暑苦しいヒーローごっこをするわけがない。でも……)
家では堅物で、ゲームなんて無関心にさえ見える父。だが、Xの豪快な跳躍には、かつて母も語っていた「若き日の父の夢」の残骸が、美しく、悲しく光っているように思えてならなかった。
――同時刻。都内某所、窓の閉め切られた薄暗い一室。そこには、複数のモニターから発せられる冷たい青光に照らされた、一人の青年がいた。画面に映っているのは、NOVAとXのプラクティス映像のアーカイブ。リアルの木村優太は、瞬きも忘れたような虚ろな目で、その映像を繰り返し凝視していた。
「……なんだよ、そのステップ。甘い。集中できてないじゃないか、NOVA」
優太の口から漏れたのは、卑屈な嫉妬ではなかった。それは、NOVAのプレイに生じている微かな「歪み」に対する、狂おしいほどの焦燥感だった。自分がいれば。自分が隣に立って、アドバイスしてやれば、彼女はあんな無駄な動きをしなくて済むはずだ。彼女の才能を、もっと鮮烈に引き出してやれたのは、この俺だったはずなのに。
不正ツールに手を出し、安易な「力」を求めた代償。その結果、自分は唯一の居場所からも、友の隣にいる権利からも永遠に追放された。自業自得だ。弁解の余地などない。どれだけ画面の中の彼女を心配しても、その声は二度と電子の壁を越えることはない。優太は、己の愚かさと無力さへの怒りで、血が滲むほど拳を握りしめた。
「……どうして俺は、そこにいないんだ。どうして……っ」
画面の中でNOVAがシュートを外し、悔しそうに顔を歪める。それを見ることしかできない今の自分は、死んでいるのも同然だった。だが、その絶望の底で、優太の瞳に一点の、鋭く暗い決意が宿り始めた。
(このまま消えてなくなりたくない。たとえ『プレイヤー』として戻れなくても…)
自らを蝕む後悔が、静かに「執念」へと変質していく瞬間だった。
――翌日、リアルの放課後。体育館の練習中、案の定ベンチを温めることになった遥は、休憩時間を利用して屋上へと逃げ込んでいた。フェンスを掴み、流れる雲を見つめる彼女の背後に、足音が近づく。
「また、なんか悩み事でもできたか?そんな暗い顔して。せっかくの美少女が台無しだぞ?」
振り返ると、そこには翔太がいた。彼はフェンスに背を預け、手元のタブレットではなく、真っ直ぐに遥を見据えていた。
「……バスケ、楽しくないのか?」
翔太はいつも通り、クラスでも部活でもムードメーカーとして軽快に笑いながら遥の肩を叩く。
「……そんなことないよ。」
遥は、そう言いながら、相変わらずの翔太のウォッチャーぶりに感心する。遥の言葉に、翔太は静かに空を仰いだ。
「俺さ、選手としては早々に限界が見えた。才能の壁ってやつにな。でもな、ベンチから試合を見るのって、意外と悪くないんだぜ。」
翔太の遥を勇気づける言葉の数々は、論理的で、かつ完璧なタイミングで放たれる。だが、ふとした瞬間――遥が振り返る直前の0.1秒。 翔太の瞳から、スッと光が消えることがある。
翔太は、どこか遠くを、あるいは「フィールド全体」を見るような目で続けた。
「ベンチは、戦場じゃないって思われがちだけど、そうじゃない。そこからだと、戦っている奴には絶対に見えない『道の開き方』が全部見えるんだ。誰よりも冷静に、状況を読み、次に起こる波を予測する。主役にはなれなくても、ゲームの結末を書き換えることはできる。……そういう戦い方も、一つの『バスケ』だろ?」
その瞬間、遥の脳内で、バラバラだったピースが噛み合った。翔太の視点が、遥をプレイヤーとしての強迫観念から解放してくれた。
――バスケットボールへの関わり方は、コートの中で光を浴びることだけではない。分析し、予測し、導く。それは翔太が今まさに、リアルの部活で行っている「最高のサポート」そのものだ。
(……ユウタも。ユウタにも、その道があるんじゃないのか?)
プレイヤーとしてのIDは消去されたかもしれない。けれど、彼が培ってきた「メンタルA+」の誰にも負けない情熱までは消去されていないはずだ。彼が再びこの世界に関わるための「道」は、まだどこかに残されている。
遥の心に、迷いの霧を晴らすような、鋭い決意が固まった。
「私、頑張るよ、翔太。私、もっともっと強くなって、目立ってやる」
「おう。知ってるよ。お前、さっきから目が『不器用なウサギ』みたいになってるからな」
翔太は、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
遥は拳を握り、抜けるような秋の空を見上げた。立ち止まっている暇なんてない。
ユウタを救うための手がかりを掴むには、まず自分がこのV.B.Lという世界――ランキングの頂点に駆け上がり、システムの闇が無視できないほどの「存在」にならなければいけない。
(勝つんだ。勝って、世界を動かして、彼の居場所を……私の力でこじ開けてみせる!)
友を失った無力感は、今、彼女を突き動かす最強の燃料へと変わった。小さな胸の中で、かつてないほど激しい、反撃の炎が燃え上がっていた。




