距離感と温度
とある瀟洒なバーのソファ席。
そこに一人の男がいた。
白に近い銀の髪、鋭く冷たい灰色の瞳。
暗がりで一人、ノートパソコンを操作しながらロックグラスを傾ける。
近寄り難い雰囲気を醸し出しながら。
ふ、と。
店内に流れる静かなジャズの雰囲気が、扉の開閉音と共に僅かに揺らいだ。
男は気に留めずキーを叩く。
ブーツが床を蹴る足音が近付く。
無遠慮にソファの隣が沈み込む気配。
そこで初めて、男は顔を上げた。
「……遅せぇよ」
「来たんだからいいだろ」
短いやり取り。
男の隣に来たばかりのもう一人は、眼鏡越しに彼を見据えた。
黒の下に踊るマゼンダのレイヤーカラー。
白銀の髪とは対照的なその襟足を、新たに来た男は無造作に指先で弾く。
「……で、今日は何やってるの。お前」
「あ?見ての通りだよ」
マゼンダの男が銀髪の男の肩に腕を回し、モニターを覗き込む。
僅かに軋むソファ。
銀髪の男はやはり気に留めない。
まるでそれが当たり前だと言わんばかりの態度で自分の酒を呷った。
……数秒の沈黙。
徐にマゼンダが口を開く。
「……お前、ここ文法狂ってるぞ」
密接したまま、澄んだ低音と共にモニターの一点を指差す。
銀髪は動揺しない。
ただ、パッドを操作し指摘された点を修正する。
「……これで文句ねぇだろ、作家センセ」
「ああ、ないね」
至近距離で頷きながら、ローテーブルの上に置かれた一人分のグラスから酒を奪う。
「……自分で頼めよ」
「……たまにはいいだろ?」
「いつもの意趣返しってか」
「否定はしない」
はっ、と銀髪が鼻で笑う。
そこに拒絶は存在しなかった。
……再びの沈黙。
距離感は、そのまま。
周囲の人間の視線が刺さる。
常連客として居座る二人には、そんなことは些事に過ぎない。
「……君、いつもの二人分」
回し飲みしていた酒が尽きる頃、マゼンダが店員に声をかける。
肩を抱き、足を組んで完全に寛ぐ姿勢。
その姿に不思議と色めいたものはない。
「……今のはお前の奢りだぜ」
「分かってるよ。……いいから続きやってろ」
キーボードを叩く打鍵音。
銀髪の傷だらけの手が脳内の情報を打ち込んでいく。
暫しの沈黙。
マゼンダは銀髪の肩から腕を離し、静かに煙草に火を点す。
カキン、と蓋の閉まる金属音。
少し後、琥珀色を湛えたグラスを持ってきた店員から二つ受け取り、一方を静かに自分の前へ置き、一方を銀髪の前へ差し出す。
からん、と丸氷がグラスに触れた。
「……ん」
「ああ」
言葉として成立しない音。
けれど二人にはそれだけで通じる。
グラスを一瞥した銀髪が、酒はテーブルに置けと指先で示す。
グラスの底と木製のテーブルがぶつかる静かな音。
その間に自分の煙草を一本咥えた銀髪が、マゼンダの方に顔を寄せる。
火を忘れた時の仕草。
「……またか」
「うるせぇ」
小さく息を吐くマゼンダ。
ポケットから取り出したジッポの蓋を開く。
「……どっちがいい?」
「知ってんだろ」
ぶっきらぼうな銀髪の言葉。
微かに笑うマゼンダが、火輪を回して火を灯す。
それを銀髪の口元へ運んでやった。
じり、と先端が燃える。
互いの間にはほぼ隙間がない。
無事に着火した様子を確認して、マゼンダはジッポの蓋を閉じた。
……暫しの沈黙。
二人分の紫煙が立ち上る。
咥えた煙草を挟む指も、灰皿へ灰を落とすタイミングもばらばら。
けれど不思議と様になる光景。
「……今日はどうする?」
「……ソファ貸せ」
煙草を先に吸い終えたマゼンダの問いに、銀髪が短く返す。
そこに関してそれ以上の言葉はない。
マゼンダは自分の酒を軽く傾け、喉に静かに流し込む。
ハイネックから覗く、上下する喉。
何の気もなくそれを眺めていた銀髪が笑う。
「……何」
「何でもねぇよ」
フィルターが熱を持ち始めた煙草を灰皿に押し付ける。
それから銀髪は自分の取り分を呷った。
……遠くでBGMだけが流れる。
時折小さく鳴る、氷とガラスがぶつかる音。
飲み終わるのはほぼ同時。
ノートパソコンを閉じ、それぞれに席を立つ。
マゼンダが支払いを済ませる間、今度は銀髪が彼の肩に片肘を乗せて手元を無遠慮に覗き込む。
密接で、けれどどこかドライな距離感。
「……重い。行くぞ」
「はいはい」
二人でバーのドアをくぐる。
閉まる寸前に聞こえた、"あの二人ってもしかして……"
そんなどうでもいい声をシャットアウトして、二人は夜の街の雑踏に消えていった。




