別れを引き受ける僕
夕霧という男は、父・光源氏の気高さを受け継ぎながら、より慎ましく誠実な心ばえを持つ人である。幼き頃より父の華やかな恋の遍歴を見て育ち、その影に揺れながらも、自らは節度を重んじて歩もうとする。恋においては一途でありながら、思い通りにならぬ運命に悩み、静かな苦悩を胸に秘める。その真面目さと優しさこそが、物語に穏やかな光を添えている。
別れ方は難しい。始まりよりも終わり方の方が難しいのだ。
どちらが悪いわけではないのに、このまま続けられない関係というものがある。そんな時、相手の幸せを願い、自分の未練をそっと脇に置く者がいる。今は辛いが、お互いの未来のためでもある。
そんな選択をする若い二人が目の前にいる。
***
六月の終わり、湿った空気が街を包むような夕方だった。
「話したいことがあるの」と彼女から連絡があった。嫌な予感がした。
僕らは駅前のカフェに入り、彼女はアイスコーヒー、僕はビールを頼んだ。いつもなら他愛もない話で時間が過ぎるのに、その日は彼女の視線が僕ではなく、アイスコーヒーを見つめている。
「転職しようと思ってるの」彼女が細い声で言った。彼女が今の職場に不満を抱えていたことは知っていた。でもそれはほんの愚痴で、そのうち解決すると思っていた。まさか、こんな形で切り出されるとは思っていなかった。
「そう、前から言ってたもんね。仕事変えたいって」そう言ったけれど、僕はもっと聞きたいことがあった。
どこへ行くのか。
いつからか。
そして、僕はその将来に含まれているのか。
彼女の顔を見た瞬間、そんな言葉は出てこなかった。彼女はもう決めていた。覚悟の顔だった。
「地元、大阪に帰って、仕事探そうと思っている」
その一言で僕の気持ちは大きく落ち込んだ。なぜなら、それは僕らの関係も終えようと言っていると気づいたからだ。
最近、僕たちの生活リズム、価値観、将来の夢みたいなものがほんの少しずつズレてきていた。このままでは僕たちはお互い不幸になる予感を、お互いが感じていた気がする。
転職で地元に帰ることは、僕らの間も距離を置いてみたいと言っているように思えた。
「そっか、いいと思うよ」僕はゆっくりと言った。彼女は驚いたように目を開いた。
「引き止めないんだね」
「ああ、だって、決めたんだろ。決心したって顔してる」
やっぱり間違いないと思った。
彼女の目が少し潤んだ。手を伸ばせば彼女はまだ届く距離にいる。未練はある。でも、彼女は仕事も僕との距離も取りたいと言っているのだ。引き止めては彼女の将来を狭くしてしまう。そんな気がした。
「ありがとう」彼女はそう言って、泣きそうな顔で笑った。その顔を見て、僕の考えは間違ってないと確信した。
店を出ると、湿った空気が冷たい乾いた風に変わっていた。駅までの道を歩く間、僕らはほとんど言葉を交わさなかった。何か言うと壊れてしまいそうだったけれど、これ以上のことを口に出して確認することを、お互いに避けていることが分かった。
改札で彼女が立ち止まった。
「本当にありがとう。元気でね」
「ああ、大阪で頑張ってね」
それだけ言って、僕らは別れた。振り返らなかった。これでよかったんだ。
家に帰るとスマホに彼女からのメッセージが届いた。
「あなたの未来が幸せでありますように」
その言葉を見て、目が潤んだ。別れはつらい。でも、お互い最後まで優しかった。
僕は返信を打たなかった。返信したら、まだ続いてしまう気がしたから。それぞれの未来を歩き出さないといけない。明日から僕は僕の生活を続ける。彼女のいない日々が始まる。別れは終わりじゃない。新しい未来を選択した始まりだ。
***
そもそも、別れは誰のためにあるのか。自分の痛みを守るためか、相手の未来を開くためか。昔、光の君もまた、愛する人の幸せのために身を引いたことがあった。その姿は決してドラマチックではなく、静かで、淡々としていた。その静けさこそが、深い愛の証だったのだと思う。
別れを引き受けるということは、自分の未練を断つことではなく、相手の未来を優先することだ。そんな別れは悲しみだけでは終わらず、未来を祝福する優しい儀式になる。
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