表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
転生人語 ー紫の語りー  作者: 岩田 ヒロ
明石の君(あかしのきみ)

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
68/82

旅から戻って

 旅というものは、どうしてこうも人の心を軽くしてしまうのだろう。日常の重さをそっと脇に置いて、知らない街を歩くだけで、胸の奥の固い部分がふっとほどける。


 今回の「彼女」もまた、旅の空気に背中を押された一人だ。金沢の湿った風と、知らない人の優しさに触れたことで、胸の奥にしまっていた気持ちが、そっと顔を出した。


 ***


 金沢の一泊二日の旅から東京に戻った私は何かぎこちなさを感じて、自分のアパートに戻った。いつもの部屋なのになんとなく雰囲気が違う。何かが足りない気がする。何かがなくなったのだろうか。


 なんて、自分でとぼけてみた。答えは知っている。金沢で会った彼のことが気になっていることは分かっている。


 駅で偶然出会って、兼六園まで一緒に歩き、灰色の空が映った池を一緒に眺めただけ。だけど初めて会ったのになんでも話せた。背はそんなに高くない。顔もジャニーズ系でもない。ただ、清潔で、誠実そうなのは分かった。


 居心地が良かったから、私から次の日の朝食を誘った。断られたらどうしようと思ったけど、旅先だからと思って勇気を出して誘ってみた。「行きましょう」と言われた後、ああ、今から夕食行きましょうと言えば良かったかなと少し後悔した。


 帰り際、連絡先を交換して別れた。ソファに座り、スマホを眺めながら、彼にメッセージを送ろうか悩んでいる。旅先ほど勇気は出なかった。荷物を片付け、缶ビールとコンビニのサラダを食べて、彼を忘れることにした。


 次の日も一日モヤモヤしていた。彼から連絡が来ればいいのにとも思った。だって男性からしても旅先で女性と出会えるなんてラッキーじゃないのかしら。私がそんなに魅力がなかったのかしらと凹んだ。彼もきっと私みたいに悩んでいるに違いない。そう、悩んでいてほしい。そんなことを妄想してたら、まったく仕事が手につかなかった。誰か私のモヤモヤを晴らして。


 とりあえず週末まで待つことにした。


 土曜日になった。彼からの連絡はなかった。連絡するか、しないか。その二択が妙に重たかった。旅の魔法が解けたら、ただの他人に戻るだけだよね。なんて思ったけど、メッセージアプリを開いていた。

「先週はありがとうございました。気分転換出来て、今週は楽しく仕事出来ました」送信ボタンを押した瞬間、ああ、我慢出来ない私、と思って後悔した。


 すぐに既読にならなかったのでアプリを閉じ、スマホを置いた。コーヒーを淹れることにした。


 ドリップコーヒーにお湯を注いでいると着信が来た。彼からだ。待ち受け画面に「おはようございます・・・」とある。やったー、返信が来た。すぐにスマホは開かない。すぐに着信となると暇人と思われそうなので、すぐに既読にはしない。焦らすのだ。とりあえず落ち着いてコーヒーを飲み干したらスマホを見ることにした。


「おはようございます。こちらこそありがとうございました」なんかつまらない返事だと思った。やはり迷惑なのかしら。旅だけの思い出で終える方を望んでいるのかしら。


 私は終わらせたくないと思った。だから、金沢と同じように誘うことにした。

「もしよければ、朝ごはん、一緒に食べませんか?」先週と同じ誘い言葉、彼に通じるだろうか。


 返事はすぐに来た。

「はい、行きましょう。先週と同じお誘い、ありがとうございます」彼は覚えてくれていた。私たちは東京駅近くのカフェで待ち合わせをした。


 *


「なんか、東京で会うと変な感じですね」と私が言うと、彼は苦笑いをした。

「そうですね。ちょっと戸惑いますよね。旅先の偶然じゃないからかな」その言葉に少し胸が痛んだ。やはり私のことは旅の中だけのことと思っているのだろうか。コーヒーを見つめながら固まってしまった。


「天気いいから、皇居を散歩しませんか。先週の兼六園の散歩みたいに」

「いいですね」なんか救われた気がした。


 皇居を歩いてるけど、私はまるで兼六園を歩いてるような気分で、すっかり先週の続きを味わっていた。彼も満更ではない雰囲気だ。


 東京でも朝食に誘ってよかった。


 *


 それから二人は、週に一度だけ会うようになった。仕事帰りに軽く食事をしたり、休日に散歩をしたりした。私は二人で会う時間が、旅のような特別な景色から普通の景色へと変わっていくのがうれしかった。


 ある日彼が言った。

「最近思ったけど、金沢で出会った時よりも今の方が自然だよね」

「自然?」

「そう。金沢の時は少し無理してる感じがした。でも今は、肩の力が抜けてる」

「じゃあ、東京の私のほうがいいですか?」

「どっちもいいよ。でも、東京の君の方が、僕は好きかもしれない」すっごくうれしかった。旅の魔法が解けても、彼は離れなかった。


 *


「ねぇ、また、旅行行こうよ。現地集合で」

「いいね。でも、今度は宿は一緒ね」

「うん」


 ***


 そもそも、旅の恋というものは、日常に戻れば消えてしまうことが多い。光の君も、明石の君との出会いを胸に刻みながら、都に戻れば離れなければならなかった。


 けれど、光の君は明石の君の琴の音を忘れなかった。旅の景色が、日常の中で静かに息をし続けた。旅は終わる。でも、旅で出会った心は、終わらないこともある。


 旅の空気を少しだけまとった恋は、

 日常の中で静かに根を張る。そして、ふとした瞬間に思うのだ。


 また旅に出たい。


 あのときの自分に、もう一度会いに行きたい。そんな気持ちを胸に、二人は今日も東京の街を歩いている。

読んで頂き、ありがとうございます。

評価と応援よろしくお願いします!

ほぼ毎日更新しています。フォローして頂けるとうれしいです。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ