旅の恋
明石の君という女は、海辺の地に育ちながら、静かな才と深い情を秘めた人である。光源氏とは運命のめぐり合わせによって結ばれ、その慎ましさと聡さは源氏の心に新たな安らぎをもたらした。身分の差ゆえに都では控えめに身を置き、娘を源氏のもとへ託す決断には、母としての強さと切なさが宿る。遠く離れても、彼女の影は源氏の生涯に静かに寄り添い続けるのである。
旅というものは人を少し大胆にする。日常を離れ、見知らぬ土地に身を任せると、普段とは違う自分に変われるようだ。
昔、光の君が都を離れ、須磨へ向かう途中、明石の浦で出会った“明石の君”に想いを寄せたことがあった。深く求めれば壊れてしまいそうな関係なのに、気持ちは止められなかった。
「僕」もそんな魔法に触れ、胸騒ぎが止まらないようだ。
***
六月の金沢は雨上がりの匂いがした。マンネリ化した生活が嫌になり、ふと知らない街に行こうと思って新幹線に乗った。
駅を出ると湿った風が頬に触れた。観光案内所で地図をもらおうと並んでいると、隣の女性が僕に声をかけた。
「すみません、兼六園って歩いて行けますか?」
ジーンズに白いシャツ、薄いベージュのカーディガン。旅慣れているように見えた。
「たぶん歩いて20分くらいですよ。僕も初めてなので自信はありませんが」
「あ、そうですか。わたしも初めてで」と笑った。
「もしよかったら、一緒に行きますか?この道を行けば着くはずですよ」
「ああ、助かります。わたし、地図読むの苦手なんです」
その一言で、旅の景色が少し変わった。
*
兼六園へ向かう途中、彼女は東京から来たと言った。仕事がうまくいかず、気分転換に来たらしい。僕もマンネリ化した毎日が嫌になって新幹線に乗ったと伝えると、彼女は、
「わかる気がします」と言った。
「知らないところに来ると、いつもとは違う自分になった気になりませんか?いつものわたしを知らない人にも会えるし」
そんな会話が妙に心に刺さった。
園内の池に映る空は薄い灰色で、なんとなく気分はブルーだった。梅雨空だからしょうがないなと思った。僕らは兼六園を一緒に回りながら、普段の生活や仕事の愚痴を言い合った。兼六園の空と僕たちの疲れた心が一致していて、会話は不思議と途切れなかった。
彼女はベンチに座りながら、ぽつりと言った。
「すみません、いろいろ愚痴聞いてもらって。おかげですっきりしました。帰ったら、また元の生活が待っているんですよね」
そう言うと、彼女は少し笑った。
僕は彼女との距離をどうしたらよいか分からず、ただの“旅は道づれ”的な人になってしまった。彼女のことは詮索せず、また、僕のこともあまり話さなかった。
*
夕方、彼女は予約していた旅館へ向かうと言った。僕は別のホテルだったので、そこで別れることになった。
「今日はありがとうございました。いろいろ話聞いてもらって、すっきりしました」
「こちらこそありがとうございました。僕もすっきりしました」
「それでは、お気をつけて」と言って手を振ると、彼女は少し立ち止まって言った。
「あ、もしよければ、明日の朝、近江町市場で朝ごはん、一緒に食べませんか?」
そのセリフは本当は僕が言うべきだったと申し訳なく思って、すかさず答えた。
「はい、行きましょう」
彼女は安心したように微笑んだ。
*
翌朝、市場で再会した彼女は、昨日よりも少し親しげに僕に接してくれている気がした。朝ごはんを食べながら、彼女は言った。
「明日から、また仕事頑張らないといけないんですよね。でも、昨日一緒に歩いてくれたので、頑張れる気がします」
「僕もです」と答えた。
あれ?彼女はたくさん話してくれるのに、僕はただ返事を返しているだけだ。つまらない人と思われたら嫌だなぁと思った。
別れ際、連絡先を交換した。
東京に戻ってから会うかどうかは、まだ分からない。旅の出会いは旅の中で完結してもいい。だって、金沢の天気と彼女の笑顔は、忘れられない思い出として僕の心に残りそうだから。
***
そもそも旅には終わりがある。光の君も、都に戻れば明石の君と離れなければいけない運命と知りながら、彼女の琴の音を胸に刻み、その夜が永遠に続けばいいなと期待していたのだ。
一人旅は人を大胆にし、いつもと違う人と出会い、いつもと違う自分に出会うことができる。そして、その思い出をこっそり胸にしまって帰ってくるのだ。
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