知らなくてよかった未来
人は、言葉にする前に、少し未来を予想することがある。
けれど、その予想が他の誰かに触れたとき、
そこにほんのちょっとの違和感が生まれる。
それは不安や、大きなお世話みたいなネガティブな影を落とす。
今日もまた、誰かの胸の内が、
言葉より先に触れられてしまったらしい。
***
六月の終わり、眠れない夜だった。
なんとなく開いたSNSの匿名投稿に、奇妙な一文があった。
——“明日、彼女は人混みで疲れる。”
なんの目的の書き込みかは分からなかったので、
深く考えず、画面を閉じた。
*
翌日。帰り道、彼女が少し黙って歩いていた。
僕はふと口にした。
「今日、人混み……ちょっとしんどかったでしょ」
彼女は驚いたように僕を見た。
「どうして分かったの?」
僕は笑ってごまかした。
ただの勘だと思ったから。
でも、昨夜の投稿が思い出された。
*
その夜、また匿名投稿が流れてきた。
——“明日、彼女は早く帰りたがる。”
*
翌日。夕方の街を歩いているとき、僕はふと口にした。
「そろそろ帰りたいよね」
彼女は少し驚いて、
「……うん、そう思ってた」と答えた。
また当たった。
*
次の日の夜。匿名投稿。
——“明日、彼女は仕事のことで落ち込む。”
*
翌日。彼女は少し元気がなかった。
理由は言っていない。僕は言ってしまった。
「仕事、ちょっと大変だったんだね」
彼女は目を丸くした。
「……どうして分かるの?」
僕は答えられなかった。
*
また別の日。匿名投稿。
——“明日、彼女はパン屋に寄りたくなる。”
*
翌日。散歩中、僕はふと指さした。
「このパン屋、行きたいんじゃない?」
彼女は笑った。
「え、なんで分かるの。言おうと思ってた」
僕は笑えなかった。
*
さらに匿名投稿。
——“明日、彼女はレモンティーを選ぶ。”
*
翌日。彼女はメニューを見ながら迷っていた。
「今日は何にしようかな」
僕は自然に口にしてしまった。
「レモンティー……どう?」
彼女は少し考えて、ふっと笑った。
「そうだね、たまにはレモンティーにしようかな」
その夜、投稿を見た。
——“ほらね。”
手が震えた。
*
そんな違和感が積み重なった頃、
彼女は転職の相談をしてきた。
「来月、面接があるの。まだ迷ってるけど」
*
その夜、匿名投稿。
——“面接はうまくいかない。”
*
翌日、僕は言ってしまった。
「面接……ちょっと難しいかもしれないね」
彼女は静かに僕を見た。
「なんでそんなこと言うの?」
僕は答えられなかった。
面接は書類選考で落ちた。
*
七月の三連休。
海辺で、彼女は足を砂に埋めながら言った。
「ねえ……最近ちょっと変じゃない?」
「何が?」
「私の未来を知ってるみたいなときがある」
僕はなんとなく気まずさを感じた。
「そんなことないよ」
「でもね……」
彼女は僕の顔をじっと見た。
「私がまだ言ってないことを、あなたが先に言う。
帰りたい時間も、落ち込んだ理由も、行きたい店も……。
全部、私より先にあなたが言うの」
僕は視線をそらした。
「偶然って言うには、多すぎるよ。
怖いよ……。なんでそんなに分かるの?」
喉が詰まったように、何も言えなかった。
彼女はゆっくり問いかけた。
「ねえ……あなた、本当は何を知ってるの?」
僕は答えられなかった。
答えたら、何かが壊れる気がした。
彼女は小さく息を吸い、
そのまま涙を落とした。
*
その日を境に、彼女は少しずつ距離を置くようになった。
連絡の頻度が減り、会う回数も減った。
*
僕はSNSを開いた。匿名投稿があった。
——“そろそろ終わる頃。”
厭な胸騒ぎを感じた。
*
八月の終わり。彼女から最後のメッセージが届いた。
——“あなたは優しいけど、これ以上は無理。ごめんね。”
返信できなかった。
*
その夜の匿名投稿。
——“これで終わり。次は、彼の番だ。”
怒りが、ゆっくりと胸の奥で膨らんでいった。
誰だ。
なぜ僕らの未来を知っている。
なぜ僕にだけ見せる。
なぜ僕はそれを口にしてしまう。
なぜ彼女を傷つけた。
怒りのぶつけ先はどこにもなかった。
ただ、匿名の影だけが、静かに光っていた。
海の音が、耳の奥でまだ続いている気がした。
未来を壊したのは誰だったのか。
僕だったのか。
匿名の誰かだったのか。
答えは、どこにも書かれていなかった。
ただ、僕の未来だけが、静かに滲んでいくように思えた。
***
そもそも、人の未来というものは、
まだ形のない影のようなものだ。
触れれば曇り、覗けば濁る。
心の奥にしまっていたはずの思いが、
誰かの口から先にこぼれたとき、
人は自分の未来を奪われたように感じるのだろう。
光の君もまた、知らなくてよかった影に触れた人だった。
紫の上の胸の内を、ほんの少し先に読みすぎたあの癖——
彼はそれを思いやりと信じていたけれど、
紫の上にとっては、
自分の心が先回りされるたび、
未来の選択が静かに奪われていくようだった。
言葉にしない寂しさを抱えながら、
彼女はただ、自分の影を守るように微笑んでいた。
未来を曇らせるのは、予感か、沈黙か、
それとも——
どこからともなく流れてくる名もなき声なのかもしれない。
海の音だけが、
その曇りをさらうように、
静かに寄せては返していた。
読んで頂き、ありがとうございます。
評価と応援よろしくお願いします!
ほぼ毎日更新しています。フォローして頂けるとうれしいです。




