わたしの影じゃない
恋というものは、距離を置いた途端にその距離のぶんだけ心がざわつくものらしい。 離れれば楽になると思いながら、離れてからかえって心が乱れるのだ。まして噂ほど厄介なものはない。 本人の耳に届くころには少し話が盛られて、胸の奥の弱いところを容赦なく突いてくる。
わたしは千年前からこうした男女の心の揺れを何度も見てきた。 時代は変わっても胸に生まれる影の形は変わらない。
その影に揺さぶられた女性がここにもいる。
***
彼と距離を置くことにしたのは次の日だった。 胸の奥の黒い影。あれを抱えたまま彼の隣に立つのはもう無理だと思ったから。
「ちょっと会うのやめよう」と言ったとき、彼は反論しなかった。 距離を置けば影も薄れると思っていた。でも、現実は違った。
数週間後、共通の友人から聞いた。
「ねえ、彼、新しい彼女できたらしいよ」その瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。息が止まるかと思った。 距離を置いたのはわたしなのに。それでも、心は勝手にざわついた。
誰よ、その子。あのSNSの子?
黒い影が静かに広がる。
呪ってしまえ。 そんな言葉がふと頭によぎった。自分でも驚くほど暗い感情だった。
その夜、スマホが震えた。彼からだった。
「久しぶりに話せないかな」
どうして今なの。どうして彼女ができたタイミングで。 無視すればいい。でも、指は勝手に動いていた。
「いいよ」
会いたくないのに、会いたい。 会えば傷つくのに、会わずにいられない。 影はもうわたしの中ではちきれそうだった。
*
待ち合わせのカフェに着くと、彼は少し痩せて見えた。
「来てくれてありがとう」
その声に胸が痛んだ。まだ好きなのだと認めざるを得なかった。
沈黙のあと、彼は言った。
「実はさ……彼女ができたんだ」知ってるよ。でも、知らないふりをした。
「そう。私たちまだ正式に別れてないのにね」棘のある言い方をした。でも声は落ち着いていたと思う。
呪ってしまえ。 その子を。わたしから彼を奪った子を。 そんな声が耳元で聞こえた気がした。
「ごめん、もっと早く話せばよかった」何を話せばよかったの。別れ話? もっと前から私以外にも付き合っていた子がいるということ?
黒い影が口から出そうになったとき、彼が言った。
「でも、うまくいってないんだ」
彼はコーヒーを見つめた。
「多分、俺が悪いんだと思う」
「え、何のこと」怒りが湧いてきた。
「わからない。彼女はいい子なんだよ。でも……きっと俺がどこかで後ろめたさを感じてる」
「後ろめたさって、何に?」
「お前に対してだと思う」
わたしは息を呑んだ。そして言った。
「わたしね。あなたの彼女のこと、呪いたいって思ったんだよ」
彼は驚いた顔をしたが、すぐに首を振った。
「ごめん。俺が悪いんだ。ちゃんとけじめもつけずにいたから。 だから、変に心配というか……変に迷惑かけちゃって」
その言葉を聞いた瞬間、胸の黒い影がほどけていくのを感じた。呪いたいなんて思ったのは、わたしの心が歪んでいたからじゃない。 彼の罪悪感の影が映り込んでいただけだった。
「もう、いいよ。わたしは大丈夫だから」彼の目はどこか救われたように見えた。
カフェを出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。 さっきまで胸にあった黒い影は、もうほとんど残っていない。呪いたいと思った自分を責めなくていい。 あれは、わたしの心が壊れかけていたわけじゃない。 彼の罪悪感が、わたしの心に影を落としただけ。影はもう消えつつある。 わたしはわたしの足で前に進める。 そして、彼は彼の場所へ戻っていく。
それでいい。それが自然だ。わたしは空を見上げた。 薄い雲の向こうで、月が静かに光っていた。わたしも誰も呪わない。 ただ静かに、次の一歩を踏み出す。
***
そもそも、人の心に生まれる影というものは、 自分の内側だけで育つとは限らない。 誰かの罪悪感や未練や曖昧な優しさが、 知らぬ間にこちらの胸に落ちてくることがある。
光の君も、ある女性と不倫の関係を持った。 彼女は彼の曖昧な優しさに縛られ、 自分でも気づかぬうちに心をすり減らしていった。 光の君が別の女性に心を寄せたとき、 彼女の胸に生まれた影は、彼女自身の嫉妬だけではなかった。 光の君が抱えた「申し訳なさ」や「未練」が、 彼女の心に静かに流れ込み、影を濃くしていったのである。
人は、自分の影だけで苦しむのではない。 誰かの影を受け取ってしまうこともある。 それは昔も今も変わらない。恋の影の生まれ方は、千年前と少しも違わない。 ただ、影に飲まれず、自分の足で前へ進もうとする若い人々の姿は、 どこか眩しく、頼もしくさえある。
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