20、君と見た、あの海
はじめて見る海は、圧倒されるほど大きかった。
ザザァン、ザザァン。
それに、波の音もうるさい。
「なんか変な匂い」
隣に座る君が、鼻を摘む。
「確かにね。まさか、磯の香りってのが、こんな生臭いなんて、思わなかったよ」
「こんな臭いの、どこがいいの?」
「慣れたら癖になるとか?」
僕が首をかしげると、君がうぇっと舌を出した。
「変態じゃん」
「でもさ、好きな人には好きなやつってあるでしょ? 納豆とか」
「はぁ? 意味わかんない、めっちゃおいしいじゃん」
「それだよ、それ」
僕がぷっと笑うと、君が頬を膨らます。
「だいたい、海を見てみたいって言ったのは、そっちじゃないか」
「そうだけど。だって、施設の遠足でも来たことなかったし」
「外出許可まで取って、来るほどなの?」
「仕方ないじゃない。みんなきれいだっていうから、見てみたかったんだもん」
「まあ、きれいはきれいだよ。キラキラしているし」
僕がまた海を見る。
君も波に視線を戻す。
ザザァン、ザザァン。
背後でそよぐ砂防林のざわめきも、すべて波音に飲まれて聞こえない。
「もう少し近くまで行こうよ」
「嫌よ」
「なんで?」
「だって、靴に砂が入るじゃない」
砂浜の手前の岸壁から垂らしている足を、ぶらぶらさせる。
「じゃあ、靴も靴下も脱いでいけばいいだろ?」
「嫌」
「なんで?」
「だって、砂が熱そうだもん」
君が頬を膨らます。
「まあ、確かに」
空にはカンカンの太陽。
砂浜には誰もいない。
駅から真っ直ぐに伸びる道にも。
そこに並ぶ商店にも。
海岸線の遊歩道にも。
「あのさ」
「なに?」
「なんでこんなに人がいないのさ」
「いるじゃない」
君が指した先には、波間でボードに乗るサーファー。
「あの人たち、まあ、あれだよ」
「あれって?」
「えっと、海に入らないと死ぬ病気なんだ」
「えっ、ほんとに?」
君が目を見開く。
「いや、うそ」
「なっ」
君が僕の背中をバシッと叩く。
それから、二人で、ぼぉーっと海を眺めた。
ザザァン、ザザァン。
海はどこまでも遠く、水平線まで続いている。
そこから吹いてくる風は、爽やかだけど、どこかおかしい。
「なんかベトベトしてない?」
「そうね」
「なに、これ?」
「知らないわよ。きっと、そういうものなんでしょ」
「そういうものって」
僕は笑う。
「なによ」
「いや、なんでもない」
「あっそ」
君は歌を歌い出した。
それは、ボランティアのお姉さんが教えてくれた、近ごろ流行っているらしい恋の歌。
君の悲しげな声。
僕はしばらく、海よりも君の横顔を見ていた。
夕日が海に沈んでいく。
海も、空も、僕も、君も。
みんな真っ赤に染まる。
「すごいね」
「うん」
「意味わかんないね」
「まあね」
僕がうつむく。
「僕たちは、どうなるのかな?」
「わからないわよ。院長はなにも話してくれないし」
「きっと、心配かけたくないんだよ」
「そうなんだろうけど……聞いてみたら?」
「聞けないよ」
風が風向きを変えて、僕たちが来た時より波が高くなった。
サーファーたちがそれを待っていたみたいに、波に乗る。
順番に。
「間違ってあっちにいけたらさ、どんなに幸せなんだろうね」
「きっと、あの人たちにも、悩みはあるよ」
「どんな?」
君は首をかしげる。
「わからないけど」
「普通に学校に行って、友達と遊んで、親に悪態ついて」
「たくさん勉強して?」
「勉強は嫌」
「ダメじゃん」
僕が笑うと、君はまた、バシッと僕の背中を叩く。
「本当、意味わかんない」
「仕方ないさ。生まればかりはどうにもできないって」
「でも……」
彼女が言い淀む。
僕は少しだけ目を細めた。
「僕は君に出会えてよかったと思うよ」
「なっ。ばっ、バカじゃないの?」
君がうつむく。
耳が赤い。
ザザァン、ザザァン。
「でも、こんな景色を見ていると、僕たちが小さく思えるよね」
「なんで?」
「なんかバカらしくなるだろ?」
「そう?」
「だって、そうじゃない?」
僕が首をかしげる。
君は答えない。
「そもそもさ、みんな違うのに、同じルールって変でしょ?」
「うーん。でも、みんなルールが違ったらゲームにならないよ」
「ゲームって」
僕がくくっと笑う。
「なによ。誰かが人生はゲームって言ってたじゃない」
「それにしては、スタートラインが違いすぎるよ」
「きっと、競争してないんだよ」
「本当に?」
「……わかんない」
彼女は少し体を縮める。
僕は肩をすくめる。
強い光を放ちながら、日が海の向こうに消えていく。
嫌がるみたいに。
空と海に光の筋を残して。
すっと消えて、夜が落ちてきた。
空にはキラキラと月と星。
それが海にも映る。
「きれい」
「そうだね」
「すごいね」
「うん」
僕が短く答えると、君は頬を膨らます。
「こういうものばかりの世界だったらいいのに」
「それだと、テレビも、クルマも、スイーツもないよ」
「……それは、嫌」
君が涙目になる。
だから、僕はまたぷっと笑いそうになった。
だけど、やめる。
少し黙って海を見た。
「でも、そう思うような景色だね」
君は答えなかった。
すぅーと、海へと抜けて行く風に身を任せる。
「やっぱり近くまで行ってみようよ」
「嫌よ」
「なんで?」
「だって、なんか怖い」
君は海から目を逸らす。
海にはもう、サーファーもいない。
ザザァン、ザザァン。
しばらくして、君が立ち上がった。
「そろそろ、帰ろ」
「うん、門限に間に合わなくなる」
「それは、ダメよ」
「じゃあ、急ごう」
僕も立ち上がる。
二人でもう一度だけ海を見る。
ザザァン、ザザァン。
暗くなった海は、さっきよりもちょっと遠く感じた。
「ねえ」
歩き出したあと、君が言う。
「また来れるかな」
足が止まる。
「来れるよ」
僕はできるだけ軽く言った。
「うん」
君は少しだけ笑った。
振り返ると、海はもう暗闇の中に溶けていた。
ザザァン、ザザァン。
僕は前を向く。
あっちに行けなくても。せめて、この時間だけは、どこにも流されないように。
隣には、君がいる。
……それだけで十分だと思った。
最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この短編集が、どこかで思い出してもらえるものになっていたらうれしいです。




