家庭教師、約束する
小声で弱音を吐いてみたら、大姫がもぞもぞと動いた。
ぱちっ、と目を開ける。
「斎迩の君、もういらっしゃれないの?」
わたしは率直に答えた。
「いえ、来られるとは思います。ただ、いつになるかが分かりません」
大姫は、パパ殿からわたしのことを聞いている。そのうえで、生身の人間としてのわたしを心配してくれた。この寝間では、ある程度、事実を説明しようと思っていた。
「大姫様。わたしは普通の人間ですが、こことは違う世界から来ているのです。殿様からの、家庭教師の依頼の文が届いて、家の扉を開けたら、このお邸に着いていました。どうしてそうなるのか、わたしにも分からないのです」
そして、これまでは、ふたつの世界を行き来しても時間のズレがなかったのに、今回初めて、三か月ものズレが生じたことを話した。
「推測ですが、このズレは、今後大きくなると思います」
「それは……、これからどんどん斎迩の君に会えなくなるということね?」
大姫はべそをかいたが、ぐっと堪えた。
「斎迩の君は、今までもふたつの世界を行き来していたの? お父様が、土御門院の彰子様の師だったと仰っていたけれど」
「はい。ふたつの世界を行き来すること自体は、わたしには珍しいことではありません。でもこれまでは、終了時期がはっきり分かっていて、きちんとご指導も終わらせて、ご挨拶も済ませていました。時間がズレるなんて、初めてです」
大姫はじっと考えていたが、「それじゃないかしら」と呟いた。
「ご指導を終わらせるって、具体的には、何か目標があって、それが達成されたということよね」
「あ、はい、そうですね。だいたいは期間で決まります。半年とか一年とか。試験に受かるまで、などの場合もありますけど」
藤原道長の娘、彰子の場合は、すでに入内が決まっていて、期間限定の女御教育だった。極端に人見知りの彰子を、なんとか人付き合いできるまでにしたのだ。
「やっぱり、それよ! あのね、斎迩の君は、わたくしの花嫁教育にいらしたでしょ? でもわたくしは結婚する気がないから、終わりがないのよ、きっと!」
花が咲くようにぱぁっと笑う大姫を見て、複雑な気分になる。12歳の女の子が、こんなに嬉しそうに、結婚しないと言っちゃっていいものか。
「え、でも、結局、大姫様は古今和歌集もかなり覚えられましたし、お化粧もなさるようになって、十二単の着こなしもお出かけのマナーも、すでにばっちりですし……。もうお教えすることはないのでは」
「違うわ、最初に対面したときのこと、思い出して、斎迩の君。大輔の君が言ったこと」
――大姫様がステキな公達とすばらしいご結婚をなさるまで!
たしかに、大輔の君は、そう叫んだ。
あの時わたしは、どんだけブラックな契約なんだと恐れおののいたものだ。
「お父様はあのような感じだから、特に期限など定めなかったのでしょう? 大輔の君はわたくしの筆頭女房だもの、それが、期限になっているのではくて?」
盲点だった。
タイムリープ自体が説明のつかない出来事だから、行き先で起こる事も曖昧でも仕方ないと、端から諦めていた。
だが、わたしは家庭教師先とは、必ず契約書を交わす。
「指導期間」の条件設定のせいで、今、こういう事態になっている、という大姫の主張は、説得力があった。
つまり、大姫の貴婦人教育はかなり終盤に近付いているが、結婚までは遠いから、契約完遂ではない。それが、時間のズレという齟齬になって表れているという解釈だ。
「――家に戻ったら、契約書を確認してみます」
半ば呆然としながら答えるわたしを、大姫が覗き込む。
「ね。わたくし、斎迩の君のお役に立った?」
「もちろんです! まさか今の状態に説明がつくとは思ってもいませんでした。すごいですよ、大姫様!」
「よかったわ。わたくしでも、斎迩の君のお役に立てたのね! いっつもお世話になるばかりで、初めてだわ、嬉しい!」
屈託なく喜ぶ大姫に、不意に涙がこみ上げてくる。
「なに、言ってるんです。大姫様だけがわたしを心配して、探し続けてくれたじゃないですか。ものすごく救われましたよ、わたし」
現代でさえ、第一志望校に合格させて感謝されたとしても、連絡の取れなくなった一人暮らしアラサ―家庭教師を心配して探してくれる教え子が、どれだけいるだろう。
「斎迩の君は、わたくしにとって大事な方だもの。……最初は、お母様みたいになってほしいと思ったけれど、斎迩の君は、あくまで家庭教師のままだったわね。そういう距離感も、わたくしには新鮮だった」
大姫は、ひたとわたしを見つめる。
「家族でも女房達でも、けら男たちみたいでもない。先師のお方様のように上のご身分の貴婦人として諭すでもなく、使用人としておもねるでもない。いろいろ考えていて、ただ信頼できる大人、なんだなぁって。そういうお知り合いが他にいなかったから、気づくのに時間がかかったの」
でも、と、大姫は続けた。
「今日、お父様や家宰と話していたときの斎迩の君は、全然違っていたわね。権謀術数に長けた、腹芸も駆け引きもなさる大人だったわ」
いや、どっちかというとそういうのは苦手な分野なのだけれど。
死体の着物の行方やら、院を脅迫したやら聞いたら、そりゃ驚いただろう。
「大姫様には刺激が強すぎましたよね」
「違うのよ、そうではなくて。斎迩の君は、わたくしには、徹底的に、師としてのお顔しか見せていらっしゃらなかったのねって、分かったの」
大姫の成長は、わたしの予想をはるかに超えていた。
子どもは、自分の見た姿しか、理解しない。親はあくまで自分の親だし、教師はどこまでいっても教師だ。両親にもラブラブな時代があったはず、とか、教師だって悩んでいるかも、とか、思いも及ばない。
自分に見せている顔以外にも、違う顔で過ごしている世界が他にある、と、周囲の大人を認識できるようになって、初めてその子どもは「大人」を知る。
そして、自身も大人に一歩近づくのだ。
「大姫様。もう、じゅうぶん、大人になられましたね」
わたしは、心からの賞賛を込めて、大姫の頭を撫でた。
「大人は、頭撫でられたりしないと思うの」
照れ隠しに膨れる大姫に、
「い~え~。大人も、頭撫でられると嬉しいものなんです。大姫様も、お好きな公達ができれば、分かります」
「わたくし、結婚しないって言ってるじゃない」
「子どものうちは、そういう心境になる時期もあります。大姫様は、ご結婚なさると思いますよ」
「なぁに、大人って言ったり、子どもって言ったり。今日の斎迩の君は、つじつまが合わないわ」
文句を言いつつ、大姫はおとなしく頭を撫でられていた。
大姫は、年齢相応に成長している。その年齢でしかできないことを経験している人間は、健やかだ。自然に、年齢相応の行動を選択するようになる。
大姫は、いわゆるお年頃になれば、自然に恋を知るだろう。
それが結婚に結びつくかは、分からない。藤原北家中御門家は、政略結婚には充分すぎる家柄だ。
でもパパ殿は、政治よりも、その人の幸福を考えられる人だ。まさに今日、わたしも助けてもらった。
あのパパ殿が、大姫が本気で嫌がる男と、ムリヤリ結婚させるとは考えられない。
それでも、わたしも、防波堤としての役割を残しておこう。
「大姫様。お約束します。これからはお会いするのも、間遠になるでしょう。でも、わたしは大姫様が幸せなご結婚をなさるまで、ずっと大姫様の師でいます。だから、たとえ何年、間が空いても、わたしが必要なときは文を書いてください。必ず、参ります」
大姫は、うっすらと涙を浮かべて、頷いた。
わたしは、軽く大姫を抱きしめた。
慕わしい子。かわいい教え子。
けれども、必ず別れる子。
わたしの知らないところで大人になっていく子。
久しぶりに、家庭教師の寂しさを感じながら、わたしは大姫と熟睡した。




