家庭教師、動揺する
「はぁ?! 大僧じょ……っ、ちょっ、まっ……」
お白湯が気管に入った。
ゴホゴホむせ返りながら、わたしは心の中で、反論する。
あの、パパ殿だよ?!
ロリコンだよ?!
ていうか、なぜ、大姫に聞く?
まずはわたしに意思確認しろ!
撫子の君が背中をさすって、自分のお白湯を分けてくれたが、あまりに咳込みすぎて、お湯すら飲めない。
その間に、大僧正と大姫は、のんしゃらんと会話を続けていた。
「あの、行尊様。わたくし、斎迩の君がお母様になるのはとても嬉しいですわ。でも、お父様の、あの、女性のお好みは、その……」
「そこは気にせんでえぇ。結婚と好き心は別じゃでな。そうか、大姫は、斎迩の君が母君になってもよいか」
「ええ。斎迩の君は、いろいろなことをご存じで、わたくしに大切なことを教えてくださいます。ご一緒にお風呂に入ったり、添い寝したりしてくださいますし」
「おお、なんと、すでに母娘のようではないか。善き哉善き哉」
「ちょっと待て! ストップ! タンマ! 注目!」
やっと復活したわたしは、必死で割り込んだ。もはや自分でも何を言っているのかよく分からない。
「大僧正! わたしの意思はどうなるんです。そこ、ゲホッゲホ、か、確認してくださいよ! ていうか、なにをどーしたら、そんな、かっ、ゴホッ、考えが出てくるんですか!」
「んあ~、速足も充分、しちめんどくさくて頑固者じゃろが。先師殿には、お方様がおる。速足にも、出来のいい妻が必要じゃて」
「なんで、それが、わたしなんです?!」
「速足とそなたは、相性が良い」
思いのほか、きっぱりと言い切られてしまった。
「速足は、話も説明も下手じゃ。じゃが、なんとのぅ、斎迩の君とは話が通じとるじゃろ。斎迩の君に叱られても、速足は、怒りもせず聞いとる。楽しそうですらある。拙僧は長いつきあいじゃが、そんな女人は初めて見た」
驚いたことに、大輔の君や、ボーイズ、他の家人達まで、うんうんと頷きだした。
「そなた、自覚しとらんじゃろ。速足の、あのぐだぐだの報告を、意味の通じる会話に翻訳できる者は、内裏でも稀じゃぞ。ヤツは、書類仕事も壊滅的じゃ。一度で正確に書けたためしがない。あれはもう、天賦の才じゃな」
えらい言われようだな、パパ殿。
「じゃが、心根は宝玉のようじゃ。蔵人としての腕前も、笛の技術も優れておる。今上への忠誠心はゆるぎない。あのような男こそ、今上に必要じゃ。これは、拙僧だけの想いではないぞ。左府も蔵人頭も近衛府長官も、皆、同じ考えよ」
想像以上に周りから愛されているパパ殿に、大輔の君などは感激して、目を潤ませている。
――いやいや、なんかイイ話っぽくなってるけど、パパ殿の嗜好を考えてよね?!
周りに話の通じる女人がいなかった、って、当たり前ではないか。パパ殿は、徹頭徹尾、10歳そこそこの女の子としか付き合ってこなかったのだ。
大僧正は、結婚と恋愛は別、とかぬかしていたけれど、わたしとしてはそこはスルーできない。何が悲しくて、ロリコンの男性と、政略結婚(なのか、これ?)しなけりゃいけないのか。
「いえ、あのですね。大僧正、わたしにも、好みとか都合というものが……」
「黙らっしゃい。だいたい、そなたもとっくに嫁き遅れじゃろうが。こんな良い娘ができるんじゃ、ありがたく思え」
はい、みなさ~ん、ここにセクハラ僧侶がいま~す!
って言っても、虚しいだけだけどさ。
この時代の女性の適齢期は15~17歳だ。30代で亡くなる人が多いことを考えれば、それくらいで結婚して子どもを産むのが義務になる。
古今東西、女性は年齢に追いかけられて結婚を決めてきた、長~い歴史があるのだ。
むしろ、結婚の世話をしたがる人がいる女性は幸せな方である。
とはいえ、相手がパパ殿ということを百万歩譲って差し引いても、わたしにはこの時代で生きるのは、ムリだ。
たった3日間、こちらで寝泊まりしただけで、着物は重いし動きにくいし、ご飯は足りないし、板の間に寝るのが体中痛くて熟睡できないし、ふらふらになった。
今だって、ヒートテックの上にホッカイロを貼って着ているのだ。
冷暖房も水洗トイレもスマホも握り寿司も羽根布団も本もマンガもビールもない生活なんて、絶対にムリ!
タイムスリップしちゃった女の子がその時代に残るのは、そんな文明の恩恵を投げ捨てでも添い遂げたい運命の相手と出会っちゃったときだけ。引き留められるのは、大恋愛だけだ。
わたしとパパ殿に、そんな要素はこれっぽっちもない。
――今はおとなしく聞いておいて、後日正式にお断りしよう。
わたしが静かになって大僧正は満足そうだったが、思わぬところから援護射撃が来た。大姫だ。
「あの、とっても残念ですが、斎迩の君は、お義母様にはおなりにならないと思うのです……。お父様から、斎迩の君は、我が一族の大切な方だと、伺いましたから」
「中御門家の? そりゃなにか、中御門の宗忠と速足の兄弟で、斎迩の君を取りあっとるのか?」
なんでそうなる! 行尊殿、じーさんでぼーさんのくせに恋愛脳か?!
「い、いえ、そうではなく……。あの、我が家では、家庭教師は一族の宝なのです。お父様お一人が独占できるものではありません。土御門院の頃からそういう教えなのだそうです」
うわ。
これは確実に、大姫は、パパ殿から例の口伝を聞いたのだ。
迷惑な口伝だけれど、この場ではありがたい。
「ほ……う、土御門院がの……。それでは、拙僧から速足に話をするとしよう」
大僧正が楽しげに不穏なセリフを言い放ったとき、男性の一団が室に入ってきた。
いちおう几帳は置いてあったので、慌てて大輔の君達が立てかける。大姫と女性陣を全員隠すには、狭い。わたしは場所を譲って、几帳の外に出た。扇で顔は隠すが、今さらである。
入ってきたのは、ほとんどが近衛士だったが、彼らに囲まれた中心の一人だけが、違う服装だった。貴族の家人のようだ。
近衛士のひとりが声を張り上げる。
「お探しの女は、当寺院にはいないようです」
「ふん。そうじゃろの。もうよい」
大僧正が手を振ると、一団はざっと退出していった。
入れ替わりに、三宮院の僧侶が入ってくる。
「先師のお方様がいらっしゃいました」とのこと。お方様は、先師殿のダダに勝ったらしい。
大姫に事件の概要を伝えていることを知ると、大僧正は今日の目的を説明してくれた。
令子内親王のお邸に投げ文をした人間は、まだ見つかっていない。が、その後の捜査で、女性だという目撃証言が上がったそうだ。
最初は、誰かに雇われた市井の者が投げ入れたと考えられていたが、投げ文を見せられた左府殿が、見覚えのある手蹟だと言った。おそらく自分の邸の女房だと思われる、と。
「その女房が、ちょうどあの投げ文の後から行方不明での。三宮院に匿われているかと、捜索しておったのだ」
それで三宮院の僧侶達が怯えていたのか。
できるだけ連座を減らす意向なので、三宮院自体はお咎めなし、と決まった。大僧正はその結果を伝えに来たはずなのに、そのわりには寺の雰囲気がピリピリしすぎていて、不思議に思っていたのだ。
おっとりと入室してきた先師のお方と、ゆったりのんびり貴族のご挨拶を繰り広げた後、大僧正は、お方様にも問題の投げ文を見せた。
お方様は、左府のお邸に住んだことはないそうで、投げ文の手蹟は知らなかったが、女性ならではの情報があった。
「左府殿のお邸に、勝覚殿の熱狂的な信奉者がいたそうなのです。その女房が、ここしばらく暇を取っている、と聞いたのですが……」
「勝覚殿、ですか? 仁覚ではなく?」
「ええ。勝覚殿のお優しさ、徳の深さに心酔していたようですよ。左府殿が、醍醐寺に贈り物や寄付をなさるときには、必ずその女房が届け役をしていたとか」
「ほう」
大僧正の瞳がぎらっと光った。わたしも行尊殿の考えが分かった。
その女房の行方を追えば、醍醐寺の座主、勝覚の関与が証明できるかもしれない。
「女房名はなんというのかの」
「たしか……、ああ、霧舟とかいうそうですわ。勝覚殿も、ご家族の犯罪を見逃しもできず、暴くことも心苦しく思い悩み、その女房に投げ文を頼まれたのではないでしょうか」
お従きの女房に、霧舟、という名前を聞いたお方様は、こともなげに告げた。
もともとお方様は、勝覚にはいい印象を抱いている話しぶりだった。先師殿も悩んだ末に、お方様に投げ文を頼んだので、同じパターンだと考えているようだ。
「拙僧は、今朝早くからこちらに参って、仁覚の罪はこの三宮院には及ばず、と申し伝えたのじゃがの。左府殿の名代であるお方様からも、改めて執事らを安心させてやってもらえると、ありがたい」
多少、唐突とも思える依頼に、お方様は微笑んで快諾した。ついでに、池の鴨を見ようと、大姫を連れ出す。話に飽きはじめていた大姫は、喜んで応じた。
「やれやれ。さすがに、大姫には聞かせたくない話もあるからのう」
まったく分からなかったけれど、大僧正とお方様の間では、大姫をこの場から外してほしいという意思疎通ができていたらしい。ここら辺の貴族の会話の機微は、わたしにも理解不能だ。やはり、この時代にわたしが生きていけるとは、とても思えない。
またぞろ結婚の話かと身構えたが、大僧正の話題はもっと剣呑だった。
「霧舟じゃが、おそらくもう始末されとるじゃろうな。座主を追い込む手立てになるかと、期待したんじゃが」
「醍醐寺に匿われているってことは、ないんでしょうか」
「そなた、えげつないことを平気で言うわりには、たまに甘いの。あの勝覚じゃぞ。そんな生ぬるいわけがなかろう……それに現状、醍醐寺を捜索する理由もないしの」
「はあ……。そうですよね、左大弁ならともかく、貴族でもない女性がそこら辺で死んでいても珍しくもないですし……。あっ、でも!」
思いついた。芥川龍之介の『羅生門』だ。
「霧舟が平民の服を着せられていたとしても、身なりの良さは目立ったはずです。あの、死体から髪の毛を抜き取る人達がいますよね、売るために。そういう人に聞いてみたらどうでしょう? 印象に残っているかもしれません」
大僧正は、顔をしかめながら苦笑する、という器用な芸当をしながら、
「やはり、えげつないことを思いつくのぅ……。じゃが、いい着想じゃ。検非違使に言って、当たらせよう」
ぐいっと冷めきったお白湯を飲んだ。
「ついでに、速足にも手伝わせようかの。たしかヤツは、2日後の朔(新月。月初め)が宿直だったはず。それまでは拙僧がこき使ってやるわい」
蔵人の仕事も充分、重労働だと思うけれど、どうもパパ殿は、近衛府や大僧正にまで便利に使われているようだ。
まあ、官位は低くても高位貴族の生まれで、内裏の内情に通じていて、かつ荒事に秀でている人は、あまりいないだろう。使い勝手がいいのは、分かる。
「本当は毎月、朔の晩に宿直をやってほしいんじゃが。特別手当も出すというのに、聞く耳持たん。ま、ヤツはカネが欲しいわけでもなし、出世欲もなさすぎるしの」
陰暦の一か月は、28日だ。宿直は4~5日おきに回ってくるので、同じ人が毎月朔の夜に不寝番をするとは限らない。
「今上が左大弁の蜂に襲われたのが、長月(9月)の朔日じゃった。その夜に、速足が証拠を見つけたからこそ、早く解決のメドが付けられたんじゃ。朔の夜の宿直は、できればいつも、速足や慣れた者達にやってもらいたいのじゃがのぅ」
――ああ、それに、左大弁が殺されたのも神無月に入る夜だったっけ。そっか、朔だったんだ。
院御所で、ライターを点けただけで物の怪扱いされたくらいだ。月明かりと灯明だけのこの時代、朔の夜は、真の暗闇になる。
当然、恋のハンティングもお休み、盗賊や人斬りなどが跋扈する夜になる。犯罪率が跳ね上がるのだ。
「さっそく明日、速足を呼び出すとするかの。結婚も説得せねばならんし、忙しいて」
うきうきしている大僧正をきっぱり無視して、わたしは大姫とお方様のいる池に向かった。




