家庭教師、外出する
先師のお方様のご実家は、やはり藤原一族で、父親は権大納言。れっきとした公卿、当家より格上だ。
もともと泊まる予定でなかったわたしは、大輔の君から、いちばんいい外出着を借りた。
大姫に出くわさないように、こそこそと用意をして、撫子の君と牛車に乗る。
乗った途端、撫子の君の側に車が大きく傾いで、悲鳴のような軋んだ音を立てた。心なしか、牛車を引く下男達の顔色も悪い。
こういう時に、八助さんがついて来てくれると心強いのだが、門前にはいなかった。まだ近衛府で、捜査に協力しているのだろう。
権大納言家は、歩いたほうが早いほどの近所だ。とはいえ、撫子の君は、歩くなど思いもよらないだろう。それに、聞いておきたいこともある。
「わたしのことを、先師の方に、どのようにお話なさっていたのですか」
撫子の君がわたしのことを話題にしないかぎり、こんな無茶な指名が来るはずがない。
撫子の君は、わたしを連れ出すことに必死になったあまり、今は虚脱状態になっていた。我に返って、
「も、もうしわけありません、斎迩の君。お方様はそれは気落ちなされていて、私は、ただお心をお慰めしようと、日々の文をお送りしていたのです……」
とはいえ、勤め先のお邸の情報を漏らすのは、高級女房としてはご法度である。
もちろん撫子の君も、当たり障りのない季節の挨拶などを書き送っていたらしいが、いかんせん、速足の蔵人やその姫君の変人っぷりは、有名だった。お方様からは心配のお言葉が、元同僚達からはからかいの文が来て、少しムッとしたと言う。
そんな時に、わたしが参内した。
速足の蔵人も、大僧正や蔵人頭から信頼されて、何やらお役目を果たしているらしい。
「つい、文に自慢めいたことを書いてしまったのです……、今上にも大僧正にも信頼厚いご主人と、家庭教師がいるお邸だと」
なんとなく、想像はつく。
もともと撫子の君本人も、大姫に呆れていたのだ。それでも、元同僚や上司に、転職先が大失敗だったとは言いたくなかっただろう。それが、勤め人の人情というものだ。
撫子の君は、今上暗殺未遂事件も、わたしが実際には何をしたのかも、まったく知らない。
それでも、見栄も手伝って、お方様には、そうとう盛った内容の文を送ったのだろう。
そして昨日、そのお方様は元夫から、文を受け取った。
――どうしていいか分からないところに、最近撫子の君からもらった文を思い出した。ぜひその家庭教師に、相談に乗ってほしい。
おーい!
いろいろ言いたいことがあって、ため息が出る。
「会ったこともない家庭教師風情を、脅してまで頼るなんて、その方が危険だとは思いませんか」
「でも、ご当家と先師の殿は、ご親戚ですから」
そりゃ、今の藤原氏は元をただせば全員親戚だよ、とヤサグレたが、そんなものではなく、実際の近親者だった。
なんと、左府殿は、パパ殿の祖父なのだそうだ。左府殿の長女が、パパ殿の生母である。ということは、先師の殿は、パパ殿の叔父に当たる。
「ええ。先師の殿が8歳年上なだけですが。和歌や漢詩も、先師の殿がお教えしていたそうですよ」
それならば、出仕していた頃、仲が良かったというのも納得である。
そして、先師の方の脅しが、単なる言葉だけではないことも分かった。
もしも本当に左府殿が黒幕なら、直系一族でパパ殿も連座、という図式も、現実的になってくる。
それにつけても、パパ殿は、ナゾだ。
この時代、宮廷の出世は、100%、血筋と家系で決まる。本人の能力なんぞ関係なく、ほとんどトコロテン方式に昇格するはずなのだ。左大臣の孫が、なぜに17年間も五位のままなのか。
堀川通に出て、権大納言家に着いた。当家とは、三本筋が離れているだけだ。
礼儀正しい門番や折り目正しい家宰(執事)に迎えられ、先師の方のいらっしゃる西の対屋に入った。
一段高い御座所は、当然のごとく御簾が下ろされ、局には菊の香が漂っている。わたし達の席を設えている女房も、白湯を運んでくる女房も、滑るように膝行する。
元同僚に久しぶりに会うはずの撫子の君も、他の女房も、片手に扇を掲げ、まったく顔を見せない。
最近忘れがちだったわたしも、慌てて扇を当てた。
おしゃべりどころか、衣擦れの音も最小限、呼吸さえはばかられるような静けさだ。
――これが、まっとうな、高級貴族女性かぁ……。
ここと比べたら、大姫の局は、保育園のお遊戯タイムである。
撫子の君がわたしを紹介し、御簾の手前に座っている女房が、先師の方のお礼の言葉を告げる。
その後、延々と、季節の挨拶の言葉が交わされた。
これが、正しい貴族の訪問なのだ。
むしろ、こちらに最大限の礼儀を尽くしてくれているのだと、理解はできるけれど……、時と場合によらないか。
脅してまで人を呼びつけておいて、別にこっちは、紅葉の話などしたくはない。そこまで、貴族とは余裕を見せなければならないのだろうか。
完璧に整えられた室内。
堅苦しい家人達。
一部の隙もないマナー。
先師の方は、模範的な貴婦人すぎて、融通の利かないタイプなのだろう。
融通が利きすぎるお邸に勤めているわたしとしては、一連のセレモニーが終わるのを、ひたすら待つしかない。
それにしても、このご主人に仕えた後、撫子の君は、よくぞあの大姫に順応したものだ。わたしが思っていたよりもずっと、プロ意識の高い女房である。
撫子の君と御簾の前の女房が交互に言葉を交わしている間、わたしは周囲を観察しながら、そんなことを考えていた。
そうして、やっと、先師の方本人が、初めて口を開いた。
「ほほ……。斎迩の君には、竜田川よりも飛鳥川がお好みのご様子……」
周囲の女房達がすっと立ち、音もなく退室していく。2人の女房だけが残った。この2人が、お方様の腹心なのだろう。
同時に、するすると御簾が上がる。
わたしも撫子の君も平伏したが、上目使いで扇から覗いて、驚いた。
御簾の背後には、几帳が立ててあったのだ。
まさかの、まだ、お方様と対面できず!
そのお方様のセリフも、めちゃくちゃ回りくどい。
竜田姫は、秋の女神。竜田川は、紅葉が散っている川のことで、「紅葉」の縁語だ。飛鳥川は、「明日、川か」と掛けて、「今日川だったところも明日には変わっているかもしれない」が転じて、「世の無常、儚さ、変わりやすさ」を示す。
つまり、お方様は、
「紅葉よりも、世の中の無常について話しましょう」
と、振ってきたのだ。やっと。
これを合図に女房達が一斉に退出したということは、事前にお方様から命令が出ていたのだろう。ここの女房は、ほとんど軍隊並みの練度である。
こんな調子で、これからも会話が続いたら、いろいろ大丈夫か、わたし……。
縁語や掛詞、ほのめかし満載で話されたら、意味をつかむだけで精一杯になる可能性もある。
こちらとしては、近衛府に届け出るよう、お方様を説得したいのに、逆に丸め込まれてしまいかねない。
なにより、単純に、会話が、面倒くさい!
ただでさえ、アウェイなのだ。会話の流れまで相手に決められていたら、交渉が成功するはずがない。
気合いを入れ直し、わたしは、単刀直入に切り出した。
「お召しにより参上致しました。投げ文の件、当家ではお受けできかねます。どうぞ近衛府にお届けくださるよう、ご了承をいただきに、参りました」
残った二人の女房が、動揺した。
几帳の陰から、息を飲む音がする。
こんな直接的な会話は、初めての経験だろう。
この部屋の人々の、初めての人間くさい様子だ。
「失礼の段は重々承知しています。が、今は一刻を争う時。早くお話を詰めたほうがいいかと思います」
無言の几帳に向かって、言葉を被せる。
「なぜ、先師の殿は、あのような事実をご存じなのでしょう。仮に、なにかの拍子に耳に入ってしまったのなら、そのまま近衛府に告げればよいのです。無実であればなおさら、告発したほうが、信ぴょう性が増します」
二人の女房が、顔を見合わせる。
「本当に、左府殿が、呪詛を命じられたのでしょうか。わたしは内裏で、少しお話を伺いました。蔵人頭も大僧正も、そのようなお考えでは、なかったようですが……」
あの場にいた全員が、左府黒幕説には、いまひとつ積極的ではなかった。
わたしの言葉に、几帳の陰が、大きく動いた。
手ごたえを感じる。
やっと、こちらのターンだ。
さらに続けようとした瞬間、
「斎迩の君ー! わたくしも来たわよ!」
場違いに明るくて元気な声が、響き渡った。




