家庭教師、感謝する
――お、大姫?!
西の対屋への渡殿(渡り廊下)辺りから、このお邸には不似合いな叫び声が、複数行き交っている。
「あれ、お待ちを!」
「こ、これ! そっちに行ってはいかぬ!」
「そう、こっちなのね!」
たたたたっ、と馴染みのある軽い足音が聞こえ、大姫が局に駆け込んできた。
後ろから、女房や家宰が息も絶え絶えに追いかけてくる。
だいたいの事情が読めて、わたしは、天を仰いだ。
――大輔の君~、押さえておいてと言ったのに~!
まあ、大輔の君だけの責任でもない。
大姫は、わたし達3人の会話を盗み聞きしていたのだろう。
いつもは大輔の君が、つきっきりで食事の世話をするのだ。今朝だけ中座すれば、不審に思って当然である。
そもそも、わたしは急きょ泊まったので、大姫の寝室の近くの小部屋で着替えていた。そこに撫子の君が転がり込んできた。そのまま、あまりに不穏な内容の文だったので、つい板戸を閉めきって、3人で熟読してしまった。
その気まんまんの大姫にしたら、ラクな立ち聞きだったことだろう。
「お、大姫様、なんというお姿で……」
撫子の君が、絶句している。
大姫は、衵を着ていた。背丈と同じ長さの着物で、幼児の服装である。化粧もせず眉毛も抜いておらず、お歯黒もしていない、とはいえ、さすがに大姫はもう、幼児には見えない。チグハグ感が半端ない。
もう、なにをどこから突っこんでいいか、わたしも混乱しかけたが、
「大姫様。まさかお一人でいらしたわけではないでしょう。供は誰ですか」
超ご近所とはいえ、平安京を、大姫一人で歩かせるのは、危険だ。というより、あの四虫ボーイズが、そんなことをさせるはずがない。
「いなご麿とひき麿と雨彦よ」
「けら男はどうしたんです」
あの子なら、大姫を止めてくれた可能性がいちばん高いのに。
「いなかったわ。家宰に頼まれて、お父様を探しに内裏に行ったそうよ」
そして今、門前には八助さんもいない。
大姫は、抜け出し放題でもあったわけだ。
「急いで着替えて、ずっと牛車の後を追いかけていたのよ。気づかなかったでしょう? でもお邸に入るのが難しくて、手間取ってしまったの」
ボーイズの3人が、侵入の手助けをしたのだろう。具体的にどんな手を使ったのか、とてもこの場では聞けない。
几帳の陰の、沈黙が怖い。
どう収拾をつければいいのか、皆目見当もつかないが、とにかく謝るしかない。
わたしが向き直ると、静かな声が聞こえてきた。
「知りにけむ聞きても厭へ世の中は 波の騒ぎに風ぞしくめる、と申しますものね」
一瞬、反応ができなかった。
少し遅れて、理解が追いつく。
これも古今和歌集の、布留今道の歌だ。先師の殿が薄様に書きつけてきた2首より、少し前の歌である。ここから「世の中を憂う」シリーズが始まるのだ。
「とっくに知っているだろうが、知らないなら今から厭え。この世は波が騒ぎ、風が吹き荒れるほど、つらくてイヤなものなのだ」という意味だ。
根暗な歌だが、問題はそこではない。
お方様は、大姫闖入より前の会話を、するっとそのまま続けているのだ。先師の殿の和歌2首を受けて、続きを促している。
これは、大姫の存在を無視する、という意思表示に他ならない。
それでいて、「波の騒ぎに風ぞしくめる」は、大姫の騒々しさも、指している。「厭わしいこと」と皮肉を言っているのだ。
――うっわ、当たり前だけど、めちゃくちゃ怒ってるよ……。
さらに悪いことに、張本人の大姫が、イヤミを言われたことに気づいていない。それでも、無視されたことは分かったようで、ムッとしている。
ああああ。
大姫がこれ以上、口を挟まないうちに、どうしても、退出させなければならない。
大姫が行儀悪く、ルールを破ったから、だけではない。この場は、はっきりと、犯罪とその隠ぺいについての、取引である。
11歳の少女に聞かせていい話題ではない。
「大姫様、わたしは、先師の方様と、とても大切なお話があるのです。わたし達が使った牛車に乗って、雨彦達と、先にお邸にお戻りください」
「大切なお話だと知っているから、わたくしも来たのよ。わたくしだって、お役に立つわ」
「大姫様、どうあっても、お帰りいただきます。先師の方様にご無礼を謝罪なさって、ご退室ください。それまでわたしは一言も口をききません」
「いやよ! わたくし、考えたのよ。あのね、投げ文をする前に、醍醐寺の千手丸とかいう寺男に会いに行ってみてはどうかしら。それで……」
「いと、くらし」
先師の方が、遮った。
「晦し」は、愚か、という意味の古語だ。
几帳の陰から、和紙が出てきて、女房から家宰へと指示が渡った。おろおろしていた初老の執事は、おもむろに局を出ていく。
「斎迩の君。私も先師の殿も、左府殿が恐ろしいことをしでかすとは、どうしても思えないのです。内裏では、本当に、そのような雰囲気なのでしょうか」
お方様は、何事もなかったかのように、言葉を続けた。
けれど、これは、お方様のもっとも長いフレーズだ。いちばん心配している事なのだろう。
「愚か」と切って捨てられた大姫は、その後自分をまるっと無視して話が進められたことに、怒るのも忘れて、驚いていた。
なんだかんだ言っても、大姫は、あの邸の東の対屋の主人である。
変人姫君としてからかわれたり笑われたりすることはあっても、人から無視された経験がないのだ。
こんな時だけれど、わたしは、お方様に感謝した。
雇われ人は、大姫を叱ることはできても、無視することはできない。
特に、家庭教師であるわたしは、大姫を叱り、どこが悪いのか話して聞かせ、納得させなければならない。それは、無視とは真逆の態度だ。
けれど、世間の一般的な反応は、お方様と同じはずなのだ。
常識から外れた「困ったさん」に対して、世間の人々は丁寧に叱ってくれたりしない。ただ、その場にいないがごとく、無視されるだけである。
あのお邸で、使用人にばかり囲まれている大姫には、決して知ることのない、世間の冷たい風だ。
だから、わたしも、お方様の会話に乗っかった。
あえて、大姫を無視する。
「ええ。大僧正は、左府殿の望みは権勢ではないと。他にあると、仰いました」
「なんと……っ。そうなのです、左府殿は、ずっとわが夫、先師の殿のことを、ご心配あそばれているのです。……大僧正は、分かってくださっているのですね」
左府殿の他の望み、とは、息子が元気になること。
たしかに、権力欲とは、次元の違う願いだ。
お方様は、先師の殿を「わが夫」と呼んだ。離縁されても、まだ想いがあるのだろう。
急に、局の前庭が、賑やかになった。
下男達が庭に入ってきたのだ。同時に、濡れ縁に、家宰が戻ってくる。
「お召しの者どもを、連れてまいりました」
お方様が立ち上がった。2人の女房に几帳で囲まれながら、お方様は階の近くまで出てくる。わたしと撫子の君も、一緒に連れて行かれた。
庭に引き据えられていたのは、いなご麿、ひき麿、雨彦だった。突棒で、押さえつけられている。
「当家に侵入した不届き者でございます。いかが致しましょうや」
「見たところ、まだ童のよう。命じられた主人に忠実だっただけでしょう。少し棒で打ち据えて、さっさと邸から追い出すように、とのお言葉です」
お傍の女房が、お方様の言葉を伝えた。
それまで無視されていた大姫は、勢いよく顔を上げ、階まで走ってきた。
「みんな……っ、だめよ、やめて!」
大姫の叫びは、またもや、全員からきれいに無視された。
いなご麿が、明るく、
「姫様、気にするな、しょうがない。ちょっくら打たれとくよ」
ひき麿は、
「姫様、ひとりで帰れるかなぁ? 俺達、お邸の外で待ってるよ~」
雨彦までが、しゃべった。
「不法侵入したのは、事実だ」
「それでは、皆、よろしく頼みましたよ」
女房が下男達に言葉をかけると、お方様は、くるっと向きを変えた。ジャストタイミングで、几帳も立て回されて、付いていく。
「やめさせて! わたくしがここまで連れて来させたのよ! あの者達は悪くないわ! 放してよ!」
大姫が階を乗り越えようとした。
すかさず、家宰が押さえる。
足をバタつかせる大姫を、家宰はそのまま局の中へと引きずり入れた。
一連の騒ぎを、わたしは心を鬼にして、ただ見守っていた。
抱きかかえられていた大姫は、思いっきり家宰の脛を蹴とばした。低く呻いて、家宰がその場にうずくまる。
大姫の容赦ない蹴りを食らっても呻き声を抑える辺り、さすがこちらのお邸の家宰である。というか、ウチの姫君が、いろいろと、本当に申し訳ない。
脱走するかと思いきや、大姫は、お方様の御座所の前に平伏した。
「お方様っ! 無断でお邸に入り込んで、申し訳ありませんでした。悪いのはすべてわたくしです。どうかあの者達を、許してください。わたくしが、どうしてもこのお邸に入りたいと言ったせいなのです。あの者達は悪くありません。お願いですっ」
几帳の前の2人の女房が、驚いて大姫を見つめている。まあ、普通、いいとこのお姫様は、こんなに簡単に人に平伏して謝ったりしないものだ。
几帳からは、なんの物音もしなかった。
「わ、わたくし、どうしても、お父様のお力になりたくて……、お父様はそんな必要もなかったのに、わたくしをご自分の邸で育ててくださったのです。東の対屋をくださって、わたくしの望むように暮らせばよい、と。わたくしの望みは、お父様のお役に立つことです。あの者達は、わたくしの気持ちをよく知っているのです。いつも、わたくしの望みをかなえようとしてくれます……、わたくしが、罰を受けます。どうか、あの者達を打つのは、やめさせてください。どうか……っ」
涙声の大姫の懇願に、2人の女房はもらい泣きしそうになっている。背後の撫子の君からも、鼻をすする音がする。
わたしは、あえて、まだ無言を貫いていた。
大姫が四虫ボーイズのために謝ったことも、代わりに罰を受けると言ったことも、わたしにとっては驚きではない。大姫は、基本的に素直な子だ。四虫ボーイズとの絆の強さも、よく知っている。
けれど、問題はそこではないのだ。
几帳の陰から、長い、ため息が漏れた。
すいっ、と扇が動いて、几帳が取り除かれた。
ムダのない動きだったけれど、几帳を動かす女房の驚いた顔を見れば、どれほど珍しいことか分かる。
やっと対面したお方様は、インテリアの印象どおりの、端正な美人だった。まあ、大半は扇で隠されていたけれど。
お方様は、しっかり大姫の方を向いて、
「私に話しかける資格は、貴女にはありません」
凛然と言い切った。
「貴方を晦し、と言ったのは、そういうところです」




