家庭教師、お見舞する
驚いたことに、その後、今上をお見舞いすることになった。
なんでそんなことに?!
と焦ったのは、わたしだけではない。
蔵人頭も滝口も聞いていなかったようで、特に滝口クンは猛然と反対したけれど、大僧正はどこ吹く風。パパ殿も平然とした顔だったが、この人はいつもノーテンキなので、ノーカウントである。
つまり、大僧正は、「薬師如来の御使いが、今上を見舞った」という形式が欲しいのだ。
それに、
「今上には薬師如来のご加護がある、と噂になれば、下手人も、相当に怯えるじゃろ。それで尻尾を出してくれると、見つけやすくなるのじゃが」
とまで言われたら、強く拒否はできない。
今上は、夜の寝殿から、清涼殿の祈祷の場の広間に移されていた。周りを几帳で何重にも覆われている。
この時代、まだ、いわゆる布団は、ない。
薄い茣蓙を積み重ねて、その上に寝る。体には、着物を何枚も掛ける。
これでも最高級の寝台で、普通の人は、板の間にそのまま、ごろ寝するのだ。
一段高い寝台の上に、赤い顔で荒い息をした少年が、眠っていた。
今上に触れないように言われているので、本当に、ただ、見るだけだ。
ずいぶん苦しそうだが、これでも、ウィダー○ンゼリーを食べてまた眠りに落ちてからは、かなりラクになったようだと、大僧正は言う。
「いたっ、痛い、よう……。苦し……、熱い」
荒い息の中から、今上が呻いた。
何枚も掛けてある着物を、小さな手で、はねのける。
その右手は、無数の真っ赤な斑点で、腫れ上がっていた。細い両腕にも、顔にも、保冷剤が貼り付けてある。
わたしは咄嗟に、ICレコーダーのスイッチを入れた。閉じた扇に見えるので、帯に刺しておいたのだ。
「あつ……、いやだよぅ……、助けて、痛い……」
ひとつぶ、閉じた目じりから、涙がこぼれ落ちた。
ひどい。
わたしは今まで、蜂に刺された人の症状を見たことがなかった。
犯人は、蜂の毒に詳しい人物だ。当然、刺されたらどうなるか分かっていて、こんな小さな子に、大雀蜂を仕掛けた。
許せない。
かわいそうに。
二種類の感情が渦巻いて、思わず、今上に手を伸ばす。
今上に触れる直前で、その手を、パパ殿が掴んだ。
我に返り、手を引っ込めようとして、パパ殿の手の方が震えていることに気づく。
パパ殿の顔は、真っ青だった。反射的にわたしの手を止めたようだけれど、引っ込めることもせず、その場で固まっている。目は、わたしではなく、今上を凝視していた。
「……殿様?」
囁くと、パパ殿はやっとわたしを見た。
ふっと力なく笑って、目を逸らす。額には大粒の汗が浮いていた。
「上を撫でてやってくれんかの。女人の手は、手当になると申すじゃろ」
大僧正の言葉に、滝口クンと、さすがに蔵人頭も、口を開きかけたが、眼力で黙らせた。爺ちゃん、すごい迫力である。
ああ、わたしは、無力だ。
現代人の知識も、この場では何の役にも立たない。
でも、せめて、手を当てて、少しでもラクになるのなら。
そう念じて、今上の手を、そっとさする。足も燃えるように熱かったので、保冷剤を当てる。
少し、呼吸が穏やかになってきたようなので、思い切って、額を撫でた。
涙も、拭く。雨彦が大姫の足を拭くときのように、そっとそっと、大事に。
と。
今上が、ぽかっ、と目を開いた。
「掃除の者どもを、叱らないで」
え?
反応できなかったわたしを除き、全員が一瞬で、臨戦態勢に入った。パパ殿と滝口クン、蔵人頭は、膝立ちになり、すぐに武器が取れる態勢になる。
大僧正は、ゆっくり穏やかに語りかけた。
「上、なぜ、掃除の者どもを叱ってはならないのかな」
「大極殿の階の手すりがささくれていたのでしょう? それで朕の手が痛いのだもの。でも、叱らないで」
ああ、今上は、自分が蜂に刺されたことさえ、知らないのだ。
大僧正の瞳が、強く光った。蔵人頭も、懐から紙を取り出し、書き取り始める。
「いつ、ささくれに御手が刺さったのでしょうな?」
けれど、今上は、うつらうつらしていた。今も、はっきり目が覚めているわけではないようだ。
しばらく黙った後、
「あれは、朕の笛ではなかったの」
と、呟いた。
「笛?」
「蔵人が、拾って、朕に、渡したけど、違ったの」
「今上、それは本当に蔵人だったのですか?」
焦って割りこむ蔵人頭に、今上は、視線も定まらないまま、
「蔵人だよ。朕に呼ばわって、弦打したもの」
またもや、わたしを除く全員が、息を飲んだ。
「手も痛かったけれど、その後すぐ気分が悪くなって、寝たら治ると思ったのだけど。朕が病気になると、お祖父様に怒られるでしょ。命婦も叱られるし。だから我慢していたの」
今上は、泣き出した。
この子は、こういう時でも、声を上げて泣かないんだな。ただ静かに涙をこぼし続けている。
「朕は、もう、死ぬの?」
「いいえ、上は、すぐに治られますとも。薬師如来様が、お薬をお届けくださったのですよ」
大僧正が、優しい声で語りかける。同時に、「そなたも何ぞ言え」とささやかれた。
いや、何ぞ、と言われても。
現代で調べた知識が仇になって、幼くして病気で亡くなった天皇の名前が、頭にチラつく。
それでも今、この幼い少年に、薬師如来が必要なら。
わたしは、自分が詐欺師になったような気分で、今上に語りかけた。
「もちろん、今上はお元気になられますよ。ご立派な治天の君になられることを、薬師如来様もお望みです」




