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家庭教師、お暇する

少し長くなりましたが。


 これほど長く滞在しているのに、わたしには仕事らしい仕事がない。

 門にいる八助さんとダベって、庭で雨彦の仕事ぶりを眺め、若狭わかさと大姫ネタで盛りあがり、家宰さんからは前回あげた経済と経営学の本についてあれこれ質問を受けて、気ままに過ごしている。


 そんなわたしの相手をしてくれるのは、主に、大輔たいふの君といなご麿、もとい、任三郎だ。

 大輔の君には、滞在中の着物も借りている。なんせ、出てきたときは三月。こちらは水無月みなづき(六月)も終わりで、梅雨明け間近。初春のスーツでは、かなり蒸し暑い。

 今回はお泊りアリかと思って、いちおう下着は用意していたけれど、三週間も居たら足りない。

 大輔の君が慣れた感じで、さっさと薄物の単衣ひとえを貸してくれたので、本当に助かった。

 このふたりとは特に思い出話にふけることもなく、日々世間話をしてダラダラしている。お互いに無言の時間もあるけれど、その沈黙も心地よいものだった。


「にんざって、暇なの?」


「まあ、俺、たいていこんなもんよ」


 大輔の君がくすくす笑う。


「にんざはあちこちに顔を出して手間仕事を手伝ってくれるのですよ。そうかと思うと長期間、お邸からいなくなるので、みな慣れているのです。――でも今、こちらの対屋たいのやでとぐろを巻いているのは、斎迩の君のお傍にいたいから、でしょう?」


「っ!! や、お、お殿様から警護を言いつかってんだよ。大僧正が斎迩の君を返すな、とか言い出したら困んだろ」


「えっ、大僧正ってまだわたしのこと忘れてないの?!」


 ふたりは呆れたような顔を向けてきた。


今上きんじょうの御病を治された方を、忘れるわけがないでしょう」

「あんだけ非常識な事しまくっといて、忘れてもらえると思える感覚が、信じらんねーよ。頼むから、前みたいな感じでふらふら出歩かないでくれよな」


「そ、そっか……。うん、ごめん、おとなしくしてるよ」


 慌てて謝るわたしに、大輔の君は、


「まあ、変なところで迂闊なのが斎迩の君ですけども。こういう刺激的な時間も、もう終わりなんですねぇ」


 明るく笑った。

 変に湿っぽくもなく、事実を淡々と話している感じが、かえってホッとする。いやそれだと、わたしが迂闊だってことも認めてしまうんだけど。

 旗色が悪くなってきたので、大姫の話を振ってみた。


「大輔の君は、その、大姫様と東の家宰のこと、認めていらっしゃるんですね」


「ええ。大姫様のお幸せがいちばんです。東の家宰はなかなかよくできた男子おのこですし」


「でも、殿様が出世して、大姫様が高位の公達きんだちに見初められるのが、当初の目的でしたよね?」


 おそるおそる確認すると、大輔の君は肩をすくめた。


「お殿様がご出世することはない、とよーく分かりましたから。なにせ、ご本人が宣言なさったほどですもの」


 思い当たる節がありすぎて、そっと目をそらす。

 パパ殿、たしかにわたしに約束したけれど、邸で宣言までしていたのか。


「そーそー。ビビったよな~。今上きんじょうがご健勝であられる間は、五位の蔵人のままでいる! って。御年15歳の今上がご無事じゃなくなる前に、殿様がくたばるっての」


「にんざ、不敬ですよ」、大輔の君はたしなめて、「そういうわけで、諦めたのです」とわたしに向き直った。


「その少し後から、大姫様が美人くわしめだと噂が広まって、公達きんだち垣間見かいまみに訪れたのですが、どれもこれも行儀は悪いわ、和歌のレベルは低いわ……」


 首を振る大輔の君によると、超上級貴族のパパ殿の家に、官位だけなら同等か少し上程度の中下級貴族が押しかけた。訪れるメンズのレベルはいまいちなくせに、上から目線。そのわりには、あわよくば、という期待も透けて見えていて、うんざりしたと言う。


「それで、気づいたのです。下級貴族といえば、東の家宰も同じではないかと。人間の出来という点では、有象無象の求婚者たちよりずっと上ですからね」


 なるほど。大輔の君の、大姫ファーストは健在である。

 それにしても、大輔の君の厳しい関門をクリアしただけでも、けら男の優秀さが分かる。

 と感心していると、大輔の君にしては珍しく、いたずらっぽい目を向けてきた。


「まあ、でも、本心を言いますと、私もすっかり大姫様との生活に慣れてしまったのです。今さら新しい婿殿の生活様式に合わせて肩と気を張るなんて、まっぴらですわ。その点、東の家宰なら則を超えず、今まで通りの生活が送れそうですし」


 まさかの小姑発言、いただきました。――けら男、結婚してからも、大変そうだぁ。


 大僧正にバレないように気をつけつつ、パパ殿が、ひき麿や先師せんしのお方に連絡を取ってくれたので、懐かしい人達にも会えた。


 眉毛ぼさぼさすっぴんの大姫を見て、さすがに先師の方は渋い顔をしたけれど、「わたくし、乞巧奠きこうでんで白拍子になる特訓中ですの!」と言われて、絶句した。

 その後、まじまじとわたしを見つめ、頭を振って、深いため息をついた。


「斎迩の君がお戻りになったんですもの。何が始まってもおかしくはないですわね」


 撫子の君と納得していたのが、微妙に不本意だったけれど。

 その撫子の君は、もはや以前の体形が思い出せないほどスリムになっていた。本人曰く、足湯のおかげだそうだ。


「人生最高の体調ですわ。斎迩の君が教えてくださった足湯に、季節ごとの入浴剤を試しているせいか、血の道がラクになりましたの」


 先師の方も、自分はもちろん、夫の日課に足湯を取り入れているそうだ。そのせいか、先師殿は眠れるようになり食欲も出て、だいぶ元気になっている、とお礼を言われた。


 先師の殿は、まだずっと先のことだが、朝廷に復帰する。もともと高位貴族だし知識が豊富な人なので、スタートが遅かったわりに出世するのだ。

 お方様の献身的なサポートで健康的な生活を送って、ムリなく少しずつ復活してほしい。


 乞巧奠きこうでんでは、相撲すまいの奉納もある。鍛錬で忙しいなか、ひき麿も遊びに来てくれた。

 ひき麿とはみんなが久しぶりの再会なので、大姫と四虫ボーイズと大輔たいふの君と一緒に、おやつタイムだ。


「斎迩の君~。もう、すっごく驚いたよぉ。いなくなったと聞いて心配してたら、次は光りながら醍醐だいご寺の屋根の上に浮いてるんだもん~」


 開口一番、涙目になられて、真剣に謝ってしまった。


「も~ホントにね、斎迩の君、自分がどんだけ人に大変な思いさせてるか、分かってる? 着物が飛んでって座主ざす様の首を絞めるし、斎迩の君がふわふわ近寄ったら座主様気絶しちゃうし~。おいら、今でもあの場面、夢に見るんだからねぇぇ」


 うっ。そう聞くと、かなりのホラーシーンだな……。

 霧船きりふねの着物はマジモンのオカルトだと怯えていたけれど、傍から見たら、わたし自身もホラー映画のキャストだったらしい。


「みんな怯えてお寺を辞めてさぁ。いなご麿は、ちょうどよかったな、なんて笑ってたけど、おいらは本気で怖かったの~! いなご麿みたいに図太い方がおかしいんだからねぇ!」


「ご、ごめんね、ひき麿。あ、あしひき丸になったんだっけ。すごく強いって聞いてるよ。がんばってるんだね!」


 話をそらしつつ褒めると、少し機嫌が直った。


「えへへ~。内裏だいりも怪談いっぱいなんだけどぉ。醍醐寺より怖いことなんてないって思ったら、大丈夫で~。そしたら、なんか豪胆なヤツとか言われるようになって、目をかけてもらえたんだぁ」


 ひき麿は神祇じんぎ官に所属しているので、四股名しこなを決めるのが元服と同じ扱いだったらしい。とはいえ、平民の子ども。最初は単純に「ひき丸」と呼ばれていたが、みるみる身体が大きくなり相撲も強くなって、「まるで小山のようじゃ」と言われたのがきっかけで、「あしひき丸」となったそうだ。

 たしかに、みんなで輪になって座っていても、あしひき丸だけサイズ感がおかしいくらい、デカい。お白湯さゆが入っている丼が、お猪口ちょこに見える。


「あっそうだ。斎迩の君、稽古着の湯文字ゆもじ(浴衣)ありがとぉ~。何回洗っても丈夫なのに着心地よくって、先輩達にもうらやましがられて、おいら、ものすごい偉い後見人パトロンがついてると思われてるんだぁ」


「気に入ってもらえてよかった。綿って丈夫で着心地よくて、いいよね」


「綿? 大姫様のお化粧のために油を栽培している、アレですか?」


 この時代、貴族の衣服は絹で、庶民は麻やガマなどの繊維を着ている。綿はそれほど普及していないのだ。

 大姫の白粉おしろいのためにレシピを考えてから、五年以上。当家ではすでに綿畑を拓き、大々的に栽培していた。今では東の家宰、けら男が統括しているそうだ。


「今は油を採っているけど、綿花から布地にしてもいいと思うよ。これから綿の着物の需要は高まると思うし」


 もうすぐ武士の時代が来て、公家くげは困窮にあえぐことになる。邸の経済を一手に担う家宰には、できるだけヒントを残していきたい。


「この間お土産にあげた経営の本、参考にしてみてね」


 大姫とアイコンタクトしたので、意図は伝わったはずだ。きっとけら男にアドバイスしてくれるだろう。


 そのけら男とは、時間を作ってもらって、ふたりきりで話をした。大姫様とのことを話し始めると、謹厳実直な家宰の顔が剥がれて、真っ赤になった。


「あ、責めてるわけじゃないんだよ? むしろ誰よりも応援してるから! けら男の返歌、今まで見たどんな和歌よりも、感動した。あれだけの覚悟で大姫様の気持ちを受け止めたけら男を尊敬しちゃったよ」


「斎迩の君にそう言っていただけると……。あの、もしかして大姫様もお気づきになっているのでしょうか」


「あ、裏の意味までは気づいていないよ、大丈夫。わざわざ言うことでもないじゃない」


 けら男はほっとして、思わず、といった感じでつぶやいた。


「斎迩の君が応援くださるのは、心強いです。私の気持ちに変わりはないですが、お殿様がどうお考えになられるか……」


 個人的には、あのパパ殿に、娘の恋愛に口出しする資格はないと思う。そもそも、夫としてのレベルは圧倒的にけら男の方が上である。とはいえ、けら男とけら男の父親としては、雇い主の意向は気になるだろう。


「んん……、大姫様はもともと結婚しないと言っていたくらいだから、強く主張すればいいとは思うけど……、なんならわたしからちょっと殿様に口添えしとくわ。今ならわたしの言うこと、聞くと思うんだよね」


 なんせ、お家と大姫を救う予言かねごとをしたばっかりだからね!


「えっ、いえ、斎迩の君にそこまでしていただくつもりでは……」

「それよりさ、知ってるよね? わたしが大姫様の家庭教師でいられるのは、大姫様が幸せな結婚をするまで。最近の大姫様を見ていたら、たぶん、もうわたしはここには来ない。ここから先は、けら男に任せたから。わたしがまたこの邸に来るとしたら、けら男が大姫様を不幸にした時ってこと」


 遠慮するけら男にかぶせて、言い切る。


「この世でいちばん、けら男は、わたしと再会しちゃいけない人なんだよ。――肝に銘じてね」


 一瞬無言になったけら男は、深く静かに、頭を下げた。


 そんな感じで、慌ただしいのかまったりしているのか定かでない三週間が過ぎ、乞巧奠きこうでんの日、大姫は張り切って出かけて行った。

 宴は大成功だったそうだ。宴全体ではなく、大姫と今上きんじょうのお話合いが。

 興奮している大姫と、あいかわらず要領を得ないパパ殿の報告によれば、大姫はいちばん最初の白拍子として登場し、ほんの少し舞いを指した。

 大姫は、若御前わかごぜという白拍子しらびょうし名で登場したが、短時間で根回ししたので、パパ殿の娘だということは、わりとバレていたらしい。

 すぐに今上の御座所の近くまで呼ばれて、語らった。

 今上は、本当に「薬師如来の使い」について聞きたかったらしく、話題はそれのみ。かなり長く話したが、物足りない様子で、「また話に来てほしい」と頼まれたが、


「次も白拍子の姿で参るがよい。これは良い考えじゃ」


と言っていたそうなので、


「わたくしを女御にするお気持ちはまったくなかったと思うわ」


 大姫は明るく言い放っていた。

 が、そんな話を初めて聞いたお邸の面々は、一斉に仰天した。

 けら男は、慌てながらもホッとし、その後真っ青になるという混乱ぶりだった。


――恋敵が今上だってだけでもコワイのに、大姫がひとりで片付けちゃったんだもんね。彼氏としては、ツライところかなあ。


 大姫はけら男を守りたかっただけだが、けら男としては情けない気持ちだろう。そうはいっても、内裏だいりの動向なんて、家宰が太刀打ちできる次元の問題ではない。

 大姫を娶れば、この先この手の問題に何度も直面する。

 こればかりは、けら男の腹のくくり方次第なので、わたしとしては、けら男が割り切ってくれるのを祈っている。


 乞巧奠きこうでんの宴が終わった翌日の夜。

 内々のお別れ会を開いてもらった。

 身分の上下もなく、わたしと付き合いの深い順に奥に座り、一緒に食事をした。

 若狭と八助さんは泣き出しちゃうし、家宰父子はやたら感謝してくれるし、わたしのことをあまり知らない家人たちは降ってわいたご馳走とお酒に飲めや歌えや踊れや、と、カオスな賑わいだった。


 上座の中心がわたしで、両端にパパ殿と大姫が陣取っているので、最後の仕事を片付けることにする。


「殿様。本当に、ずっと五位の蔵人のままでいらっしゃるご覚悟なんですね」


「斎迩の君と、そう約束したじゃないか」


 きょとんと杯をあおるパパ殿は、屈託がない。

 本当に、この人のこういうところは憎めない。つい、力になってしまいたくなる。平安貴族の本来の姿とは違うけれど、彼もまた、魅力的な政治家なのだと思う。


「五年後、上が変わられたら、殿様はご出世なさいますよ」


 こっそり囁いておいた。パパ殿が変なことを口走らないうちに、声を大きくして、続ける。


「もうすぐ大姫様にも良いご結婚が巡ってくるでしょう。大姫様が選ばれた人と結ばれるのが、当家の繁栄の源です」


 最初の予言かねごとは、事実だ。ふたつめは、適当というか願望だけれど、まあ、それほど間違いでもないだろう。

 隣の大姫が、大きく目を見開く。

 少し離れたところにいた、大輔の君とけら男も、わたしを見つめた。


――大事なのは、大姫とけら男の仲を、パパ殿が予言だと信じること。


 だましているようで少し気が引けるけれど、このお邸のみんなが幸せになれば結果オーライということで。

 院御所いんのごしょへの襲撃から始まって、左大弁さだいべん殺害の件など、パパ殿への貸しは、これで全部チャラだ。


「斎迩の君……、さいにの、きみ」


 見開いた大姫の瞳から、大粒の涙がぼろぼろこぼれ落ちた。扇で隠そうともせず、手拭いで拭こうともしないのは姫君としては失格だが、大輔の君でさえ動かない。


「本当に、もう、お会いできないのね」


「もう少し、あとせめて二、三日、いらっしゃれませんか」


 大輔の君が引き留めてくれたけれど、わたしが答える前に、パパ殿が口を開く。


「……いや。昨晩の宴の今上のご様子に、院も大僧正もご不審を感じられている。斎迩の君が長くとどまるほど、危険が増すだろう」


 院はどうでもいいけれど、大僧正はわたしを諦めないだろう、と言う。

 少し残念だ。大僧正は、わたしにとっては話しやすいお爺さんだった。この時代で別れを惜しみたいリストに入っていたけれど、老獪な政治家としての大僧正は、わたしを手に入れるために手段を択ばないだろう。

 たぶん、二度と顔を合わせないのが、お互いにとってベストな関係なのだ。


 まだ宴もたけなわの間に、わたしは座を外した。

 このお邸の大部分の人にとって、わたしはただの家庭教師だ。満座の前で別れの挨拶とかするような立場ではない。ほとんどの人にとっては、知らないうちにいなくなった方がいい。


 暗い渡殿わたどのに出ると、夏の夜気に包まれる。


――初めてこの渡殿に出たのも、真夏だったな~。


 思い出していると、密やかな声が追いかけてきた。

 大姫だ。


「大姫様。宴を中座なさったのですか」


「いいの。お父様がお見送りして来いと仰ったの」


 横にはけら男もいた。ふたり並んで、渡殿の真ん中まで歩いてくる。


「この真下で、俺、斎迩の君に励ましてもらったんだよな」


 ふいに耳のそばで声がした。


「に、にんざっ。び、びっくりしたぁ……、いつの間に後ろに来たのよ」


「へへっ。忍者っぽいだろ? 大姫様が大事なお話があるって。俺と雨彦が、渡殿の両端を見張るよ」


 宴の座から出てきた雨彦が、渡殿の手前で、ゆっくり頭を下げる。


 渡殿のアーチ、いちばん高いところで、わたしと大姫とけら男は対面した。


「斎迩の君。わたくしね、名前は、蜜子みつこというの。藤原ふじわらの蜜子。覚えてお帰りになってね」


「私は、秋津あきづという名をいただきました。清原きよはらの秋津です」


 貴族にとって最大の秘密、他人に知られてはならないタブーが、本名だ。特に女性は、両親と夫しか知らない。


――ああ、ふたりはもう、名を交わしていたんだ。そっか。よかった。


 驚きすぎて、斜め上の感想が浮かんだ。


「斎迩の君……?」


 遠慮がちに聞かれて、我に返る。


「あ、ああ、けら男だから秋津になったのね。それって名付け親は……」


「大姫様です。殿様からも父からもほかの名前の候補をいただいたのですが」


 照れくさそうに秋津が笑った。

 秋津は、トンボの古い呼び名だ。螻蛄けらはトンボの幼虫、ヤゴのことなので、まさに、秋津は大人になったけら男だ。とはいえ、秋津には「日本」という意味もあるので、壮大な名前でもある。


「わたくしの名前は、お父様とお母様から。お父様は、蜂子はちこにしたかったんですって。お母様が亡くなる直前まで、その名だけはダメだって反対し続けてくださったおかげで、蜜子になったのよ」


 わたしは大姫と顔を見合わせて、くすっと笑った。


「殿様らしすぎですね」


「ね? わたくし、お母様からはとても貴重なものを、二つだけいただいたの。命と、名前を」


 大姫がそっとわたしの手を包む。


「その名前を、斎迩の君に差し上げます。斎迩の君にはどれだけ感謝しても足りないわ。でも感謝だけでなくて、わたくしとけら男と、にんざや雨彦、あしひき丸、みんなで家族だと思うの。どうかわたくし達全員の名を、持って帰って」


「――ありがとうございます」


 やっと頭が追い付いてきた。

 平安貴族にとって、名を知られることは、生殺与奪権を与えるに等しい。本名で呪詛じゅそを行われれば必ず死に至ると信じられているからだ。

 大姫がくれた信頼の大きさに、胸が熱くなる。


「大姫様。わたしの本名は、斎木さいき桂南かなみといいます。ケイナン、というのは、異国の言葉で、必要な者、という意味があるんです」


 大姫の扇に、指で漢字を書く。


「必要な者……。本当に、そのとおりだったわ。でも、斎迩の君を必要としている人は、わたくし以外にもたくさんいるのよね」


「家庭教師にぴったりな名前でしょう?」


 わたしはにっこり笑ってみせた。


「大姫様、お幸せになってください。わたしがこちらに来られない間は、大姫様は幸せなのだと、ずっと信じていられます」


 静かに涙を流していた大姫は、そのまま、ゆっくりと笑ってくれた。

 わたしが思い出す最後の大姫は、いつも、この、花のような笑顔だ。

 きゅっと大姫を抱きしめる。

 秋津と雨彦を見つめて、わたしは踵を返す。

 渡殿を渡り終えて、任三郎と向かい合う。にっと笑う任三郎の頭をぐりぐりして、目の前の板戸を開けた。


 大姫と初めて名乗りあった夜、わたしはこの時代からお暇した。



これで本編は終了です。

ちょうど100話!!

もう少し余話が入る予定です。

ご愛読いただきありがとうございました!!

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