第八話 Happy
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久し振りにいい天気だった。僕はしっかりした朝食を作って今日のことに備えようと思った。朝一番で警察著に行かなければならなかったし、昼からは長崎さんも来る。色々考えると憂鬱だから何かに集中したかった。細かく刻んだベーコンを炒め、スライスした赤パプリカと玉葱を生のほうれん草と合わせ、ペーパーで脂ぎりしたベーコンをトッピングする。マヨネーズに牛乳を少しだけ足してのばし、クリームチーズを合わせてきつめに黒胡椒を挽いてドレッシングを作る。キウイとオレンジの皮を剥き大きめのダイスカットにして、無糖のヨーグルトを上からのせて、蜂蜜を軽くかけレモンを搾る。コーヒーを沸し厚切りのトーストを焼いた。発酵バターも用意した。
盲人の料理は工夫が必要だ。火加減は手のひらで確かめるしかないし、炒め物は火がどの程度通ったか分からないので苦手だ。自然と煮込み料理が多くなる。ベーコンは脂が多いので、火加減さえ間違えなければかりっとしたのが上手に出来る。
僕は新聞が読めないので、毎朝ネットでチェックする。ウィンドウズの設定を視覚障害者用にカスタマイズし、フォントも最大に設定してある。サラダを先に平らげ、トーストをかじった。政治家のスキャンダルと関西地方で連続放火、父親が自分の子供を虐待…いつも通りといえばいつも通りだ。若い女性の関連するニュースは無かった。油断してヨーグルトをパジャマに落としてしまった、こんな事はよくあるので気にしない。そのためにパジャマのままなんだ。食器を洗い、乾拭きして片付け、昨日の下着と靴下、そしてパジャマを洗濯機に放り込む。今の洗濯機は乾燥までしてくれるから便利だ。
掃除機を丁寧にかけ、靴を軽く磨いた。赤坂署にはラフな格好で行こう。ネイビーのポロにリーバイスのホワイト501、グッチのビットモカシンはスエードの物を選んだ。
赤坂署からタクシーで戻ると昼前だった。朝しっかり食べていたので空腹感は無い。
警察は思った通り乗り気ではなかった。こんな案件はこの署だけでも腐るほどあるし、第一この留守電だけでは失踪の確証がないとのことだった。忙しいので出来れば勘弁してくれといわんばかりだった。僕はもし後々事件性のあることが分かったときに貴方は責任がとれるのか?と尋ねた。とにかく捜索願は出させてもらった。僕はルーペを使ってややこしい警察の書類に色々書き込んだ。担当者は嫌みっぽく「あんたも大変だねえ、そんな目なのに別れたかみさんの事で色々さあ」といい、下品に笑った。知性の欠片も無い男だった。こんな奴に一刻を争う大事なことを頼まなきゃいけないのはとても情けなかったが、多かれ少なかれ警察なんてこんなもんだと直ぐ諦めた。
「おはようございます」長崎さんがきっちり10分前に入ってきた。玄関はストッパーをかけて開け放してある。長崎さんは爽やかな秋の空気と一緒に自然に僕の横へやってきた。「社長、昨日はすいませんでした。私、自分のことしか考えてませんでした。仕事には持込んだりしません。だから今まで通りここに置いてください」僕はああ、気にしてないよ、と言ってパソコンに向かった。長崎さんはあの香りをつけていた。クリニークのハッピー。渋谷の彼女と長崎さんの間には、何億光年の隔たりがあるように思えるが、それはあくまでも僕の主観であって、彼女達にとっては自分自身を演出するツールに過ぎない。携帯が不意に鳴った。
「ああ、俺だ。佐久間だよ。色々わかったぜ。あの等々力の家は然るべき手段をふんでしっかり処理されてる。今はあの学校の所有らしい。あとな、両親は兵庫県に転居届がでている。会社の登記はお父さんが清算人になって解散処理されている。取引先の人には夫婦で隠居すると言ってたそうだが詳しいことは分からない。今はその程度だ」僕はこちらの経緯と礼を言って切った。
「長崎さん、僕はこれから外出する。電話番を頼むよ。夕方には帰ってくる」
僕は歩いて東郷神社の近くにあるカフェに行くことにした。長崎さんと二人で居るのは気が重かったし、少し頭の中を整理したかった。
土曜日なので人通りが多かった。ラフォーレの脇から竹下通りを抜けるとそのカフェはある。僕は週に何回かここへ来て仕事の構成を練る。食事を済ませてしまうことも多い。この店のオーナーとは懇意で、居心地がすこぶるいい。ドライカレーのランチプレートとアイスカプチーノを何時も注文する。昭和時代のスナック・バーをイメージしてるからか、天井の隅にテレビを吊り、昼間は付けっ放しにしている。
香織の両親が健在なら今回のこととは関係ないのかも知れない。しかし隠居して田舎暮らしするような両親ではなかった筈だ。香織をひいきにしていた客一人一人を当たるか。あの博美というホステスにもう一度会ってみるか。今この時間じゃ迷惑だろうが仕方ない。彼女の携帯に掛けると以外にも直ぐに出てくれた。とてもいい感じの受け方だった。
「かかってくるような気がして待ってたんですよ。私そういうの結構鋭いんです。里佳ちゃんのことは全く解らなかったんだけど。どうですか?何かわかりましたか?」僕がある程度のことを説明すると、これから会わないか、と言い出した。僕は君が迷惑でないなら会って香織についていた客のことについて訊きたい、と云った。
「平気ですよ、私あの店ではアルバイトだから昼夜逆転の生活ではないです。それより待ち合わせですね。何処まで行けばいいですか?自分に都合のいい場所に決めてください。それとも駅の改札とかがいいですか?移動が大変でしょう。お住まいに伺うのは失礼だろうし…」細かい気配りが嬉しかったが、事務所には長崎さんが居るし、丁度原宿に居るんだから渋谷でも新宿にでも出れる。彼女に何処から来るのか尋ねると二子玉川だと言うので渋谷のセルリアンホテルで4時に待ち合わせることにした。僕は長崎さんにセルリアンで人と会うことになったから定時の6時にあがるようにと連絡した。鍵はスペアで掛けてポストに、何時もの通りだ。
博美は約束の時間にに颯爽と現れた。僕の目にも解る、濃い赤のミニのスーツに、黒いシルクのキャミソールを合わせていた。昨日の夜とはまた違って、シックでゴージャスだった。博美はさっと僕の腕を取ってコーヒーラウンジに導いた。自然で慣れた動きだった。
「私の友人の女の子で全盲の子がいるんです。だからこういうの、平気なの。っていうか、何でもしてあげたくなっちゃう。アキラさん、素敵だから」突然自分の名前を言われてびっくりした。「昨日のお友達がそう呼んでたでしょう?」
香織の客のうち最も店に通っていたのは三人で、その中でも博美が連絡をつけられるのは二人だった。直接番号は知らないものの、一緒に来る事の多い客やホステス仲間に頼んで間接的に折り返し連絡してもらうよう頼んでいた。手際が良くて無駄がなく、博美が賢い女なのだと解った。
「後はかかってくるのを待つだけだけれど、土曜だからどうかな。家庭サービスに忙しいかもね。どちらにしても少し待つ必要があるから、今日は夕飯ご一緒しましょう。ね、いいですよね」僕は承諾した。今日中に何らかの手掛かりが欲しかった。
博美は僕の病気のことを色々訊いた。そして自分の友達とよく似ているといった。
「網膜の病気なのでしょう?きっと一緒ね。黒く色素が沈着していく病気。アキラさんはまだ一人で移動できるけど、その子はちょっと無理かな。でも…二人とも頑張って生きている。そこが素敵。私も負けられない、って思っちゃう」そういって僕の左手の甲にそっと触れた。
僕と博美は食事の為場所を移すことにした。そしてそこにその友達を合流させていいか、と博美は僕に尋ねた。僕は別に構わない、といったがちょっと嫌な予感がした。タクシーで麻布十番のモンスーンカフェに移動した。友達はちょっとだけ遅れてくるみたいだった。生ビールの二杯目を注文した時友達が到着したらしく、博美が店先まで迎えに行った。連れてきた女性は簡単な挨拶をした。照明が暗くて姿かたちが判らなかったが、紛れも無く、僕の愛する、渋谷の「彼女」だった。




