第五話 有楽町で逢いましょう
銀座の伊東屋から出た頃には薄暗くなっていた。会社帰りのサラリーマンやOL、誰もが週末の夜を前向きに楽しく過ごそうという意気込みと期待を抱いているようだった。僕はプリンチペに向かおうとして一番近い横断歩道の歩行者用信号を探した。杖を持っていることと、薄暗い夕暮れにサングラスで困っている視覚障害者に見えたのだろう、初老の男性が「どちらまで行かれるのですか」と声を掛けてくれた。僕は待ち合わせの為プリンチペまで行くのだ、と説明した。
「そうですか、幸い方向が同じだ。一緒に行きましょう」そういうと僕の背中を手のひらでそっと添えた。
「貴方失礼だが…どんなお仕事を?」
「デザイン事務所を個人で。気楽なものです」
「なるほどどおりで、君はスーツの趣味がとてもいい。言い方が悪くなってしまうが…とても視力のハンディを抱えてるようには見えなくてね、そのギャップに思わず声を掛けてしまった。そのスーツはアルマーニだろう。シャツはバーニーズだね。洗練されていて理知的だ、そしてそのゴーグルタイプのスポーツグラスが君を戦略的な男に仕立てている」
「お詳しいんですね、僕は着道楽なんです。みすぼらしい恰好だけはどうしてもできない。でもこの眼鏡はあくまで病気用、というか、光が苦手なので僕には必需品です。それに色々なところにぶつかるから、スポーツタイプはタフで使い勝手がいい」
「なるほど。いろいろあるわけですな。さあ着きました。お別れのようです。何方と待ち合わせを?」
「別れた家内です。久し振りに会うのでちょっと気が重い」僕がそういって笑うと、彼はふむ、といった感じで、
「そうですか。事情はどうあれ優しくしてあげることだ。有楽町は恋の町、だからね。それじゃあ、グッド・ラック」そういって駅のほうへ行ってしまった。
30分待っても香織は来なかった。僕は携帯の番号を訊かなかったことを今更ながら悔やんだ。ここから動けないのは困るな。かといってどこかで時間を潰すわけにもいかない。あと15分待ってみよう。
香織は器用な女じゃない。今までどう過ごしてきたのだろう。まさか以前のあのどうしようもない男と付き合い続けるのは、あの両親が許さない筈だ。友達の結婚式で一緒になった時は、新郎側と新婦側に離れて座っていたので殆ど会話をしなかった。
去年の暮れぐらいだろうか、代理店時代の同僚が香織らしき女を六本木のクラブで見かけた、と教えてくれた。僕は何も考えずあっさりと否定した。彼女は金の為に媚びたりへりくだったり出来ない、最も水商売に向いてない女だからだ。
もしその話が本当で、何らかの事情でそうせざるを得なかったなら、なにか困ったことになっているのかもしれない。両親にも頼れず、僕にしか頼めないことなのかもしれない。まあいいさ。さっきの人も言っていた。どんな話であれ、最後まで優しく話を聞こう。
僕はそれから長崎さんのことを考えた。彼女はどうして僕のような男を好きになったのだろう。周りには若くて健康的で前途有望な男が沢山居るだろうし、彼女程の美貌なら誰も放って置かない筈だ。恋愛の経験も多少は有るだろう。わざわざ僕を選ぶ理由が無い。もしあるとすれば、僕たちは環境的に近すぎたのかもしれない。事務所は僕の住まいでもあって、できるだけ生活感のないよう心がけているのだけど…それに何時も同じ部屋で二人きりだ。まさかそんなことで恋に堕ちるとも思えないのだが、若い女の子はもともと理解できないところがある。そのうち新しく好きな人が出来て、今日のことなんてどうでも良くなってしまうだろう。
駄目だ、香織は来そうにない。元々時間にはルーズだった。帰る前に、もしかして事務所の留守電に何かメッセージが入ってるかもしれない、そう思って自分の携帯からリモート操作で留守電を聴くことにした。
僕と長崎さんが事務所を出た直後から何本か仕事関係の問い合わせが入っていた。次のメッセージが6本目で最後だ。17:49分…
「あなた…ごめんなさい・・・もうなにもかもおしまいなの…。さようなら」
間違いなく香織だった。